2018-03-30

ニサール語閑談






先日のブログに書いたニサール語。あれ以上のことは何も知らないのですが、情報を求められたのでよもやま話を書きます。

現在プロヴァンス語は書き言葉として残っている一方、ニサール語を学ぶ人はまずいません。中学生になると第二外国語として選択できるものの誰もやりたい生徒がおらず、学校側は苦肉の策としてニサール語の試験の平均点が他の言語よりも1〜2点高くなるよう下駄をはかせて生徒を誘うのだそう。フランスの試験は20点満点なので信じられないほどの高下駄です。でもニサール語教師の雇用を保障するためにはこうするしかないのだとか。

ニサール語の辞書についてはこちらのオープンライブラリーで丸ごとダウンロードできます。

2018-03-27

ジャン・ジエッタの三輪車




ジャン・ジエッタ(Jean Gilletta,1856-1933)の展覧会に行きました。


ジャン・ジエッタはニースとコート・ダジュールを撮ったこんな風貌の写真家。設計士のごとき美意識を追求した作風で、当初の予想(と言いつつこの人についてなにも知らなかったけど)をあっさり覆すハイグレードな展覧会でした。きのうの日記のコースターも彼の作品です。


彼がコート・ダジュールで乗り回していた三輪車がこちら(画像クリックで拡大します)。エンジンつきらしいのですけど、後方の金の円筒の下の部分? この車体、きっと自分で設計したんですよね?(と思いましたが調べてみたら違いました。)可愛がってたんだろうなあ。100年以上前のものとは思えないほど手入れがしっかりしていました。

2018-03-26

この国のかたち・ニースの言語





ニサール語はオック語の一方言で、耳で聞くとフランス語とは完全に別の言語。さらには綴りや文法も異なり、6枚のコースターに印刷されたニサール語を、左上から時計回りに訳すとこんな感じです(ニサール語=フランス語=日本の順)。

・D'aqui d'aia = d'ici et de là = あちらこちら
・RaÏs dou paÏs = racine du pays = 郷土のルーツ
・Sian de Nissa = Nous sommes de Nice = 私たちはニース出身です。
・Sieu nissart = Je suis niçois = 私はニース人です。
・PaÏs nissart = Pays niçois = ニース郷

ニース人は少し変わっていて、アルザス人やブルターニュ人のような郷土への固執がないんですよ。特に国境に思い入れがない。フランス併合は1860年(それ以前はサルデーニャ王国)でもっとも遅い地域なのに。

オック語については、保護運動をしつつみずからもオック語で詩を書いたジャン=アンリ・ファーブルがいます。彼は「プロヴァンス語文芸復興の詩人」とも呼ばれており(プロヴァンス語もオック語の方言)、昆虫学・博物学・作曲活動などもあわせて考えると本当に多才な人だなあと思います。

もうひとつどうでもいいことを書くと、日本語のウィキに「ほとんどのフランス人はファーブルが何者であるかを知らない」とあるのですが、ニースには「ジャン=アンリ・ファーブル中学校」が存在するせいか、ぜんぜん無名な感じがしません。

2018-03-24

白居易のおうち





きのう洛陽にあった白居易の邸宅図を見つけちゃいました。

1992年から1993年にかけて中国社会科学院考古研究所洛陽唐城隊によって発掘調査が行われ、2013年から白居易故居として見学可能になったそうです。

白居易の邸宅の配置、屋敷内の建物の部分と庭園の位置、構造などについては、白居易の詩の中に大量の記述がある。「池上篇」の序には、「地は方十七畝、屋室は三の一、水は五の一、竹は九の一、而して鳥樹橋道之れにまじわる」と記している。邸宅の敷地面積は「方十七畝」というと、三千坪近い広さである。※このうち三分の一が建 物面積で、池が五分の一、竹林が九分の一だったということである。(下定雅弘「洛陽の白居易遺跡」)

洛陽の町は碁盤の目に区画されていたのですが、地図で調べてみたところ、白居易は贅沢にも2区画分を使っておうちを建てていました。

邸宅内の出土遺物は、非常に豊富で、建築材を除けば陶磁器が多い。石・陶・磁の 三種の質の硯および酒と茶器は、これらの遺物と白居易とが密接な関係にあった可能性があり、白居易が生前に執筆や作詩に励んだり、酒と茶を好んだ生活のようすを想像させてくれる。(同上)

