2017-03-18

俳句の「規則」について




「規則」というのは規則性(=法則性)とは全くちがいます。むしろ規則性のないところで「規則」は自己肥大化する(校則とか)。

昔レヴィ=ストロースがインセストの禁止を発生論的にではなく形式的構造として理論化したとき、各界(?)から「現実と違う!」と批判されましたけれど、彼が提示したのは「規則」ではなく規則性であって、これは言葉が文法という規則性を有している(それゆえ現実の言葉は豊かな「例外」に溢れている)のと全く同じ。すなわち規則性(=法則性)というのは実在体ではなく、形式体系なわけです。

ところで、へんてこりんな、また場合によっては大いにいかがわしい姿をした俳句を読んだときに「これは俳句だ」「いや俳句じゃない」といった議論が成り立つのはどういうことかというと、これは俳句のもつ規則性(=法則性)からの演繹的検証を行っているんですね。俳句の規則性(本質ではなく。為念)を仮想し、そこから目の前の句を分析するというのは非常に知的な営みです。ちなみにカントが「理性」ないし「判断力」と呼ぶのはこの能力のこと。一方「規則」にしたがってものごとを評価する能力は「悟性」と呼ばれ、「理性」および「判断力」から厳しく区別されています。

『純粋理性批判』曰く「知的というのは理性と判断力があることである。なのに世間で頭が良いということになっている偉い人たち(たとえば裁判官)には驚くほどこれが欠けてるんだよね。彼らがとんでもなく狂った判決を平気で下すのは、悟性的にしか物事を見極められないから」だそうです。カントって素敵。