2018-09-30

「翼と人間」





散歩の折、仏空軍の展覧会「翼と人間」に遭遇する。最終日らしく、無料なこともあって人出もそれなりだ。5、6種類の戦闘機への試乗、エンジンその他の工学展示、パイロット訓練の擬似体験などをやっていた。

2018-09-28

木陰のお茶と、徒手空拳の話





詩客に作品を寄稿しています()。編集部からは既発表も大丈夫ですと言われたので「出アバラヤ記」の初出稿(攝津賞受賞時のもの)から摘まみました。すべて句集でボツにしたものです。別に手を抜いたわけではなく、句集を買ってくださった人には、あれがもともとどんな作品だったのかわかると面白いかもしれないと思って、勇気を出してお蔵出ししたのでした。

初出稿には短歌も盛り込まれていまして、いまおそるおそる掲載誌を開きましたら、なんと12首も書いていました。やばいってゆうか、死にそう。でもね、これに応募したときは俳句を知らなかったので、その状態でパフォーマンスするとなると、もう体当たりしか技はないんですよ。たださすがに自分でも「凡庸だなあ」と思いまして「体当たりの割には迫力にかけるから短歌でも足しておこうか」ってな動機で飛び道具的に短歌を盛り込んだのです。恥ずかしさついでに何首か引きます(2首目は沓冠折句)。

ひとの世の熱はただれていくどなく白豚の毛に犯された画布
言ひかけた論より、見なう、花々は虚(うろ)よいさうろたへな残命
アウロラよあらむとすらむ遠の地を烽火の果てに見棄てたまへよ
ことあらばかくも常世はとりどりのげにおどろなる赤きはなびら
紅き茶にざらめの小舟沈没すなほ箱庭に生きながらへて
さるびあに痺れし指(および)すべからく世界は意味にそびえたつべし

2018-09-26

レジスタンスのデザイン





ラ・レジスタンスという名前とラベルのデザインがツボった有機ワイン。

レジスタンスといえば、フランス共産党の機関紙『ユマニテ』。この新聞で個人的にもっとも印象深いのが、2003年の自社PRポスターです。



こんな巨大ポスターでメトロの壁一面が覆われていた朝は、うーんと思いました(日本共産党のノリと違いすぎて)。2作目はゴヤの「プリンシペ・ピオの丘での銃殺」です。文字の部分は「理想世界に『ユマニテ』は存在しないだろう」と書いてあります。ユマニテは人間性という意味なので、裏読みするとヘーゲル弁証法批判にもなる、かなり多義的なスローガンです。

2018-09-24

音のない波



冬の朝、川からのぼる熱が一瞬でダイヤモンドダストと化す湿原で、くすぶる水の中の動物と出会ったことがありました。

夏の朝、どこにでもある海岸で、きらめく灰をふみしめたことも。

くすぶる水もきらめく灰も、その正体は霧です。冬川の蒸気霧、夏海の移流霧、秋陽の放射霧といったふうに、霧にもいろいろな佇まいがあります。共通しているのは、それがいつも、音のない波のように流れるということ。

2018-09-20

稀れなる星よ





一つの星に  原民喜

わたしが望みを見うしなつて暗がりの部屋に横たはつてゐるとき、どうしてお前は感じとつたのか。この窓のすき間に、あたかも小さな霊魂のごとく滑りおりて憩らつてゐた、稀れなる星よ。

日本経済新聞「読書日記」、第4回はたいへん美しい装幀の『原民喜童話集』を取り上げました()。

最近の原民喜の流行ってすごいみたいですね。わたしは彼のことを全然知らなくて「夏の花」と「永遠のみどり」を学校で習ったくらいだったんです。それがこの夏、青空文庫で「原爆小景」を読んで、あ、「永遠のみどり」は組曲詩だったんだと小さな衝撃を受けました。これ全部、教科書に載せてくれたらよかったのに、って思った。

2018-09-18

朝の採血





今朝は5時半に起きて、朝食とお弁当を作り、6時半に家人を送り出し、それから自分の身支度をして朝7時半予約の検査へ。早すぎるよね…と思うものの、この地域は朝6時から開いているカフェもめずらしくない。