やばいです。旅行する機会があればぜひ見てみたい。近くの博物館にあるらしい。茶器を見たら舐めちゃうかも。でも舐めたらきっと逮捕されるんだろうな(心の中でだけ舐めよう)。

画像は下定雅弘『白楽天の愉悦―生きる叡智の輝きー』(勉誠出版)から。いろんな人がいろんな本を書いているのですね。

2018-03-22

この国のかたち、あるいはデモの観念。





綺麗な青空。この屋根はリスボン大地震の時に崩壊してしまって、今もそのままになっているのでした。屋根がある教会より崇高です。

* * *

フランスに来て10年目にさしかかろうかという頃、行政から「そろそろフランス国籍取得のための市民講座を受講しておいてください」との通知が届きました。

通知をよく読みますと「この講座の合格証書を所持していることが、フランス国籍取得の必要条件です」とのこと。

で、フランス人になるつもりは全くなかったのですが、無料だったので行って来たんですよ。

当時の市民講座ではフランスの地理・歴史・法律・税制・人権など、生活に必要な知識を幅広く習いました。地理はすごく助かった。テレビがあれば天気予報などでフランス全体図を見るのでしょうけど、うちはテレビがなくてその辺の一般常識に欠けていたんです。

忘れられないのが、講座が始まる前は「どんな授業だろう。やっぱりフランス語が中心かしら?」なんて思っていたのが、いざ授業の会場に入って最初に目にしたのが荒れ狂うデモの映像だったこと。

デモは国民の権利とはいえ、いきなり最初からピンポイントでそこを押さえにくるとは。完全に想定外でした。しかしフランス国民となる以上なによりもまず身につけるべき観念である、ってことなのでしょうね。

2018-03-21

絶望しつつ、しなやかに。




・さいきん食べてばかりいます。そうしないとすぐ体重が減ってしまうのです。家にいるときはお風呂の前を通りかかるたび体重を計って、軽すぎるようならすぐ間食をとります。就寝前も翌朝の体重を気にして少し食べておくのですが、空腹じゃないのに食べるのがなんとも言えない気持ち。

・川柳スープレックスに「小津夜景さんの好きな川柳・俳句・短歌」というインタビューが掲載されています。これ、川柳スパイラル創刊号のインタビューでボツになった部分です。聞き手は飯島章友さん。

・ところでこのインタビュー、好きな短歌については素で選んでしまいました。世の中に素敵な短歌はいっぱいある上、せっかく川柳誌に載る記事なのだから、松木秀さんを入れれば良かったと少し後悔しています。

・松木秀さんの短歌は軽いけれど薄くない。希釈感がないのは諷刺性に富むからではなく韻律に腰があるせいだと思います。あと、コシとハリのある短歌を書けるひと特有の速書きっぽさがたまらない、絶望しつつしなやかだなんて、天才かとも思っちゃう。有名な歌をいくつか。

一人なら孤独で二人なら地獄三人集まれば社会学  松木秀
夕暮れと最後に書けばとりあえず短歌みたいに見えて夕暮れ
偶像の破壊のあとの空洞がたぶん僕らの偶像だろう
「無」の文字は「無」というものを示すにはちょっと画数が多すぎである

川柳も、とても明晰。こちらも気ままに10句。

狂気より怖い馬鹿げている正気   松木秀

未来とはカラーコピーのなまぬるさ

いい空だ僕にくっきり影がある

すぐ人を刺すだらしない包丁だ

真ん中に最初に生えるパンの黴

セーターを脱ぎ一瞬の闇に遭う

青空の似合わぬカメレオンでよい

五メートルほどの果てしなさへ歩む

老人は儚いもののふりをする

できあいの個性を五枚ほど買った

2018-03-19

花と夜盗




週刊俳句第569号のハイク・フムフム・ハワイアンは「荻原井泉水とハワイ」。ある一時期のハワイにおける2大流派のひとつだった『層雲』の自由律俳句について語っています。自由律俳句の話はしばらく続ける予定です。

