2019-10-28

秋の休日





草の穂が惚れあふやうにかゆくなる  夜景

休日。公園を散策。歩きすぎて疲れるも、周りのカフェは人であふれてどこも座れず。タルト・トロペジェンヌで菓子を持ち帰りして、道端のベンチで休憩する。

2019-10-27

燕のおとがい、鹿のたゆたい(澤の俳句 6)





おとがひに合はせ切る髪青時雨  加納燕

会津八一に〈奈良坂の石の仏の頤に小雨流るる春は来にけり〉という歌がありますが、頤をつたう水というのはなにゆえあんなにも美しいのでしょうか。一方こちらの句は〈おとがひ〉に合わせて髪に鋏を入れるといった光景で、清々しさ、凛々しさ、色っぽさの三拍子を備えています。しかも、しかもですよ、背景が〈青時雨〉だっていう。つまり頤をじかに濡らすことなしに、濡れを想像させているわけです。この手抜かりのなさ。すごい。

柏餅の葉剝げば葉脈より裂けて  町田無鹿

日々の暮らしの中にひそむ危機(クライシス)をやわらかく描いたような質感。〈脈〉という名詞と〈剝ぐ〉〈裂ける〉という動詞との相性がよく、ありふれた写生であるはずの言葉が、日常語のくびきから解放されて、存在のあやうさにまつわる喩へと大きく転移しています。また〈剝げば葉脈より裂けて〉の句跨りやて留めの用い方が、作者がこの世界を見ている際のたゆたいを無理なく醸し出してもいる。上五で軽く切ったのも、つかのま息をひそめるようでいいですね。

2019-10-26

かたちの発明




土曜日の読書「文章に惚れる」更新。引用は小沼丹「童謡」より。

言葉は生き物なので、なかなか自分の思い通りにはならないなあと思います。書くときは言葉と息を合わせないといけないし、内容に引けをとらないくらい間合いや分量が肝心ですし。

「いかに、なぜに、こう思うか」を正確に説明しようとすること自体が、誠実さではなく我欲にすぎない状況というのも多い。例えば「好き」と伝えるための言葉が、間合いや分量を誤るとまったく無意味と化すように、同じことを言っても響く声と響かない声というのがある。

わたしは「自由を訴える」のではなく「自由そのものを追い求める」パフォーマンスが個人的に好きなのですけれど、土曜日の読書の本文で触れた安西水丸のイラストレーションは、あ、自由ってこんなふうに生まれるんだ、と気づかせてくれるところが素敵です。楽しいだけでなく、一つのアイデアを実演してくれている。〈自分のかたちを見つける〉という作業に関して、ものすごく発明的なんですよ。

2019-10-25

抽斗堂 no.41 使用済み切手





抽斗堂 no.41は使用済み切手。抽斗埋蔵物の定番です。わたしもコレクターではなく、なんとなく溜まりました。

さいきん五輪のマラソンを札幌開催にしようという案があるみたいなので、ユーゴスラヴィア発行の札幌五輪記念切手を下に拡大。上段右および中央の切手もユーゴスラヴィアです。可愛い切手といえばチェコスロヴァキアですが(本当か?)、いま思うと旧東欧圏全般よかったですよね。下段左はイーグルサムのアニメが残念だったロス五輪。モスクワ五輪のミーシャは良かった(こどもはクマが好き)。

2019-10-24

楽器を鳴らす手つき(澤の俳句 5)


《 お ね が い 》

ええと、このブログをご覧の方の中に、拙宅へ追跡番号付きの封書をお送りくださった方はいらっしゃいますか。もしもいらっしゃいましたら恐れ入りますが小津までメールくださいませ(メールアドレスはABOUT THIS BLOG内にあります)。

* * *

奏者の手は水掬ふ形や春  冬魚

紀貫之〈袖ひちて結びし水のこほれるを春立つ今日の風や解くらむ〉を借景に、水を掬う仕草と楽器演奏とを重ねた晴れやかな句。一句の締めを「や春」と打ち鳴らしたことで見事な音曲感も生まれています。もしも言葉のアンサンブルを組むとしたら、湯を掬う仕草と楽器演奏とを掛け合わせた須川よう子『酢薑』の歌〈湯を掬ふ柄杓の手もて弦掬ふヴィオラ・ダ・ガンバ長閑なる午后〉を隣に並べたいですね。

