2018-10-31

月洞軒の狂歌





雨上がりの今日は、波の高い日でした。カモメもいっぱいいて、しばらく眺めていたら、

からかさのさしてはぬれぬものながらひたすら雨の音羽町かな   黒田月洞軒

という狂歌を思い出しました。わたし、小さな地名が読み込まれた歌が好きで、以前もこんな趣向の作品()に触れたことがあるんですが、この「音羽町」という地名、カモメを添えて一句つくるのに良さそうだなってふと閃いたんです。

それからこの狂歌、土佐の山内容堂の漢詩も想起させます。

墨水竹枝  山内容堂

水樓宴罷燭光微  一隊紅妝帯醉歸
繊手煩張蛇眼傘  二州橋畔雨霏霏

隅田川の歌  山内容堂

みづのやかたの宴は果て
燭のあかりもあとわづか
綺麗どころがぞろそろと
ほろ酔ひがほで帰りだす
ほつそりとしたその指に
ひらきあぐねる蛇の目傘
両国橋のたもとには
しとどに雨のふりしきる

タイトルの「竹枝」は詩形の一つ。情を盛り込んだ素朴な歌謡が多い詩形らしいです。「紅妝」は柳橋の芸者で、「二州橋」は両国橋のこと。蛇眼傘(じゃがんさん)という造語については木下彪が『明治詩話』の中で、「蛇の目傘を漢語風に詠みこむなんて凡手には思いつかない。しかも雅馴にして自然で、ほんとうまいね!」とべた褒めしています。

話を戻して月洞軒ですが、この人は「けれどもけれどもさうぢやけれども」の鯛屋貞柳()の兄弟子なのだそうです。

むしやくしやとしげれる庭の夏草の草の庵もよしや借宅
酒のみのひたいに夏を残しつつ秋とも見えぬ此此(このごろ)の空
いや我はあづまのゑびす歌口もひげもむさむさむさし野の月
あさ夕はどこやら風もひやひやとお月さま見て秋をしりました

引用はこちら()から。狂歌というのは即興詠が多く、また歌謡からの借用が少なくないのですが、なかでも月洞軒はそれが顕著だったようす。3首目、巧みな導入部のリズムのおかげで、後半の言葉遊びが生き生きとしています。

2018-10-30

伯父の遺産





以前、ロンドンの法律事務所から、こんな手紙を受け取った。

「拝啓 あなたの遠縁の伯父さんが、東南アジアで事故死しました。彼には三億の遺産があったのですが、私共の法律事務所で念入りに調査した結果、あなたがその相続人に指定されていることが判明しました。もし、私共の事務所にこの遺産相続の処理を一任していただけましたら、つきましては、あなたに遺産の半分を差し上げます。ご多用の折恐れ入りますが、ご連絡お待ちしております。敬具」

つまり、詐欺ビジネスを一緒にやりませんか、とのお誘いである。なかなか大胆だ。

それにしても、この自称法律事務所は、どうやって私の住所を知ったのだろうか。

東南アジアで亡くなったという男性は、本当に事故死なのだろうか。

この詐欺の片棒を担いだら、次に殺されるのは秘密を知っている私になるのだろうか。

いろいろ思い巡らすうちに、心臓がどきどきして、近所を歩くのが、しばらく怖くなってしまった。

そういえば、詐欺師とのやりとりで、日本では多いらしい勧告・懇願系のトリックを体験したことが一度もない。来るのはいつも「おめでとうございます! 今当社で開催中のキャンペーンで、あなたに一万ユーロが当たりました。早速ですが、換金手数料をこちらの口座にお振込みください、うんぬん」といった、この上なく祝祭的な工作ばかりである。

ロンドンの法律事務所からの手紙は、親切にもフランス語で書かれていたのだけれど、ところどころ文法が怪しい上に、知らない国の消印が押してあった。こういうのは、おおらか、といっていいのかどうか。

2018-10-28

月に吃る





「吃り」というものを舞踏的に捉え直せば、世界との共振(レゾナンス)と見立てることができるでしょう。たとえば、下のような吃音歌は、光の当たる角度が変わると、どれも「命がけで突っ立った死体」(土方巽)のようではありませんか。

