2017-01-15

未決への決意


荻原裕幸に「世ハ事モ無シ」という20句連作がある。

世界征服やめて何する花は葉に  荻原裕幸

連作の冒頭が、いきなりパフォーマティヴな香りの濃厚な初句7音。凄く肌にあう。わっと長い棒を振り込まれたみたいで血が湧く、というか。

また「世界征服」という派手な棒を振り込みつつ、そのすぐあとに「やめて何する」と翻ってみせるのも荻原流。「世ハ事モ無シ」はそのタイトルが示すように、ある種の諦観を匂わせる連作だ。

片蔭のこれはマヨネーズの蓋か    〃 
見つからぬリモコン一つ秋の暮    〃
一同皆けむりのごとし去年今年    〃 
行きつけの書店なくなる春夕焼    〃

こうした「ポップさと欠如との同居」や「抒情への、すっと身を引くような距離のとりかた」から『あるまじろん』を思い出さない人は少ないだろう。

紫陽花に来て止まりをり郵便車    〃

どうして「紫陽花」と「郵便車」との組み合わせが〈すんでのところで爆破されそこねた世界〉めく緊張感を感じさせるのかは不明である(いや本当は不明でないのだが、今夜はそういうことにしておく)。だが作家とはそういったレシピを発明する人(塚本邦雄はこの手の膨大なレシピを残して死んだ)のことであるとすれば何のふしぎもない。そういえば、荻原にはこんな歌もあった。

戦争が(どの戦争が?)終わったら紫陽花を見にゆくつもりです
冬陽あびて世界ほろぼすひとことを配りわすれた郵便車たち

全てが終わってしまっているはずなのに、なぜか終わることの許されない我々の延命的日常、といった視座はつねにこの作家についてまわる。すなわち荻原作品の根幹には、消滅願望という超越的な自我と、その不可能をはっきりと受け入れる理性的態度とのあいだの〈引き裂き〉が存在し、また同時にこの〈引き裂き〉が結論として作者にうながす〈未決に留まる決意〉は、荻原作品のエチカそのものを形成してもいるのである。

ざくろ咲くひつぎの窓の蝶番  荻原裕幸