赤絵の珈琲碗鍋島家雛道具  冬魚

佐賀の深川製磁製作道具也。梅コーヒーカップ&ソーサーのなんてかっこいい詠み口でしょう! 全て漢字にしたくなるところをちょっとこらえ、詠い出しに平仮名の「の」を差し込んだ小技が効いています。

2019-10-22

クリシェをくじく




竹井紫乙『菫橋』。前作『白百合亭日常』には柳本々々さんの「ゆらゆらの王国 ━あとがきは、ない。━」という長文がついていた。今回は前半が川柳で、後半が柳本さんとの対話になっている。

おでこからアンモナイトを出すところ
手触りはどうでしたかと蛸が訊く
おいなりをふんわり運ぶ催眠術
評価とか要らんし京都タワーだし
こんにちはぽろぽろ。さよならぽろぽろ。
(すべて竹井紫乙『菫橋』より)

紫乙さんの句集はいつも裏側が重い。濡れたコートのような疲労感があって、じんわりと人生を感じさせるのだ。ところが抜き書きして眺めると、その重さが少しも剥き出しになっていないことに気づく。こういった身のこなし(身のこなしとはつまり技術のことです)から考えさせられることはいろいろある。

例えば言葉というのは気を抜くと重くなる。また核心が表面に出てしまったりもする。たぶん人には世界と向き合ったときに思わず言葉をドーピングしてしまう弱さ(この弱さは様々の事情に由来する)があって、それでそんなことが起こるのだろう。核心は表面に出てしまうと、批評におけるクリシェさながら使い回され、その調子の良さゆえに権力の様相をすら帯びはじめるけれど、上に引いたような川柳にはそういったクリシェ的なものをくじく力がある、と思った。

2019-10-17

反古のうらがき



反古といえば、こんな組歌をつくってみた。

かへし見る反古のうらがきあらざらむこの世のほかを思ふよすがに
冬泉

あらざらむこの世の外の思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな
和泉式部

和泉式部の歌は恋ゆえわかりやすい。それに反して冬泉さんのは「いつか私は死ぬでしょう。あの世を思う手がかりに、反古をめくってその裏に書かれた字を見ています」というすごく変な内容。まるで反古の裏側にトワイライトゾーンが存在するかのような口ぶりです。

実は冬泉さんの歌は、怪異現象ファンには知られた鈴木桃野『反古のうらがき』にひっかけています。鈴木桃野(1800-1852)は昌平坂学問所の教授だった人で、この本は学問所にある反故の裏を利用して書いたものだから『反古のうらがき』というタイトルにしたらしい。で、内容はというと、これが江戸の奇談異聞をめぐる読み切りコラムなんですよ。つまり桃野は〈この世のほか〉を思いつつ、反古紙の裏に不思議な話を夜な夜な書きためていたのでした。

おしまい。(ううむ、その辺にある反古の裏側をうっかり見ないようにしよう、何が書かれているかわからないから、と思いつつ。)

2019-10-16

抽斗堂 no.40 ミニチュア中国茶器セット




抽斗堂no40はミニチュア中国茶器セット。知り合いからの中国土産です。磁器製で茶碗の口径は18mm。絵付けは手描き。山水画が悪くない。

ふと思いつき、このミニチュア急須にハーブティーを淹れ、注ぎ口から注いでみた。すると4つの茶碗にちゃんとハーブティーが注げた。

カメラを寄せると、本当に中国茶を楽しんでいるようなリアルな雰囲気(※個人の感想です)。

2019-10-14

芭蕉と倒装法





三島ゆかりさんから「連句誌『みしみし』で夜景さんに言及したので一冊お送りしますね」との連絡をいただく。雑誌が届き、ひらいてみると、三島さんのお書きになった「生駒大祐『水界園丁』を読む」の中に「小津夜景がいうところの倒装法」との一文を発見。

