2018-02-28

Tombe la neige





コート・ダジュールは30年ぶりの寒波らしく、このところ毎日雪が降っています。ひとひら、ひとひら、が、すごく大きいの。

さようならが機能をしなくなりました あなたが雪であったばかりに  笹井宏之

2018-02-27

ホイ! あるいは『バスハウス』における表象の臨界。





マイナの写真を眺めていたら、あまりにかわいすぎて、他にもかわいい鳥の写真を貼りたくなりました。で、三光鳥を。

失恋に三光鳥がホイと言ふ  小林貴子

作者自身による、この句にまつわる笑える話がここで読めます。

* * *

昨日の石井辰彦『バスハウス』について。ラフ・アイデアとはいえ、あの書き方では舌足らずだと気がついたので、少し付記。

エロスを扱う作家に比べ、タナトスを扱う作家というのはそういません。これは性ないし死の臨界に広がるタナトスが、想像界(イメージ)や象徴界(言語)に囲い込まれないところにある、いわば現実界(ありのままの領域)であるがゆえに当然のことで、平たく言うと、タナトスというのは語り損なうという形でしか語れない。

石井辰彦『バスハウス』はエロスに加えてこのタナトスをも描こうとした作品ですが、ラストの数ページに結実したそのありさまは必見です。

そこでの主人公は、みずからを供物として火に捧げることを促すかのようなsvāhā(स्वाहा)という響きを耳にします。この語は本来、バラモン教の儀式において天上のすべての神々に捧げられた供物の事らしいのですが、この本では〈背徳者〉である主人公を糧とした火が、そのまばゆい輝きで世界を浄化する光景まで描かれているんですよね。

虚空に消えゆく星のごとく散りばめられた、美しきsvāhāの木霊。おそらく石井があのシーンで描こうとしたのは、イメージと言葉とを放擲した、性&死の臨界点とその賛美だったのでしょう。

短歌による短歌のための表象構築にとりくむ石井が、にもかかわらずこの本のラストを決して短歌とはなり得なかった語で飾ったことを、わたしは冷静な判断だったと思いますし、またラストの見開き頁には、究極のドラマタイズとその不可能性との両極が奇跡のように現前しているとも思います。

「わが、灰は、海に、撒け」とて死にし友を、燒きぬ 花咲き滿てる岬に  石井辰彦

2018-02-26

電磁波とガブリエル。



編集人・江田浩司、副編集人・生沼義朗の文芸誌「扉のない鍵」。

今後の展開が楽しみなのは江田浩司「石井辰彦論へ至るための序章」。石井の短歌は一冊にまとまった研究書があっても不思議じゃないですよね。テキストとしての完成度からしても、実は研究対象として扱いやすいはず。

例えば、今てきとうに思いついたことを書きますと、エイズ・クライシスの文脈を明確に反映した『バスハウス』を中心に据え、『バスハウス』以前と以後との主題と文体(価値の表出の仕方)の変移を比較してみる、なんてアイデアはどうでしょう?

『バスハウス』はバロック的な美や高貴と、その種の価値に付帯する反動性とを併せ持った作品集です。もちろんそれは確信犯としての反動であって、石井は『バスハウス』の連作が孕む審美主義的通俗性(汚辱を美へと変貌させる類の価値転倒)といった弱点を、あたかも晩年のロバート・メイプルソープのように作品の質を極限まで高めてゆくことで正面突破(=無効化)しようとします。

この正面突破にあたり繰り出される種々の技は、石井の作品を読む醍醐味のひとつ。とはいえわたし自身はそうした技が、より自由自在な遊び心ないし傷つきやすさにおいて花開いた小品がより好みで、例えば「We Two Boys Together Clinging」や「犬二匹ま」などが、実はこの作者の飾らない呼吸なのではないかしら、などと想像したりも。

閑話休題。「扉のない鍵」の玲はる名「鍵」から4首。

潮風がノイズばかりを拾ふからアンリ・ラ・フォンテーヌの屑籠へ    
指といふ鍵を世界に可視化せよ 蜂の巣といふ鍵穴深く
向日葵の種、一斉に胸に湧き弾け朽ちたる肉片の道
経典(うつは)ごとレンジへ入れて電磁波が鞭打つ床を這うガブリエル