夢にのみききききききとききききとききききききと抱くとぞ見し
ー『古今和歌六帖・巻四』 歌番2174

も、も、ももを
も、もいでもらふ
も、もちろん も、問題ない
も、も、桃だもの
ー小池純代『雅族』

叱つ叱つしゅつしゅつしゆわはらむまでしゆわはろむ失語の人よしゅわひるなゆめ
ー岡井隆『神の仕事場』


人間の発音行為が全身によってなされずに、観念の喙(くちばし)によってひょいとなされるようになってからは、音楽も詩も、みなつまらぬものになっちゃった。音楽も詩も、そんなに仰山ありがたいものではない。/くしゃみとあくび、しゃっくりや嗤うことといったいどこがちがうのだろう?もし異なるとしたら、それはいくらかでも精神に関するということだけだろう。(武満徹「吃音宣言」)

2018-10-25

秋の散歩



Cardiff映画祭の帰りしな、英国から上野葉月さんがやってくる。

同居人と三人で晩ごはんを食べる。福島拓也監督『モダンラブ』()は審査員特別賞だったとのことで、授賞式や晩餐会のこと、次回作のシナリオ、葉月さんがお住まいだったころのコート・ダジュールの話などを聞く。

翌日は葉月さんのリクエストで、夕方から大学構内を散歩。


実りまくるナツメヤシ。下の写真はおまけで、Cardiff映画祭の会場に向かう葉月さんたちです。

たこぶね(Argonaut)とおうむ貝(Nautilus)



こんなツイートを見たので、手元のたこぶね情報を整理してみました。


英語のwikiには「nautilusという単語はギリシア語のναυτίλοςから派生し、もともとタコであるArgonauta属のpaper nautilusesを指していた」とあります。1758年のリンネの本ではArgonautとNautilusとが別々に認識されていますが、依然としてargonautは(paper)nautilusと呼ばれることが多かったようです。こちら()に「ノーチラス号」にかんする面白い考察も。

日本において、たこぶねは古い書物にほとんど登場することなく、1712年の『和漢三才図会』に「思うに、津軽のタコである」と書かれてしまうほど珍しかった。もちろんこれは当時の博物学的水準において珍しいという意味で、リンネの弟子ツュンベリーの『江戸参府随行記』には1776年の江戸で越後のたこぶねをもらった(190頁)と記されていますし、シーボルトの『江戸参府紀行』にも1826年の長崎で見たたこぶねの話とその名の由来(125頁)が出てくるので、日本人が折々にたこぶねとつきあってきたのはたしかです。

下は豊富な図画が嬉しい名越左源太『南島雑話』のたこぶね(章魚舟)。東洋文庫で読めるのですけれど(たこぶね図は2巻の44頁)、図画はすべて白黒。奄美市立奄美博物館のサイト()だと天然色の写本が見られて感動します。


付記2点。東洋文庫『南島雑話』の校注では、たこぶねのことをわざわざ「オオムガイ」としてあり、他の注釈も少し不安。あと厳密な話をすれば、英語ではアオイガイ科のタコを総称してArgonautといい、リンネやツュンベリーの本に登場するのはたこぶね=フネダコ(Argonauta hians)ではなくアオイ貝=カイダコ(Argonauta argo)になります。アリストテレスが眺めていたのもアオイ貝=カイダコです。でもカイダコとフネダコは、区別する必要があるの?ってくらい一緒。この辺、より正確なことを知るには、専門書を読まないといけない雰囲気です。

2018-10-23

ペーパー・ノーチラス





週刊俳句第600号に「日曜のカンフー□□いつかたこぶねになる日」を寄稿しました()。日曜日にもカンフーにも無関係のエッセイです。上のたこぶねは、とても好きな一枚。

* * *
で、たこぶねですが、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』に、絵入りでこんな記述がありました。

その螺の大きなものは七、八寸、小さなもので二、三寸。形は鸚鵡螺の輩(なかま)に似ていて、ほぼ秋海棠の葉のような文理(すじめもよう)がある。愛らしいものである。両手を殻の肩に出し、両足を殻の外に出し、櫂竿の象(かたち)をして遊行している。(寺島良安『和漢三才図会』)

なんてかわいらしい。椅子に腰掛けて、長い膝下で漕ぐイメージだったのですね。それから、たこぶねの貝殻は薄いため、英語ではペーパー・ノーチラス(Nautilusはオウム貝のこと)とも呼ばれるみたい。すぐさま一首詠みたくなる響きです。