私が倒装法という語を使ったのはこちらの小文なのですが、ううむ、わたし、ちゃんとネットで入手できる参考文献を紹介したし、倒装法にかんして自分の手柄みたいな顔はこれっぽっちもしてないよね、と不安になりました(気が小さい)。

私の知るかぎり「錯綜顚倒」「倒装法」などの用語はどの芭蕉全集の校注にも出てきます。芭蕉の倒装表現が主要テーマの研究書もありますが、そもそもこれ蕉門十哲の各務支考『東華集』にある話でして、「余興」と称して芭蕉の「錯綜顚倒之法」をめぐるコラム(上の画像)が載っているんです。あとは石河積翠の芭蕉本にも出てくるらしいし、六平斎亦夢『俳諧一串抄』にも〈鐘消えて花の香は撞く夕哉〉について「これ鐘は撞べきもの、香ははかなく消るに名あるを、相反したる体裁なり」との評がある。つまり江戸時代から知られた話題なのです。芭蕉のファンでなくても、漢詩や言葉遊びが好きな人なら、倒装法の話はいろいろ目にしたことがあるのではないでしょうか。



せっかくなので倒装法を使った芭蕉の秋の句を。私はこれ、漢詩の読み下し風を演出した、とてもしたたかな自由律と思っていて。なかなか、ヴァガボンドな、渋い味を醸しているんですよ。はい。

憶老杜
髭風ヲ吹て暮秋嘆ズルハ誰ガ子ゾ  芭蕉

《「憶老杜」は杜甫を思いしのぶ意。普通には「風髭を吹いて」というべきところを、漢詩の倒装法に倣って言葉を逆置した修辞である。杜甫の詩句「藜(あかざ)を杖ついて世を嘆ずる者は誰が子ぞ」を踏まえ、疎髯を風に吹かせて蕭索たる暮秋の曠野に立ち歎く杜甫の俤を描いた、典型的な天和調の句である。この句は全体として「白帝城最高楼」の詩句を摸し、倒装法まで用いて漢詩的な気分を盛り上げようと努めているが、それは単なる技巧的な興味にとどまらず、作者自身の内的衝迫の強さのあらわれとして表現面に滲み出たものである。「誰ガ子ゾ」は、「外ならぬ杜甫だ」と言っていると同時に、その杜甫の姿に託して芭蕉の悲傷の情を寓しているのだ。それが突兀とした倒装法や八・八・四という破調となって現われているわけで、そう感じさせるだけの力をこの句は持っている。》(阿部正美『芭蕉発句全講I』明治書院、所々中略アリ)

甘味とか渋味とか




裏手まで火の粉の香る惜字楼  夜景

●土曜日の読書「文字の泡」更新。引用は篠田桃紅『墨いろ』より。追記で書き散らしたあとの紙の話。昔、中国では文字の書かれた反故のことを「惜字紙」とよんで、反故専用の焼却炉で焼いていました。この焼却炉の名称は、惜字楼、惜字炉、惜字塔、焚字庫、字庫、焚紙楼、文風塔、文峰塔、敬聖亭、聖蹟亭、敬字亭などさまざまなヴァリエーションがあり、いずれも反故への愛惜が感じられます。

●4月から続いてきた往復書簡LETTERS、最終回「この地上で」更新(上はこちら、下はこちらです)。連載中は相手の言葉に付きすぎない返事を出すよう心がけていたので(「即き過ぎ」を避けるのは俳句の礼儀作法らしい。そう聞いてから、甘やかな文体の時でも、芯の部分でツンデレのツンを崩さないようにしている)、やりとりを終えて、いまはじめて須藤さんの言葉にぴったり寄り添った返答を心の中に思い描いています。もしもまた手紙を書くことがあれば、このぴったり寄り添った言葉から語り起こしてみたいと空想しつつ。

●山の上に自生していた写真のいちじく。熟れているのをもぎとってかじると渋味があって、おいしくは、なかった。

2019-10-10

抽斗堂 no.39 海の写真




抽斗堂no39は海の写真。写真家の入交佐妃さんが20代前半に撮影したもの。京都ほんやら堂の2階でもらいました。

当時の入交さんは側面が蛇腹になった木枠のヴィンテージ・カメラを使っていたのですが、カメラは畳むと薄い木箱にさまがわりして、なんだか手品みたいでした。

写真をクリックすると、とても〈記憶〉の香りがします。

2019-10-09

写生とコマ割り(澤の俳句 4)