先週のウラハイ〔週末俳句〕に「春のお買い物」という記事を書きました。外国の句集について写真つきで紹介しています。

俳句四季4月号に連作「花と夜盗」およびエッセイを寄稿しています。花のお江戸に花のノートルダムをフュージョンした作品です。

それにしても俳句四季ってどんな雑誌なんでしょう? 実物を拝見するのが楽しみ。

2018-03-16

ハッピーアワーと海。





きのうの青空。このホテルのラウンジって、たぶん海がよく見えるんですよ。平日のハッピーアワーならひとが少ないと思うから、いちどこの目で確かめたいと思っているところ。

2018年版『俳誌要覧』に、漢詩をめぐる随筆と翻訳「恋は深くも浅くもある」を寄稿しています。あと自選3句という欄にも作品が。この雑誌、目にするの自体はじめてなのですけど、あまりにぶ厚くてびっくり。電話帳みたいなの。思わず写真とっちゃいました。

2018-03-10

日常のかたちをした三つの俳句作品。



週刊俳句第568号のハイク・フムフム・ハワイアンは「俳句の電報、俳句の香木」。ハワイ流〈俳句のある暮らし〉のありさまを、ある美術商主人のエピソードから語ってみました。


他に〈俳句のある暮らし〉という言葉から連想するのがGeorge Bruceの《Through the Letterbox》。友達に出した俳句の手紙、といった趣向を柱とする句集で、Elizabeth Blackadderが挿し絵を描いています。


楽譜つきの句もありました。こんな本、つくってみたいな。

ブラックアダーのことは、今の画風になる前から好きです。若いころから線がいいんですよ。テート・ギャラリーが所有する60年代の作品が7点ほどこちらにあります。またスコティッシュ・ギャラリーでは編年体カタログの閲覧も。

2018-03-08

フランス人による俳句観の一例



《考察シリーズ・リンク》
その1 カモメの住居観についての一考察
その2 文字を覚える

3年前に近所で見つけたCD。タイトルが《Haïku》だったので購入したのですが、今日やっと聴きました。


音にこだわりがなく詩を大事にした、ポエミーな芸風。フランス人による俳句という観念の一例を知ったという意味で収穫はあったかも。大雑把に言って、かなり知的なイメージとして捉えられている模様。

2018-03-07

ヒエラル墓地の昼の一日



句集が欲しいのに手に入らない崎原風子。本名の崎原朝一で検索すると、こんなに情報があったなんて。知らなかった。辻本昌弘『語りーー移動の近代を生きる あるアルゼンチン移民の肖像』は一冊丸ごと彼の人生を記録した本。おもしろそうだ。

い。そこに薄明し熟れない一個の梨   崎原風子
Dの視野にあるヒロシマの椅子の椅子
ヒエラル墓地の昼の一日の大きな容器
8月もっとはるかな8へ卵生ヒロシマ

独自の無表情をつらぬくレンズの中に、発光する鉛のごとき稀有な実在感が捉えられている。風子は詩人でもあり、守屋貴嗣氏の論文に少しだけ作品が引用されていた。

あらゆる高さから
あかるい同義反復
三角形を擁立したがる
未来という属性
メンスの
午後八時だけが永久だ
(「ビニールパイプ」部分)

2014年11月4日に亡くなっていたのですね。これも知らなかった。

2018-03-05

さざなみ古書店のこと。



湖北長浜は、自分にとって、ささやかならぬ縁のある町。古城や町のすみずみまで張り巡らされた水路を眺めたり、黒壁スクエアと呼ばれる美しい街並みを散策したことも。

その黒壁スクエアを抜けて、長浜八幡宮に向かってのんびり10分ほど歩いたところにあるのがさざなみ古書店()です。八幡宮の鳥居を横目に町家を改装した店内へと足を踏み入れますと、そこにはこんな空間が。



カフェのような雰囲気。企画展など本以外の愉しみもいろいろで、現在は委託により南ドイツのTUTTO社のオパール毛糸を展示中とのこと(オパール毛糸は何もしなくても模様が編み込める不思議な毛糸で、このような見た目をしています)。

ところで、TUTTO社の正規代理店である宮城県気仙沼市のKFSは、編み物という手段によって被災地の復興を応援することを目的として、梅村マルティナ氏が2012年に設立した会社()なのだそうです。この会社では被災者の方々がスタッフとなってニット製品を製作・販売しているのですが、活動の素晴らしさに加えて、ずんだ色だの、こしあん色だの、KFSオリジナル単色()の佇まいの素敵なこと! 

