2019-10-07

さびしさの偶景





寂しさに秋成が書(ふみ)読みさして庭に出でたり白菊の花
北原白秋

今日は旧暦の重陽らしいので雨月物語「菊花の契」を。寂しさといえば、先日これを読んで、そういえば近代詩歌を読み出したころいちばん驚愕したのは、詩人や歌人がこぞって「寂しい」と書きまくっていることだったなと思い出しました。その手の感情は言わずして語るのが近代人だと信じていたから、これちょっとやばすぎない?って思ったりして。

斎藤茂吉「『さびし』の伝統」はそんな驚愕を宥めてくれたエッセイで、私はこれを読んで詩歌が個人の仕事であると同時に過去の書き手たちとの連帯でもあることを知ったんです。ふむ、そうか、山口誓子〈学問のさびしさに堪へ炭をつぐ〉も詩歌の歴史への応酬なんだ、とかいろいろ。

ところで茂吉は触れていませんけれど、このエッセイ(1937年初出)の書かれた四半世紀ほど前には、短歌と西洋文化の融合による〈さびしのモデイフイカチヨン〉のこんな新機軸がすでに見られます。

寂しさに海を覗けばあはれあはれ章魚(たこ)逃げてゆく真昼の光
北原白秋

近現代詩歌における「さびし」のカリスマ、北原白秋。この歌の見どころは永遠へと通じる光の海。これは漢詩や和歌には存在しなかった景で、この世界に在ることの眩暈のような寂しさが印象的です。官能と退廃、傷もつ魂とその癒しといった感覚を同時に現前させ、青から白への移行や章魚の詠みぶりも異国風味でおしゃれ。ついでなので、歴史的連想を湛えた「さびし」の歌も、いくつか気ままに引きます。

庭園の食卓(抄)  北原白秋
青き果のかげにわれらが食卓をしつらへよ、春を惜むわかき日のこころよ

サラダとり白きソースをかけてましさみしき春の思ひ出のため

しろがねの小さき匙もて蟾蜍(ひきがへる)スープ啜るもさみしきがため

干葡萄ひとり摘み取りかみくだく食後のほどをおもひさびしむ

ひるげどきはてしさびしさ春の日も紅茶のいろに沈みそめつつ