2016-12-10

《まどろみ》と《めざめ》とのあいだに


先日「べけれ」の話を書く際、なにか適当な例歌があるかもと思い森岡貞香に当たってみた。あの紆曲に身をくねらせるような文体ならば、のどごしの悪そうな「べけれ」もぐいぐい呑み込んじゃうんでは?と期待したのだ。

で、結局ちょうどよい歌はなかったのだが、その代わりこんな歌に行き当たった。


椅子に居てまどろめるまを何も見ず覺めてののちに厨に出でぬ  森岡貞香

まどろみの間は何も見なかった、という表現が妙にシュール。さらに《醒めて後、出でぬる廚》が、本人の覚えていない夢の残存をいまだ引きずっている風で不気味。森岡は文体だけでなく時空の構成法も眩惑的だなあと感心する。一方これとよく似た歌に

椅子にゐてまどろみし後水差しに水あるごときよろこびに逢ふ  玉城徹

というのがある。《いまここ》に対面する人間は線条的時間を解さないから、《まどろみの世界》と《めざめの世界》にさしたる違いはない。ただ人間は《ループする現在》の眩しさに目をしばたいているに過ぎないのだ。