特に最後の歌。こんな壮絶で滑稽で救いのない鞭打ちのイメージを思いつくなんて、すごいなあと思いました。

2018-02-25

ハイク・フムフム・ハワイアン





今週の週刊俳句より「ハイク・フムフム・ハワイアン」なる雑文スタイルの連載を始めることになりました。

この連載タイトル、紀野恵の連作「フムフム・ヌクヌク・ハワイアン」とそっくりです。しかしそこから借用したわけじゃあなく、ハワイ州の州魚フムフム・ヌクヌク・アプア・アから発想しました。

第一回は「新年、マイナのなきごえより」。上の写真の、自宅庭園でくつろぐ鳥がマイナです。日本語ではインドハッカと呼ぶみたい。

ハワイにおける日系移民俳句史については、少し検索すればあらかたの流れがわかるゆえ、解説めいたことは書かないつもりです。それでなくても移民による伝統文化活動というのは、総じてステレオタイプに語られがちでしょう? そういうのってとても残念に思うので、あらたまった本では扱われない、略史からこぼれおちたエピソードを当時の新聞から採取して語れたらいいな、と考えています。

2018-02-24

連鎖&レ・ヌビアン



さいきん、なかはられいこさん&西原天気さんと連鎖という遊びをはじめました。はじめたといっても、遊び方がまだよくわかりません(三人ともわかっていない)。なんとなく、大人の自由帳みたいな感じにしたらいいのかな、なんて思い描いているところです。

それはそうと前回のディオプですが、フランスのユニットにレ・ヌビアンという姉妹がいまして、彼女たちに《Immortel Cheikh Anta Diop》という曲があるんです。この人たち、音楽も悪くないのですけど、なによりファッションとメイクが素敵。モード、ストリート、エスノ、ロリータ、なんでも自然に着こなしてしまい、まさしくアフロフランセーズここにあり、といった感じです。

(2月25日追記)ここに貼っていた動画は、日本からは著作権法の関係で見られないようなので外しました。でも何もないとさみしいので、きのう見物したカルナヴァルの写真を。ええとこれは、雨の中、メキシカン集団が自分たちの出番を待っているところ。

2018-02-22

ディオプ『ネグロ国家と文化』





シェイク・アンタ・ディオプ(1923−1986)はセネガルの歴史学・人類学者。フランスではかなりの有名人です(アフリカでも高名で、ダカール大学もシェイク・アンタ・ディオプ大学が正式名称)。昨夜十数年ぶりに読んで、日本語の資料がほしくなってググってみましたら、日本ではまさかの無名だったので紹介することにしました。

この人は最初、物理学を学ぶためにソルボンヌ大学に留学します。で、バシュラールおよびジョリオ=キュリーの生徒になるのですが、あるとき西洋の古代エジプト研究を知って「え?」と疑問を抱くんですね。例えば、図版に載っている壁画の素描が本物とちがう(黒人と白人の位置が入れ替わっている)とか、ヘロドトス『歴史』に登場するアフリカ言語の翻訳が現地の地理や語法を無視しているとか、そういったことに。

で、あれよあれよという間に、西洋における古代エジプト学の政治的改竄を言語学的に論破しつつ、正面から告発する学者になるのでした。

他にもフランツ・ファノンと一緒にサークルをしたり、文明のアフリカ起源説を展開したり、物理学者としてもコレージュ・ド・フランスで核化学研究を学び、セネガルのダカール大学に職を得てからは放射性炭素年代測定考古学に乗り出したり、と、まあそんな感じの人です。

写真の本は1954年の処女作『ネグロ国家と文化』。マルセル・グリオールの下、人類学の博士論文を準備している最中に出版した意欲作で、当時大反響を呼びました。付録に「相対性理論」の要約や「ラ・マルセイエーズ」などが仏セ対訳で載っているのも面白い。学問の進歩によってディオプの論考も今や古びてしまいましたが、にもかかわらず植民地以前のアフリカ文明史研究における先駆的価値はいささかも衰えず、今日のアマゾンを覗いても部門売り上げNo.1だったのには、うーんさすがに驚きです。

