2017-03-26

『ただならぬぽ』についてのメモ(2)


(1)で書いたような特色が表に出ていない(内在化されている)句においては、自己投企的な言葉の組み立てが意識されているようだ。
(※投企(とうき)とはハイデガーの用語で、この世界に投げ出されてある人間(被投的人間)が、常に自己の可能性に向かって存在しようとすること、自分の存在のしかたを自分で創造すること、を意味する。)

この投企は、自己の在り方を「選択」する「自由」と「責任」といった概念を呼び寄せるが、この図式はそのまま田島の作句の姿勢にも反映されている。

もし『ただならぬぽ』の批評を書いていたら、メモ(1)が第一部(基礎論)で、メモ(2)の上述部分が第二部(展開論)になっていた。実際、田島句の「自分の存在のしかたを自分で創造する」といった投企的性格はざっと整理してみるだけでも読み物として面白いと思う。

なお『ただならぬぽ』における〈世界の肯定〉は作者の倫理性(「選択」「自由」「責任」)の表明でもある。これに関しても書く余裕がないのが残念。さわり、というのとは少し違うけれどこちらではこの倫理視点からの分析を3句ほど試みているので、よろしければご一読ください。

●以下は、かなりくだらない話。本を読むときって、ぼんやりいろんなことを考えてるじゃないですか。それで、ぼんやりしてたら、

ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ
光るうどんの途中を生きていて涼し
の二句が、ふとあたまの中で並んだんですね。そのとき思ったのが「このふたつって、舞台空間とイメージ展開が同じだよなあ。もしかして、あれ? ただならぬ海月って精子のイメージ? ってか完全にかぶるよね。うーん精子の旅ってたしかにワンダーだけどさ。でも単純すぎる!」ってこと。ま、こんなことを平気で書けるのは、どちらも本当に素敵な句だからなんですけどね。