イヤーマフはづしイヤホンはづし「はい」
榮猿丸

発明的変句。「はい」の句というと柳本々々が、

「月面のようですね」「はい」音信不通
柳本々々

を始めとしておびただしい数の〈実存主義的はい〉を産出していますが、これについては私、川柳が話体を排除しないために「はい」をめぐる怪作も生みやすいのだろうと察するんですよ。いっぽう猿丸さんの句は出来事の過程を解剖的に写生した〈四コマ漫画的はい〉で、個人的には中崎タツヤ『じみへん』を思い出します。この句の成功の鍵はそんなクールなコマ割りに加え、シンプル&コンストラクティヴな音の配置にあるようです。

余談(と断るまでもなく、この日記は一から十まで余談)ですが、漫画といえば、岡本一平が『新しい漫画の書き方』の中で漫画に役立つ読書の話をしていて、そこでホトトギス派の写生文を推薦しているのをみて「へえ」と思ったことがあります。あと徳川時代の川柳も、わずかな機微を捉えて大局を解剖する技術がすごいから読めと書いている。言われてみれば〈盗人を捕らえてみれば我が子なり〉なんてすぐコマに割れそう。あんがい川柳って世界極小サイズの『事象展開サンプル集』なのかもしれません。

2019-10-07

さびしさの偶景





寂しさに秋成が書(ふみ)読みさして庭に出でたり白菊の花
北原白秋

今日は旧暦の重陽らしいので雨月物語「菊花の契」を。寂しさといえば、先日これを読んで、そういえば近代詩歌を読み出したころいちばん驚愕したのは、詩人や歌人がこぞって「寂しい」と書きまくっていることだったなと思い出しました。その手の感情は言わずして語るのが近代人だと信じていたから、これちょっとやばすぎない?って思ったりして。

斎藤茂吉「『さびし』の伝統」はそんな驚愕を宥めてくれたエッセイで、私はこれを読んで詩歌が個人の仕事であると同時に過去の書き手たちとの連帯でもあることを知ったんです。ふむ、そうか、山口誓子〈学問のさびしさに堪へ炭をつぐ〉も詩歌の歴史への応酬なんだ、とかいろいろ。

ところで茂吉は触れていませんけれど、このエッセイ(1937年初出)の書かれた四半世紀ほど前には、短歌と西洋文化の融合による〈さびしのモデイフイカチヨン〉のこんな新機軸がすでに見られます。

寂しさに海を覗けばあはれあはれ章魚(たこ)逃げてゆく真昼の光
北原白秋

近現代詩歌における「さびし」のカリスマ、北原白秋。この歌の見どころは永遠へと通じる光の海。これは漢詩や和歌には存在しなかった景で、この世界に在ることの眩暈のような寂しさが印象的です。官能と退廃、傷もつ魂とその癒しといった感覚を同時に現前させ、青から白への移行や章魚の詠みぶりも異国風味でおしゃれ。ついでなので、歴史的連想を湛えた「さびし」の歌も、いくつか気ままに引きます。

