2017-02-01

言葉の光について


子どもの時分は、生家にあった本をたくさん読んだように思う。

生家を離れてからはめっきり本を読まなくなった。

シンプルに言うと、貧乏になってしまったのである。渡仏後はますます困窮し、結婚してから俳句と出会うまでの十数年間に買った新しい本はわずか2冊。もし日本に住んでいれば、お金がなくても図書館にゆけばいい。が、フランス住まいだとそれもできず、若いころに手に入れた数少ない本を、ずっとくりかえし眺めてきた。

おそらく俳句のことがなければ、ふたたび本を買うようにはならなかっただろう。CDやDVDを買うことも、映画を観ることも、飲み歩くこともないから、本当に俳句だけが特別なのだ。

本は、じぶんにとって、今もって遠い存在である。きのうの日記で「手元にある本を、なんども読むのが好きだ」と書いたのは全くもって生来の嗜好であるが、また同時に現実の要請でもあるに違いない。

そんな訳で、じぶんのところにやって来てくれた句集を、奇蹟のような心もちで眺めている。

一冊の句集の中には、おのおのの俳人による汲み尽くせない世界が広がっていて、その世界に触れるたびに、どれだけ自分が長いあいだ本から遠くはなれた場所で生きてきたのか、どれだけ言葉のもつ光を欲し、またおいそれと手に入らないそれを憎みつつ愛してきたのかを身震いするほどに思い知らされる。

それはそうと『フラワーズ・カンフー』を編むとき、わたしはこの本の暗いモチーフを、言葉の光、知性の光でなにがなんでも明るくしてみせようと思った。それがうまくいったかどうかはわからない。ただわたしはあいかわらず光に飢えていて、おのれの内側をどれだけ強く照らしても一向に満足できず、暴力的なまでに一閃のヴォルテージを上げつづけた結果、古代「影」の意味が「光」であったように、極限の眩しさの中でますます闇に目盲いている。

たれもかれも幻を視るまぼろしぞ 眩し まぼろしなればほろびず  小池純代