この貝の名前(Argonauta)は黄金の羊毛を探しに行ったイアソンの船から取ったもので、船乗りにとってこの貝は晴天と順風の印になっている(…)たこぶねの話になると、我々は普通の意味での貝の蒐集から離れることを認めなければならない。日の出貝とか、牡蠣とかならば、大概のものは知っている(…)しかしこのたこぶねという珍しい貝では、我々は既に試験ずみの事実や経験を離れて、想像力の世界に向けて船出することになる。(リンドバーグ『海からの贈物』)

帆なきまま進むペーパー・ノーチラス号わうごんの羊を求(と)めて
小津夜景

© Veronidae, wikipedia

2018-10-17

砂漠の花



小学6年生のときに習った教師は長いことアブダビに暮らした人で、授業の終わりに毎回5分ずつ、アラビア語の会話や読み書きを教えてくれた。会話はほとんど忘れてしまったけれど、アラビア・インド数字は、さっき試しに書いてみたら、まだ手がおぼえていた。

折にふれ、教師は砂漠の生活を語り、手製のスライドを映写機にかけた。そして「砂漠の砂は7色でした。ペルシャ人やアラブ人の目には、もっと多彩かもしれません」と言い、砂をつめた何本ものフィルムケースを子どもたちに見せた。初めてのアラブの砂。全部の色を並べてみると、音のように賑わしかった。

と、こんなことを思い出したのは、たまたま通りがかった場所に砂漠の薔薇が売られていたから。このミネラルの結晶が形成されるのは、かつてオアシスがあった場所だけらしい。


水あればこそ生れるとふ沙漠の薔薇 花弁のかげのひとつぶ。涙

みずあればこそ あれるとう デザート・ローズ
かべんのかげの ひとつぶ。なみだ


the desert rose
is born from minerals
in the water
of a lost lake in a desert
it hides in petals one teardrop
- snowdrop -

余話。こちらでは砂漠の薔薇(rose du désert)はバオバブの花を指し、鉱物の方は砂の薔薇(rose des sables)と言います。バオバブは盆栽でも人気の樹木。わかる。幹、すごいですもんね。

2018-10-16

静かな時間





土曜日と月曜日は、早朝から検査。からっぽの道路がたのしい。


街路樹もずいぶん黄葉した。検査のあとに出された軽食が、このあいだと同じマドレーヌだった(土曜日はブラウニー)。休憩室で俳句をつくる。


2018-10-11

忘れられない記憶も愛も



武術のとき、海藻になる訓練というのを、かれこれ十年ほどやっています。

一人ですることも、二人ですることもあります。

相手がいる時は、一方がもう一方の身体にそっと触れ、触れられた側はその力に逆らわず、触れられた分だけ体を揺らします。ゆったりとくつろぎながら、相手のてのひらを、自分の身体の内に共鳴させるようにして。

それはそうと、人間って、忘れられない記憶でも、いつもしっかり覚えているわけじゃないですよね。心には満ち引きがあり、溢れることもあれば、干上がることもある。愛情もそう。波がある。大好きな人に対してさえも。

何事も、ことさら大切がらず、あるがままにしておくのがいい  そっと手放すか、手放さないか、くらいの執着で。


画かきが私は抽象であると名乗るのも、具象であると云うのもどうかと思う。
物指ではかっている言葉だ。

つかず離れずというが、そういうところに芸術の秘密があると思う。(中川一政「抽象と具象」)

2018-10-09

無数の黎明のために



近所を歩いていると、花が咲いているブーゲンビリアの鉢が並んでいた。

顔を寄せると、吐息のような気配がある。

素朴に、深遠に、花の香を嗅いだ。

技術とはそれを必要としない場で鍛錬し、実践の場においてはすべて忘れ去るがいい  と書くとまるで武術みたいだけれど、同じく〈型〉を有する技芸、俳句においてもそれは一つの理想だ。

あるいは大野一雄が、舞踏から、心こまやかに〈型〉を取り去っていった時間を、想像しつつ。

言葉を、そっと差し向ける  明るい客体ではなく、いまだ輝いたことのない無数の黎明のために。いまだ息をひそめている存在のために。

何もかもご破算にして投げ出して。そこから立ち昇るものがあなたのものだ。考え出したのではなくて、立ち昇るものがあなたのものだ。細密画のように立ち昇るものを。追いかけることと立ち昇るものが一つでなければならない。立ち昇るものと追いかけることをして、立ち昇ったときにはあなたはすでに始めている。立ち昇るそのものがあなたの踊りだ。空はどうなっているんだい。立ち昇るものを受け入れろ。空はいったいどうなっているんだい。そして、自由にひろがっていく。手が足が、命が際限なく自由に立ち上がるときに手足は同時に行動している。あとじゃだめだ。(大野一雄『大野一雄 稽古の言葉』)