庭園の食卓(抄)  北原白秋
青き果のかげにわれらが食卓をしつらへよ、春を惜むわかき日のこころよ

サラダとり白きソースをかけてましさみしき春の思ひ出のため

しろがねの小さき匙もて蟾蜍(ひきがへる)スープ啜るもさみしきがため

干葡萄ひとり摘み取りかみくだく食後のほどをおもひさびしむ

ひるげどきはてしさびしさ春の日も紅茶のいろに沈みそめつつ

2019-10-06

秋の一日





土曜日。夫がパンを焼いているあいだに、海岸の道を歩いて買い物へ。もう10時を回っているのに人がまばら。


夏の青空一辺倒主義から解放されて、扁平な雲が宙に遊んでいる。海の色もすっかり秋になった。


だが近所ではまだしつこく浮き輪を売っている。


帰宅。郵便箱をのぞくと暮しの手帖社からの封書。手にとってびっくりする。なんとSAL便専用の自社封筒ですよ。こんな出版社あるんですね。


昼ごはんのあとは普段づかい用の椅子カバーを手縫いする。水曜日から少しずつ作業して、あとはフットレストをひとつ残すところまで来た。角は丸くしなかった。面倒だから。

霧ふかき恋の文(ふみ)書く教師かな  夜景

2019-10-05

読書について





こゑといふこゑのゑのころ草となる  夜景

スマートフォンを新しくしました。さっそく写真を撮ってみると悪くない感じ。上は夜の室内なのですが、以前のスマートフォンは明かりの下だと色が変になっちゃったんですよ。でもこれはいいかも。ピントもいい。うん。

* * *

土曜日の読書「読書、ある〈貧しさ〉との戦い」更新。引用はヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』より。ヘッセというと自意識の問題を扱う人といったイメージで、少女のころは少しも共感できなかったです。だって自意識の問題というのはものすごく恵まれた境遇の悩みですよね。貧乏な人や病気の人はそんなこと悩んでいる余裕なんてないですから。あと女性一般には許されない自由を最初から得ている人々のロマン主義だとも感じていました。で、自意識よりもはるかに下位の次元で社会の抑圧から解き放たれること、自由になることを模索していた少女としては、ヘッセって政治性に欠けているなあというのが率直な感想だった。あ、もちろん現在は、もっと豊かな感想をもっています(為念)。とくに雲を観察した文章が好きで、どれを読んでも生まれ変わるような心地がします。

私は自分の好きな人の読んでいる本を読むのが好きです。読書する理由が〈あなたまかせ〉だと気分が軽くなるのかすんなり読めるんですよ。逆に自分で選んだ本はつまらないことが多い。自宅にある本もほとんど読んでいません。本を買う基準はこちらに書いたようなスタンス。古道具と一緒です。

2019-10-02

職人の仕事(澤の俳句 3)



屋根職人のピアス光るや鳥雲に  𠮷田秀德

〈屋根職人〉の一語が情趣のみなもと。『職人尽発句合』にみえる檜皮司の句〈行く雁を屋根で見送る別れかな〉に唱和したようでもあり、なかなか風流です。またピアスという素材が若者らしさに加えこの道ならではの伝統っぽさをかもしだしています。雲間に消える鳥と耳元の小さな輝きも相性がいいですね。

きつつきの穿ちし軒端雪降り込む  長坂希依子

『江戸職人歌合』の二十番に〈月影の洩るるばかりに板屋根の軒端を少し葺き残さばや〉という屋根葺きの歌があって、これは暮らしの中に風雅を演出するためわざと軒端に空(くう)をこしらえるわけですけれど、きつつきの名匠がおつくり遊ばす軒端の空(くう)やそこへ降り込む雪も、江戸の職人に勝るとも劣らず表情豊かだなあ、と思いました。下五の字余りも安定感があります。

2019-10-01

夜の残り香





長き夜のmemento moriのmの襞  夜景

あの、夜景さんって名前に「夜」が入ってるのに、なんか僕ずっと「昼」の人だと勘違いしてましたごめんなさい、と、先日いきなり知り合いに謝られた。

いままで何人かこれと同じことを云う人がいた。あらためて読んでみると、名前のとおり夜の人ですよね、と。

また少し違う角度の話では、「夜景さんがクラゲを好きなのは、クラゲが〈暗げ〉だからでしょう? あとクラゲを絶対に〈海月〉と綴らないのは、クラゲを照り輝かせたくないからですよね?」と福田若之さんに言われたこともある。

なるほど。そうかもしれない。

ところで、夜の表象が昼とは別種の世界をひらくとき、そこにひらかれたありさまを見て「夜とはこういうものだ」と語ることはできない。夜とは変容の触媒であり、どんな景色でも現前させる。むろん光さえも。

夜の景色にたたずんでいるときも、夜そのものは掴まえられず、煙のように指先から逃げてゆく。かろうじて人にできるのは、その残り香を嗅ぐことだけだ。

いさよいの紙をながるるのは雲か  夜景