あくまでも古書店ゆえ、毛糸の展示期間は未定のようです。あれこれ編み散らかしたい方はお早めに。

2018-03-03

ハイク・フムフム&戦前の口語短歌について





本日の週刊俳句掲載のハイク・フムフム・ハワイアンは「渓谷のハイキング」。渓谷の島マウイを吟行する日系移民達の様子をゆるくルポしてみました。トップ写真のコラムも書いています。

* * *

1933年3月5日付の日布時事に「歌壇随見録」と称して口語短歌の力を論じた記事がありまして、こんな歌(表記ママ)が紹介されていました。

生いもをかじる子供ら真黒な口を揃えて唄うたつてる
たつた一年の作はづれでも十九年育てあげたる娘売るのか
金があれば癒る病で死んだよと死亡届に書きたい心

はじめの歌は現代詩的な不条理、あるいは社会主義的リアリズムの影響がその文体から読み取れますが、あとの歌は完全に狂歌ですよね。こういうのを読むと、現代短歌は狂歌と合体することでその懐を豊かに(もちろん混迷込みで)育んできたのだな、と改めて思います。

2018-03-02

花を慕う




きのうの赤松総領事の短歌があまりに魅力的だったので、ブログを書いたあと彼に関する他の記事も読んでしまいました。どうやらホノルルに着任してすぐ無類の文学好きとして、ハワイ文壇で名を知られたようです。

ちなみに赤松さんがハワイにいた1929年当時、ハワイ島で最も売れていたのはキングで、これが毎月2000部。あと有名どころでは文藝春秋が月500部、新潮が月300部、文藝倶楽部が月200部。ハワイ島の売り上げだけで毎月こんなにあったみたい。マウイ島やらカウアイ島やらすべてを合わせるとすごい数ですよね。

で、赤松さんですが、なんとどの記事でも花の話をしているんです。もともとはそんな趣味はなく、外国人の男性が自分の身体や部屋を花で飾っているのを見ると、気障だなあ、と感じていたらしいのですけれど。

ところがサンパウロの総領事をしていたころ、月に半分は家族と別れてリオデジャネイロの事務所に詰めなければならず寂しくてたまらなかったのが、あるとき事務所から仮の住居に帰ると庭に咲いている花が自分を慰めていることに気づき、それからというもの花を深く慕うようになったとのこと。

ハワイで一番好きなのは黄金色のシャワーツリー。またホノルルの自宅には50種類のハイビスカスを植えて楽しんでいたそうです。香りの芸術であるレイにも深く魅せられ、帰国後のインタビューではハワイから持ち帰ったカウアイ島の木の実のレイが帰国後9年を経ていまだ強く香ることを、驚きをもって語っていたりします。

2018-03-01

ヌアヌの風に、君は今。





1930年8月17日付の「日布時事」を読んでいましたら、こんなイカした短歌を発見。

ヌアヌ風そよ吹くあたり君は今、碁かマージャンか午後三時なり   赤松祐之

その昔、天上の神々の住処だったオアフ島ヌアヌ。そんなヌアヌの森はハワイの王族達の愛した避暑地としても知られ、森の中の聖地カニアププにゆくと、今もわたしたちはカメハメハ3世の夏の離宮と出会うことができます(写真の遺跡がそれ)。

赤松祐之は元小説家志望のホノルル総領事。この歌はですね、日本に帰国する赤松氏が、クィーン浅間丸のデッキ・チェアーに寝そべってホノルル生活を思い出していたところに、総領事館一同から無事の航海を祈る電報が届いたのだそう。で、それに返事すべく、万年筆をとりだしてスラスラと一同に宛てた〈短歌電報〉だったのですって。

内容も韻律も気さくで、俗っぽいのに、とっても優雅。それにしても電報が歌というのはいいですね。こんな電報が届いたら、懐かしさがあふれて泣けちゃいそう。