2016-12-18

ユーモアの外で(2)「参加」


四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』におけることばあそびがいわゆる〈ユーモア〉や〈ヒューマニズム〉から遠いものである理由は、それが人間の尺度ではないものへの供物だからである。

そのたわむれはときに天使的(形而上学的)にも感じられるが、これについては四ッ谷が近年とりくんでいる数学やフーガの研究が関係していそうに思う。

しかし今日書くのはそれではない。本書の詩序にあたる連作「参加」のことだ。

うすごろもはらりといらんいらんの木  四ッ谷龍
亡き人の呼吸(いき)も聞こゆる森林浴
大空を鳩にあずけて薔薇づくり
露の世にきりりと弾けりヴァイオリン
ティボー弾く古き音色へ参加しぬ  

ここに描かれた情景は、ことあるごとにふりかえり、ていねいに耕された記憶のような〈濃い日陰特有の親しみ〉を読者に感じさせる。うすごろもの軽やかなうごきを介して香りくる、憂いをそっと癒す植物いらんいらん。大空を鳩にあずけ(すなわち空に想いを馳せることなく)土をいじり額に汗する作者。露の世に聴くティボーはカザルスやコルトーとあわせたベートーヴェンの「大公」だととても嬉しい。これらの句が人と生活をわかちあう歓びを感じさせるがゆえに、ティボーの演奏もごく少人数の、気の知れた仲間とのそれであってほしいのだ。(だが彼らはいまどこにいるのだろう?)

子供等の脱いだ靴へと参加しぬ  四ッ谷龍
ゆうぐれのゆううつの眼へ参加しぬ
ガラス器の花の模様に参加しぬ
白鳩の冷やかな瞳に参加しぬ

これらのことばには、世界の深い影がものうげに揺れかかっている。作者はじぶんを取り囲む存在にあいさつし、みずからを投げかけつづける。おそらく、ここに存在しないものが、ここに存在するものを介して、彼に語りかけやまないために。

そして、やがて、私たちがこの世を去っていったら、
残った者たちが、畠のはずれの、あの青い境界石に座るであろう。
また、彼らが仕事から戻って、テーブルに着くとき----
どのテーブルも、水差しの陶器も、語りかけるであろう、
小屋の壁の一つ一つの校木(あぜき)が、語りかけるであろう。
(ジョナス・メカス「古きものは、雨の音」)