2016-12-05

連句と『オルガン』


最近、連句への興味が強くなりすぎて困っている。きっかけは『川柳時評』で小池正博さんが野間幸恵さんの「琴線は鳥の部分を脱いでゆく」という俳句の構造を、

琴線はわが故郷の寒椿
鳥の部品を包む冬麗
うすもののように記憶を脱いでゆく

と、連句風に再構成してみせていたこと。この三句の渡りを見て、ああどこかの隠れ家でこんな大人のエレガンスが営まれているのか、と恋するような気持ちになった。さらにはこちらの書誌一覧も読んでしまったために、これは下手に近づいたらやばいかも、俳句を書く時間がなくなっちゃう…と思いながらびくびく暮らしているのである。そんなところへ『オルガン』7号が届いた。開いてみると、なんと連句の特集だ。

もっとも、幸か不幸か、この号で巻かれていた「オン座六句」にはじぶん好みの快楽はなかった。こっちはぐっと背伸びして遊びたいが為の連句なので、過度の簡略化は残念以外のなにものでもない。さらにめくるめく旅の享楽にも浸りたいゆえ、場面展開はより鮮やかな方がいい。自由律の導入は斬新でとても惹かれるものの、気ままの愉悦をより深く味わうためにもそれ以外の連ではもっとマゾヒストでいたい。こんなことを書くとそれなりに連句に通じているみたいだが、実は2度ほど参加したことがあるだけで(そのひとつがこちら)ルールもよく知らない。だからこの所感は、今回巻かれた「オン座六句」の文字並びに恋できるかできないか、ええ、ただそれだけに拠っているのでした。

ところで今号の『オルガン』、俳人たちの作品の気分がすごく似ている。ふつう「似ている」というと資質・方法・趣味他なんらかの要素がカブっていることを指すのだろうが、彼らの場合はそういうのではない。まるで大きな模造紙を床に敷きつめて、みんなで愉しく絵を描いて遊んでいるうちにお互いの線がまざってしまっていた、という似方である。それぞれの確固たる流儀で書かれた絵の中に、しかし他人のうっかりつけた手形がそのままになっている、というか。あまりに仲が良さそうで、ちょっとびびる。