2018-01-21

文芸評論とはフリースタイルである・中編


ところで先週『俳句年鑑2018年版』で堀切克洋さんの「『戦後』からの訣別を」を読みました。これ、とても見晴らしの良いレビューなのですけど、そこで堀切さんが関悦史さんの『俳句という他界』を「貴重な書」とみなしつつも、そこでの現代思想用語の使い方を「多くがキーワード的であり、引用の根拠が弱々しい。あとがきにも帯にも『評論集』とあるが、少なくとも私の基準でいえば、これはあくまで『エッセイ集』である」とまとめているのを見て、あ、そういう風にかんがえるんだ、と感じるところがありました。

なんだか学術論文指導の寸評みたいだな、と思ったんです。

学術論文の書き方は知っておくと便利(知らないとたぶん厄介)。とはいえ文芸評論とはフリースタイルの演技。決して規定演技ではありません。きれいな八の字や二回転半を飛ぶより、失敗した四回転の方が価値を持つことも少なくない。単に挑戦して偉いぞってな「蛮勇を讃えましょう的価値」ではないですよ。そうではなく、その失敗した四回転が文学それ自体の可能性を蘇生させることにつながりうる、といった批評におけるきわめて本質的な価値です。

関さんが『俳句という他界』で使用したいくつかの語は、俳句における新たな「分類」を試みてのことでしょうが、堀切さんが具体的に名前をあげた前半の作家論については、作品の別の相貌(読み方)がよく創案されていると思います。

またもし仮にキーワード的だったとしても、文芸評論がアクロバティックであっていけないわけがない。そもそも文芸評論ってキーワードを放り込むものです。このキーワードは哲学における概念に相当するわけですが、それを展開・発展させるのは批評の現場全体であり、また何が育てるに足るキーワードかを判別できることが批評の才でもありましょう。

キーワード(概念)の探求とその相互批判は、批評の現場を活性化させます。また今の文芸評論において最も弱いのはジャンル横断的な迫力をもつキーワードを仕掛けてゆく野望じゃないかな、なんて思ったりも。

ともあれ文芸評論がエクリチュールのあり方も含めたアクティヴな(とうぜん失敗込みの)表現活動であることは、それらが力を持っていた時代の本を開けばわかります。

文芸評論が社会で力を持たなくなってほんと久しい。周囲を見回してもブックレビューと学術論文風の仕事が多く、言葉の手順が一定の型に収まっている印象。そんな折たまたま目にした堀切さんの、評論に対する個人的基準が明快だったことで、じぶんの頭の中をぼんやりを整理するきっかけを得、上記をメモ書きしました。