採血の後は、必ず検査技師が「コーヒーと紅茶、どっちが好き?」と患者に質問して、お茶とお菓子を手ずから用意してくれる。喫茶室に移動し、観葉植物を眺めながら技師さんを待っていると、ほどなくして青いプレートが運ばれてきた。本日のお菓子はマドレーヌ2個。

俺の血を見ろ蚤が跳躍する   根岸川柳


2018-09-16

ピアスと墓穴





自分がいつどこでピアスの穴を開けたのかって、わりとみんな、しっかり覚えているような気がします。わたしは高校生のとき、母がピアスの穴をあけたかったらしく、でも一人で病院に行くのは怖いからとわたしを誘ってきたんです。施術代も(当然)出してくれてラッキーでした。

またひとつピアスの穴をやがて聞くミック・ジャガーの訃報のために
松野志保

この歌には、さりげなく省略されている部分が二つある。ひとつは「耳」という名詞そのものである。そもそもピアスは耳たぶに開けるものとは限らないのだけれど、音楽、訃報と二重に「聞く」ことの話をしているこの歌についてはやはり耳のピアスを想像していいのではないか。それから、「ピアスの穴を」のつづきが省略されて言いさしになっている。穴を「どうするのか」が書かれていない。そして、これらの省略はただ限られた文字数のなかで表現を洗練させたというだけではなく、省略されていることにそれぞれ意味があるように思う。

砂子屋書房の「日々のクオリア」より(鑑賞は平岡直子さん)。ありふれた空気を纏いつつも、実は技術的に大変よく練られた作品。うーん、と感じ入りました。しかも鑑賞が、これまた緻密でいいんですよ。全文がこちら()で読めます。

この「日々のクオリア」は言葉がいつも丁寧で、参考になることが多いです。わたしも短歌を取り上げてもらったことがありました。そのときの執筆者は佐藤弓生さん。鑑賞はこちら()。

2018-09-10

翻案と定型





小池純代『梅園』に翻案短歌というのがあって、

J.L.Borges「短歌」より翻案一首
さうであることもさうではないこともあはれやゆめのなかあめのなか
小池純代

みたいな感じなんです。素敵でしょう? こういう遊び、自分もしてみたいんですけど、この人の、下のような翻案をみてしまうと、おいそれとはできなくなります。

なにかしら香るところに灯をともす
その仕草こそ
学といふなれ  

モナドからモナドへうつるつかのまを
見失ふたは
蛍のしわざ

カタルシス無きまま流す涙かな
語るともなく
死するともなく

さはいへど
さはさりながら
さるにても
以上サイバネティックスな古語  

大衆の大の字が
ちと
あかんやん
連衆ぐらゐで
ええのん
ちやうか

翻案された書物は、上から順に、アンリ・ポアンカレ『科学と方法』、ライプニッツ『ライプニッツ著作集』、フレッド・イングリス『メディアの理論』、ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス第二版』、オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(引用はすべてweb版千夜千首より)。

かぐわしき古風と、チャーミングな奇態とが、結ばれあった歌たち。オルテガの翻案には、ほんまになあ、と蒙が啓かれるような気分です。

2018-09-09

創造と工夫。





きのう套路の練習をしつつJames Rayを聴いていて、うーん、なんて自由なんだろう、音楽って、自由との相性が抜群だなあ、と思いました。

でね、今朝、目が覚めて、ひさしぶりにマチス美術館へ行ったんですが、入り口の壁に描かれた彼の作品を目にした瞬間、あ、美術も自由のポテンシャルすごいじゃん、と笑いました。

なにより愉快なのは、自由というものの主成分が創造と工夫の精神であると気づかされること。

ゆつくりつくる大きな紙で大きな青葉   阿部完市

2018-09-06

旅するニーチェ






日経の「読書日記」、第3回はニーチェ『この人を見よ』です()。

ニーチェは35歳で教職を辞してから発狂するまでの10年間、ずっと旅をしていた人らしいです。おもしろいのは、彼の旅が、昔ながらの漂白ではなく、当時生まれつつあったリゾート地を渡り歩くといったカラフルな情緒を(病気療養の為とはいえ)有していたこと。著書の大半を書いたのも旅行中なんですね。

鉄道世代、かつリゾート開発世代のニーチェ。パトリック・モリエス『ニースのニーチェ』はそんな彼がニースで過ごした2年間を追った本。土地の自然を愛しつつも、すでに大都市の萌しがあったこの町の騒音に辟易していたりも。こちらのブログ()で知ったのですけど、手にしてみたら本文は50ページしかなかった。