2018-10-07

最高の映画




昨夜はCinémathèque de Niceで剣戟スター阪東妻三郎主演の『雄呂血』を鑑賞。1925年の無声映画です。

会場に行く前は「歴史的な作品だし、剣戟も興味あるし、とりあえず観ておこうかな」くらいの気持ちでいたのに、いざ始まってみたら、背景、美術、所作、何もかもが端正で、ほんの少しも中途半端なショットが挟まらない。しかもこの上なく清潔。そう清潔なんです。映画を撮るということに対して気持ちがまっすぐ向かっていて少しも邪念がないの。また型にとらわれない殺陣の数々。なんて気高いのだろうと思いながら、その、めくるめく美しさを目で追っているうちにどんどん感極まって、最後の殺陣のシーンが始まるころにはもう涙が止まらなくなってしまいました。

弁士・坂本頼光氏の明るくて強い、娯楽性にあふれる声質も素晴らしかった。これまで見たことのある弁士は声作りや発声が今風で、生身の人柄を感じさせず、映画を平板にするものが多かったので、実のところ語りに関してはあまり期待していなかったんです。それが昨夜は、弁士が良いと映画がこんなに豊かな立体性を帯びるんだと開眼した次第。75分全編を見終わった瞬間の、まるでゴールのテープを全身で切るかのようなやりきった感(?)は、語りと音楽とがライヴじゃないと味わえない質のものでした。また聴きにゆこう。

2018-10-04

朝の読書



朝の6時から読書をしている。

読んでいるのは江戸時代のロングセラーブック『和歌食物本草』だ。夜景さん、こういうのお好きじゃないですか、とある方が教えてくれた。

ごく身近な食物の効能や害毒を、膨大な和歌で説明している。

ふと奥村晃作の「ただごと歌」を思い出す。「ただごと」という概念はモノ派とかそういうのじゃなくて暗記術としての和歌、あるいは覚え書き和歌の系譜にあるのだけれど、この本もまさしくそれ。

いるかこそ虚を補ひて気を下す陰の萎ゆるに薬なりけり
うなぎこそ痔の薬なれつねにくへもろもろの瘡癒すものなり
犬はたゞ足膝冷ゆる人によし又霜腹をよく止むるもの

陰萎は勃起不全のこと。霜腹は冷えによる腹痛。中世から近世にかけてはこういった、ものの心得や発見(医学・養生・生活・職芸・家訓・道徳など)を和歌にまとめた本が多いらしい。それにしても肉食がすごい。いろんなものを食べていたんだなあ。カモメも食していたようす。おいしいのかしら。

駒鳥は冷なり淋病痰に吉 しはぶきをやめこゑいだすなり
わしの骨灰となしつゝ酒でのめ足手身ほねのくだけたによし
みゝづくの骨は眩暈の薬也くろやきにして酒でのむ也
あを鷺をあぶりてくへばもろもろの魚の毒をば解しにけるとぞ

2018-10-03

日替わりの夢にはいまだ慣れない





低空(ひくぞら)に夏高空(たかぞら)に秋がゐてすれちがふのか綱引きするのか


autumn in the higher sky.
Are they passing each other
or having a tug-of-war ?
  snowdrop

2018-10-02

人生にオチはない





コンゴ出身の男性と、3ヶ月ほど同居生活をしたことがあった。

男性の職業はホテルマンで、仕事柄なのかなんなのか、職場からのいただきものが多かった。ある日は大きなナイロン袋を提げて帰ってきて、

「今日はボジョレーの解禁日だからって、お金持ちのお客さんがフォアグラを丸ごとくれたよ」

と、愉快そうに言った。

私は好奇心に乏しい性格で、凱旋門もエッフェル塔もいまだ知らず、何かフランスらしいことを体験する時は、だいたいいつも他人のおかげだ。この時も丸ごとのフォアグラを調理したことがなくて、何をどうやったらいいのかわからずにいたら、男性が俎板を出し、大きななまこみたいなフォアグラを厚めに切って、バター焼きにしてくれた。

男性のことは今でもよく思い出す。記憶が蘇るのは必ず、海辺の道路でバスを待っているときだ。