コート・ダジュールは30年ぶりの寒波らしく、このところ毎日雪が降っています。ひとひら、ひとひら、が、すごく大きいの。
さようならが機能をしなくなりました あなたが雪であったばかりに 笹井宏之
失恋に三光鳥がホイと言ふ 小林貴子
「わが、灰は、海に、撒け」とて死にし友を、燒きぬ 花咲き滿てる岬に 石井辰彦
編集人・江田浩司、副編集人・生沼義朗の文芸誌「扉のない鍵」。
今後の展開が楽しみなのは江田浩司「石井辰彦論へ至るための序章」。石井の短歌は一冊にまとまった研究書があっても不思議じゃないですよね。テキストとしての完成度からしても、実は研究対象として扱いやすいはず。
例えば、今てきとうに思いついたことを書きますと、エイズ・クライシスの文脈を明確に反映した『バスハウス』を中心に据え、『バスハウス』以前と以後との主題と文体(価値の表出の仕方)の変移を比較してみる、なんてアイデアはどうでしょう?
『バスハウス』はバロック的な美や高貴と、その種の価値に付帯する反動性とを併せ持った作品集です。もちろんそれは確信犯としての反動であって、石井は『バスハウス』の連作が孕む審美主義的通俗性(汚辱を美へと変貌させる類の価値転倒)といった弱点を、あたかも晩年のロバート・メイプルソープのように作品の質を極限まで高めてゆくことで正面突破(=無効化)しようとします。
この正面突破にあたり繰り出される種々の技は、石井の作品を読む醍醐味のひとつ。とはいえわたし自身はそうした技が、より自由自在な遊び心ないし傷つきやすさにおいて花開いた小品がより好みで、例えば「We Two Boys Together Clinging」や「犬二匹ま」などが、実はこの作者の飾らない呼吸なのではないかしら、などと想像したりも。
閑話休題。「扉のない鍵」の玲はる名「鍵」から4首。
潮風がノイズばかりを拾ふからアンリ・ラ・フォンテーヌの屑籠へ
指といふ鍵を世界に可視化せよ 蜂の巣といふ鍵穴深く
向日葵の種、一斉に胸に湧き弾け朽ちたる肉片の道
経典(うつは)ごとレンジへ入れて電磁波が鞭打つ床を這うガブリエル
特に最後の歌。こんな壮絶で滑稽で救いのない鞭打ちのイメージを思いつくなんて、すごいなあと思いました。
『空想家』とはとてもきちんとした良い人たちのこと。
さう言つたのはわたしの大好きな人。海鳥の伯父さんをもつ音楽家だ。
(「オンフルールの海の歌」)
夕日影朝顔の咲くその下に六千両の光残して 世之介
椰子のしかゝる屋根の実をもいでいる 見田宙夢
珈琲熟るる里静かなり騾馬の声 横山松青
空こそマンゴの花に澄み渡りたれ 古川文詩朗
タロ葉ゆらゆら鉢の金魚が暮れる 藤原聴雨
ずうっと草が空へゆけば家があるという
椰子に風が吹いている土人の女たち
ここにも雨の降らない蔗畑の家が一軒
夢がにっぽんのことであって虫に啼かれる
蔗に蔗がのしかかっていて逢う人もいない
月を木蔭にして日本の戦争ニュースが聞えるころ
今日帰還兵があるという旗出して庭一ぱいに蕨
お迎え申して椰子の風に吹かるることする
川柳では、擬人法を用いて無生物に人間の「いのち」を与える。ブライスは、この川柳に19世紀のアメリカの詩人エミリー・ディキンソン(1830-1886)の詩と同じ詩性があると指摘する。この「古川柳」は、鎌倉時代の京都・大徳寺の禅僧の大燈国師(1282-1338)が作った次の和歌が踏まえられている。
耳に見て目に聞くならば疑はじおのずからなる軒の玉水
大燈国師は禅でいう「正見」をこの和歌で表現しているが、シェイクスピアの喜劇「真夏の夜の夢」(Ⅳ.i)でも、妖精の世界からボトムが人間の世界に戻った時に言う「人間の眼は聞いたことがなく、人間の耳は見たことがない」の科白には、禅でいうこの「正見」が認められる。またこの「古川柳」では「雨垂れ」が題材にされているが、現代川柳にも、次のような「雨垂れ」を題材とした作品がある。
ねむたげにオカリナの口欠けている 八上桐子
1.
からかさのさしたる咎はなけれども人にはられて雨にうたるゝ
北条時頼長雨をあびながら泣く雨傘(アムブレラ)惡意も愛もあまり變はらぬ
小池純代
2.
散ればこそいとゞ桜はめでたけれけれどもけれどもさうぢやけれども
鯛屋貞柳川岸の写真館にてまなざしは遠くをとほくをもつととほくを
小池純代
彼は狂歌よりは寧ろ狂歌を詠むといふ心境を尚んだ。何ものにも拘泥しない、何ものにも執着しない、洒々落々たる自由人の心持を養ふ事が第一義だと考へた。(…)真の狂歌は縁語や掛詞や地口や擬作をはなれて、軽妙洒脱な作家の心境が、自然に流露したものでなければならん。
全身の力を抜いているバナナ 松永千秋
方舟に薄く聴こえる佐渡おけさ きゅういち
ロマン派はつらい朝にも窓を開け 月波与生
中空のあたりうろうろしておりぬ 広瀬ちえみ
UFOを書き漏らしてる明月記 水本石華
とびきりのケチャップそしてマヨネーズ 樋口由紀子
すベてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変りなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった。(リチャード・バック『かもめのジョナサン』五木寛之訳)