だいあろおぐあきらめに似て照る月は言葉の海を笑つてゐるのさ
紀野恵

2018-09-05

ことば、ことり、ひかり。





デスクトップ用にしたくて、ルーク・ステファンソンの写真をグーグルの画像検索で眺めているのですけど、どれもよくて選べず、日を重ねること幾日。初秋らしいのって、どれだろう…。

ゆつくりと掃く音のして小鳥村   田中裕明
研究所の空ひろければ小鳥かな
大空の一塵として小鳥くる
小鳥来るここにしづかな場所がある
亡き人の兄と話して小鳥来る
人生に小鳥来ることすくなしや
小鳥来てこの膝小僧だけまるし
遊ぶ日と決めて朝から小鳥来る
小鳥来てたちまち冷ゆるまつげかな

静謐な光。長谷川潾二郎の「現実は精巧に造られた夢である」という言葉を思い出したりもする。現実を夢として捉えるのは、イデアを愛して生きるということ。はるか彼方にあって、届かないものたち。小鳥もまた。

もし共に生きるなら朝 きぬぎぬのダイアローグの記憶は淡く
小津夜景

2018-09-03

はじめての狂詩





先週の日経「読書日記」はブローティガン『西瓜糖の日々』のことを書きました()。

ところでこの連載、依頼のとき「現在手に入る本ですよ」と言われたのですけど、思いつく本がどれもこれも絶版で驚いています。ゲーテ『ヘルマンとドロテーア』、メーテルランク『ペレアスとメリザンド』、スターン『トリストラム・シャンディ』、ベケット『伴侶』と、どれもない。それなら日本の小説をと思い北杜夫『少年』を調べると、これも絶版。目の前が暗くなりました。ひょっとして遠藤周作も?と思い、おそるおそる調べたら、彼はぜんぜん大丈夫だった。

遠藤周作といえば、自分がはじめて知った漢詩は、彼の本に出ていた大田南畝の狂詩でした。狐狸庵ものを記憶している方は「あれか!」と笑うでしょうが、あれです。だから、漢詩とのなれそめを人からきかれても、口ずさめない。

屁臭(へくさい) 大田南畝

一夕飲燗曝(いっせき かんざましをのみて)
便為腹張客(すなわち はらばりのきゃくとなる)
不知透屁音(しらず すかしっぺのおと)
但有遺矢跡(ただ うんこのあとあり)

元ネタはこちら。

鹿柴(ろくさい) 裴迪

日夕見寒山(にっせき かんざんをみて)
便為独往客(すなわち どくおうのきゃくとなる)
不知松林事(しらず しょうりんのこと)
但有麏麚跡(ただ きんかのあとあり)

ちなみに大田南畝は、実はあまり狂詩精神がないって言われてます。この人って、おおむね筆が上品で、爆笑っぽいものは書かないんですよ。あと狂詩というのは腰をすえて読み出すと、変な遊郭ネタが多すぎてうんざりするんですけど、そっちの方へも行かないし。『カモメの日の読書』では一章を割いて、この人のかわいい狂詩と狂歌をいくつか紹介しています。

2018-09-01

行けない世界の場所



詩と愛と光と風と暴力ときょうごめん行けないんだの世界
柳本々々
この〈きょうごめん行けないんだの世界〉って、いったいどんな世界なのだろうとよく思うのですが、そう思うたびに、なつかしいもの、いとしいものとの決別を、ちょっとだけ想像するんです。

とおうぃ とおうぃ あまぎりぃぃす
朝がふたたび みどり色にそまり
ふくらんでゆく蕾のぐらすに
やさしげな豫感がうつつてはゐないか
少年の胸には 朝ごとに窓 窓がひらかれた
その窓からのぞいてゐる 遠い私よ
原民喜『永遠のみどり』

原民喜の書く詩は、しずかで、やさしく、うつくしい。愛と光と風がある。けれども、そんな彼が最後にえらんだのは、鉄道自殺という惨死でした。この暴力的な死は、なんだろう。原爆の町で目にしたむごたらしい光景と、そっと重なり生きようとする仕草だったのでしょうか。