2018-01-20

文芸評論とはフリースタイルである・前編


ここ数ヶ月間、ひとり遊びが嵩じて、漢詩にまつわる論文を毎日あれこれ読んでいるのですが、学問の極意が「分類」にあることは古今東西不変だなあ、と改めて感じています(これ、学問がモノとモノ、記号と記号との関係を扱う以上、とうぜんなのですけど)。

「分類」にはその人の知的センスが露骨に出ますよね。また今まで縦に「分類」していたものを横に「分類」するだけで、新しい学派や学問が生まれてしまったりする現象も面白い。

フーコー『言葉と物』の導入部では「分類」による知のあり方の一例が、とある支那の百科辞典を元に説明されます。


動物は次の如く分けられる。(a)皇帝に属するもの、(b)香の匂いを放つもの、(c)飼いならされたもの、(d)乳飲み豚、(e)人魚、(f)お話に出てくるもの、(g)放し飼いの犬、(h)この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k)駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l)その他、(m)いましがた壺をこわしたもの、(n)遠くから蠅のように見えるもの。

『言葉と物』は言葉がいかにして権力装置たりうるかを語った本ですけれど、そうしたハードな本論の前に「エピスステーメーの相違によってまるきり違う世界の相貌が立ち現れる以上、人間はまた言葉によって自由になりうるのだ」ということを語り忘れていないってのが、ああ、いいなあと思いますし、上記の(本当の)出典にもユーモアがあるし、世界をクールに分析しつつそれに対する包容力を失わない本人のキャラも興味ぶかいところです。