ちなみにフランス語の文章は、とてつもなく下手です。論の展開も徒手空拳っぽくて、普通の文系の論文の感覚で読むと死ぬほどハラハラします。でも、書かれることの必然性が放つオーラにあふれていて、読み物としては今でも充分に面白い。どこかの出版社で翻訳出してくれないかしら。

2018-02-21

オンフルールの一枚





写真の整理をしていたら、オンフルールの町が出てきました。

ここは昔住んでいたル・アーヴルの隣町。市バスで25分くらいの距離でした。この町にいる梨の堕天使(なんのことかわからない方は『フラワーズ・カンフー』の最終章を読んでください)が好きで、また会いにいきたいのですけれど、こういう夢って叶いそうで叶わない。

それにしても、なにがなんだかよくわからない写真ですね。動画をつけます。ラストシーンに映るのが、セーヌの河口にあるル・アーヴルとオンフルールとを結ぶノルマンディー橋です。

『空想家』とはとてもきちんとした良い人たちのこと。
さう言つたのはわたしの大好きな人。海鳥の伯父さんをもつ音楽家だ。
(「オンフルールの海の歌」)

2018-02-19

割れた皿を眺めていたら





ときおり日本の若い男性とメールする機会があるのですが、世間話をしていると「外国にはあまり行きたくない。治安悪そうだから」という台詞を本当によく聞くんですよ。

で、お金がないとか興味がないとかではなく「危ないから」というのがわたしには地味に衝撃なんです。

自分は「死んでもいいから行きたい」と思うタイプなので、死にたくないというのがふしぎみたい。

でも、こういうのも昭和の感覚なのかもしれません。

うちの母は「わたしは国禁を犯してでも、あなたを外に送り出すから。早ければ15歳で」と娘に向かって言うような人だったんですね。だから小学生の時にはすでに、自分は15歳で脱藩(?)するのだという覚悟がありました。じょうだんでなく。あと、未知の世界に出れば、そりゃあ死ぬかもしれないけれど、でも自由を知ることができるのよ、あなたが死んでもおかあさんは我慢するから、遠慮なく好きなところに行きなさい、と言われたり。

こういうことを娘に向かって言うのって、つまり、それだけ当時が女性にとって、より難しい時代だったのでしょう。

2018-02-18

馬哇(マウイ)新聞




きのうの件。なぜハワイの資料を読んでいたかといいますと、学生の頃、当地の日本移民関係資料を編集するアルバイトを2年間ほどやりまして、そのとき以来ぼんやりと日系人社会に興味があるのでした。

アルバイトの内容は「馬哇新聞」のすべての見出し・リード・広告文などをワープロに打ち込んこんで書物にするという作業。この新聞は1906年にマウイ島のワイルクで創刊され、週二回の発行。毎回8頁くらい。1928年に英語の頁が追加され、最終的に1941年に廃刊になりました。

ちなみにこの作業、思っていたよりずっと根気が要りました。なにしろ昔のことですから、旧字をJISコード表から拾って一字ずつ入力しないといけないんですよね。しかも予算の都合上、雇われているのはわたし一人。雇い主である神学部の教授に「もしも予算がなくなったらどうなっちゃうんでしょうかね」と尋ねると「そうなったら、僕が、仕事の合間に自分でやります」と。

あれから20年、今ではスタンフォード大学内にある「フーヴァー戦争・革命・平和研究所」のデジタルアーカイヴで閲覧できるようです。ジャパニーズ・ディアスポラ・イニシアチブの邦字新聞デジタル・コレクションにはハワイ州だけで33社の新聞が出ています。もちろん全て保存されているわけではなく、馬哇新聞も4年分しかないのですけど、デジタル・テキストもついていて、すごい。

2018-02-17

椰子の風に吹かるる日





「オルガン」12号。特集は外山一機×福田若之の対談。超エモーショナル。外山さんの隠れファンゆえ舐めるように三回読んだ。週刊俳句第565号の福田若之「俳句を『遺産』として扱うことについて ベンヤミンのテクストとその翻訳を手掛かりに」はこの対談のサブテキストにもなっている。浅沼璞×柳本々々の往復書簡は『好色一代男』の、

夕日影朝顔の咲くその下に六千両の光残して  世之介

が、うん、イカれているな、と頷いた。

* * *

外山さんの発言を読んでいて思い出したのですが、以前ハワイの日系人俳句を読んでいたときに、ひとつ興味深いものとしてトイダ・エレナ・ヒサコ氏の「椰子の葉陰にて : ハワイにおける日本人移民の俳句」という論文を見つけたんです。少し引用します(全部読みたい方はこちら)。

椰子のしかゝる屋根の実をもいでいる  見田宙夢
珈琲熟るる里静かなり騾馬の声  横山松青
空こそマンゴの花に澄み渡りたれ  古川文詩朗
タロ葉ゆらゆら鉢の金魚が暮れる  藤原聴雨

自由律俳句もありました。丸山素仁『句集 草と空』から。

ずうっと草が空へゆけば家があるという
椰子に風が吹いている土人の女たち
ここにも雨の降らない蔗畑の家が一軒
夢がにっぽんのことであって虫に啼かれる
蔗に蔗がのしかかっていて逢う人もいない
月を木蔭にして日本の戦争ニュースが聞えるころ
今日帰還兵があるという旗出して庭一ぱいに蕨

先の論文によると素仁は「自由律俳句が外国に暮らす日本移民の心情に合っていると理解し」荻原井泉水と古屋翠渓に師事したのだそうです。

お迎え申して椰子の風に吹かるることする

素仁にとっての自由律は、趣味判断ではなくひとつの運命なのだ、と確信させる句群。生きて在ることのさみしさが、眩しいくらい心に沁みます。

2018-02-15

川柳と禅



禅の研究者でもあったブライスによる川柳翻訳を追った論文に平辰彦「川柳詩への道」がありまして、それを読むとブライスという人は目利きだなあと愉しくなります。

有ってさへ況や後家に於いてをや

この句をブライスは「シェークスピア的ユーモア」と表現しています。また同じく色関係の句で〈とは知らずさぞ留守中はお世話様〉の間接性もお好きな様子。もっとも今したいのはそんな話ではなくて、この論文の下の箇所のこと。


考えた様に雨垂れ一つ落ち

川柳では、擬人法を用いて無生物に人間の「いのち」を与える。ブライスは、この川柳に19世紀のアメリカの詩人エミリー・ディキンソン(1830-1886)の詩と同じ詩性があると指摘する。この「古川柳」は、鎌倉時代の京都・大徳寺の禅僧の大燈国師(1282-1338)が作った次の和歌が踏まえられている。

耳に見て目に聞くならば疑はじおのずからなる軒の玉水

大燈国師は禅でいう「正見」をこの和歌で表現しているが、シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」(Ⅳ.i)でも、妖精の世界からボトムが人間の世界に戻った時に言う「人間の眼は聞いたことがなく、人間の耳は見たことがない」の科白には、禅でいうこの「正見」が認められる。またこの「古川柳」では「雨垂れ」が題材にされているが、現代川柳にも、次のような「雨垂れ」を題材とした作品がある。

最後の雨だれ夜るの空がへこんだ  14世根岸川柳


この14世の句は前から知っていたのですけれど、でもこういった流れで引用されると、わあ、と心の目が開かれる気分です。

2018-02-14

あたらしい、みみせん。



こうやってPCに触るときや夜眠るときなど、ふだんから耳栓を愛用しているのですが、さいきん、平生つかっているメーカーの別ラインの商品を買ってみたんです。


なぜ買ってみたのかというと、これ、いつも使用している耳栓より遮音性が低いのに値段が少し高いんですよ。それでいったいどんな良さがあるのか知りたかったんですね。で、蓋を開けましたら、


ひとつずコットンに包まれていました! かわいい! コットンを剝いてみますと、


パテ状の丸い玉が。ヒマラヤの岩塩のようなうすもも色。指先でこねて耳の穴に押し込んでくださいとのこと。自分でも調べてみますと、遮音性と防水性との両方に優れた耳栓とあり、どうやらウォータースポーツをする人なら誰でも知っている商品だったようです。入浴時にもいいみたい。1回限りの使い捨てです。

2018-02-10

喜怒哀楽、そして日々。





本日はお知らせ2点。

・新潟の喜怒哀楽書房が発行している「喜怒哀楽」の2-3月号に、佐藤りえさんからバトンを引き継ぐかたちでリレーエッセイを書き始めました。初回のタイトルは「てぶら生活」。こちらからダウンロードできます。

詩歌俳柳壇の話題や郷土文学の紹介がコンパクトに収まったこのPR誌、わたしも端から端まで読みましたが、とても愉しげで心地のよい誌面でした。次号の原稿を書くのが今から楽しみです。

・既にあちこちで話題になっている八上桐子『hibi』。この句集は紙の手触りにはっとするようなニュアンスがあり、また内容とのバランスも絶妙で美人。で、そんな素敵な句集の栞を、なんと小津が書いています。タイトルは「銀の楽器をもたらす手」です。

隣の小さな箱は、神戸のマッチ会社が販売しているお香「hibi」。昨年、有志の方々が東京四谷で「フラワーズ・カンフーを祝う会」を催して下さいました折に、八上さんともお目にかかり、こちらを頂戴しました。

句集『hibi』の方も、日々の静かな暮らしや、つつましさと贅沢さとを併せ持つ美しい精神の在り方が、そっと香ってくるような本です。

ねむたげにオカリナの口欠けている  八上桐子

2018-02-08

俳諧歌の風味



藤原俊成の歌論書『和歌肝要』に「俳諧といふは狂歌なり」との一文がありますが、これは実感としてよくわかる言葉。

ところで小池純代の短歌には俳諧歌のほのかな風味があると思います。西原天気さんの「組句」に倣って、小池さんの短歌を古い俳諧歌と組んでみました。

1.
からかさのさしたる咎はなけれども人にはられて雨にうたるゝ
北条時頼
長雨をあびながら泣く雨傘(アムブレラ)惡意も愛もあまり變はらぬ
小池純代

2.
散ればこそいとゞ桜はめでたけれけれどもけれどもさうぢやけれども
鯛屋貞柳
川岸の写真館にてまなざしは遠くをとほくをもつととほくを
小池純代

貞柳の俳諧歌はつい最近見つけました。かわいいでしょ? 伊勢物語の第82段「散ればこそいとゞ桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき」への返しになっています。貞柳については金子実英「狂歌小史」(藤井乙男監修『蜀山家集』に入っています)で次のように解説されていまして、うん、うん、とにっこりすることしきり。

彼は狂歌よりは寧ろ狂歌を詠むといふ心境を尚んだ。何ものにも拘泥しない、何ものにも執着しない、洒々落々たる自由人の心持を養ふ事が第一義だと考へた。(…)真の狂歌は縁語や掛詞や地口や擬作をはなれて、軽妙洒脱な作家の心境が、自然に流露したものでなければならん。

2018-02-07

花とゆでめん。



海外住まいゆえネットプリントの告知に興味を抱くことはまずないのですけど、きのう「新聞花壇」という超かわいいペーパーを見つけて、思わず画像をダウンロードしてしまいました。しかも「ゆでめん号」ですって。


町内の広報誌みたいな花のカット絵が、きゅん、と胸にきます。執筆者は久保哲也、早乙女蓮、安西大樹の三氏に、山上秋恵氏をゲストに迎えた構成。

安西氏のブログを見に行きましたら「各人が2017年における新聞歌壇における入選作より10首を選び、新聞歌壇を模して1席から3席までの歌には、自らが高名な選者になったかのように、自作自演で評をつけるという試みを行った」とありました。おお、メタフィクショナルな自作自解! これは笑えるアイデア。原稿書くの、楽しかっただろうな。

2018-02-05

バナナに学ぶリラックス術





『晴』は樋口由紀子さんが編集発行人の川柳誌。以下、高速鑑賞会です。

全身の力を抜いているバナナ  松永千秋

バナナ的スローライフに憧れる身として、今回イチオシの句。バナナというのは楽園風の顔つきをしつつ、でもどことなくうさんくさくて、一筋縄ではゆかない果物。掲句はそんな雰囲気をよく捉えていると思います。

方舟に薄く聴こえる佐渡おけさ  きゅういち

すごくイヤ(笑)。これ以外も、イヤイヤ、と思わず身をよじりたくなる句が多かったです。川柳界には川合大祐さんを筆頭にSFと相性のいい作家がちらほら見られますが、この方にはハチャハチャSFの気があるようす。

ロマン派はつらい朝にも窓を開け  月波与生

わたし、こういう句末を流したスタイルの句、好きなんですよ。とりわけこの作品には狂句の風格もあって、知的でいいですね。

中空のあたりうろうろしておりぬ  広瀬ちえみ

「うろうろ」の使い方が川柳ならではの味わい。また「中空のあたり」は何気にあいまいな把握ですけれど、この手のあいまいな表現が弱さに堕ちてしまわない〈実のある不条理〉が感じられるところが巧み。

UFOを書き漏らしてる明月記  水本石華

いや、ほんとおっしゃる通り、といった句。「書き漏らし」という言い回しに滋味があります。余談ですが、むかし通っていた大学の敷地内には、藤原定家の子孫である冷泉家の邸宅がありました。いや、時系列的にかんがえると、大学の敷地が冷泉家の邸宅を囲んで拡大してしまったのか。

とびきりのケチャップそしてマヨネーズ  樋口由紀子

マヨネーズという語はとてもむずかしいんですよね。ブローティガンのせいというわけでもないでしょうが、ひとはマヨネーズを一種の爆弾として使いたいという欲望からなかなか逃れられない。そうした中、掲句はマヨネーズという語を現実の縮尺のままでつかっていて、たぶんこういうのは珍しいはず。また「マヨネーズ」をさりげなく引き立てる「そして」が隠れた仕事をしているようです。

2018-02-04

愛と戦争と女の自立




空をとぶのは楽しそうですが、スピードが苦手なので飛行機を好きになれません。そういえば、かもめのジョナサンも、とぶということが人生を極めることと関連づけられていて、自分の好みとはかなり違いました。断片的にみると、素敵な文章がいっぱい詰まっているのに。こんなのとか。

すベてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変りなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。(リチャード・バック『かもめのジョナサン』五木寛之訳)

それはそうと、写真のような飛行機をみると、わたし『キャンディ・キャンディ』の戦争の描写を思い出して、きゅん、となるんですよ。わたしは『若草物語』のジョーや『赤毛のアン』のアンのような、女の子が自立して立派な職業婦人になってゆく少女小説がかなり好きで、しょっちゅう思い出しては一人でじーんとしているんですけど、なかでも〈愛と戦争と女の自立〉は一つの王道パターンですから、とりわけ、きゅん、としてしまう。

『キャンディ・キャンディ』では、キャンディは物語最後のシーンでやっと巡り合った〈丘の上の王子様〉と結婚せず、看護師として生きていくことを決意しますが、この作品が少女たちの魂をかっさらって不朽の名作となり得たのは、やはりこのエンディングの選択の力強さですよね。

広大な世界、躍動する未来に向けて、すっくと立つ感じが最高。

この手の作品を日本を舞台として書くと、明るく乾いたエンターテイメントに仕上げるのは難しそう、とも思います。

2018-02-03

さみしいたまご





週刊俳句第563号にトップ写真と小文「火力発電所」を寄稿しています。小文の方にも写真がありますので、よろしければどうぞご覧ください。

それはそうと、電球のデザインって誰が思いついたんですか? もしかして、すごく有名な人? 

夢の生命っぽい、はかない美しさ。

上の写真の陳列ブースは、わあ、たまごの標本箱みたい、と思いながら眺めました。丸いのは鳥のたまご。細長いのは魚のたまご。でもね、これ、永遠に孵らない完全無欠なたまごなので、少しさみしいんです。

未読から既読へ鳥の卵かな  小津夜景

馬車博物館





馬車博物館に行く。小さなものから大きなものまで、おびただしい種類。これは小さな消防車。


こちらはパキスタンのデコトラに引けをとらないデコ馬車。右奥に小さく写っている馬車は、もはや馬車ではない何か、だった。