2020-03-31

長律と眩暈(澤の俳句 13)





昨年『澤』に連載した句評のストックも半分を切りました。なんだかさみしい。全部なくなったら、また新しく書こうかしら。

弦楽四重奏ながれアウシュヴィッツビルケナウ強制収容所劫暑  オオタケシゲヲ

迫力に一票。素材の取り合わせに説得力があり、長律にも張りがあります。〈ながれ〉のひらがなもバランスのよい仕事をし、〈劫暑〉という季語を発見したのもすごい。特に〈劫〉という漢字がいいですね。このままでも素晴らしいと思いつつ、ひとつ感じたのは、この句の場合、固有名詞を正確に〈アウシュヴィッツ=ビルケナウ〉とハイフン入りで綴った方がより現実感が増し、出来事の不条理性が印象づけられるのではないか、また〈劫暑〉の誘う実存的眩暈も強まるのではないか、ということでしょうか(もちろんハイフンがない方が字面は端正なのですけれど、句の内容が過剰性を求めていると思ったので)。

蟻歩くイサムノグチの鑿の跡  オオタケシゲヲ

語と語の結合が、どの部分もしっかりと安定しています。なかでも決め手は冒頭の〈蟻〉。季語も担うこの一語が〈イサムノグチ〉の名前と響き合うことで彫刻的な品位がドラマティックに華やぎ、〈鑿の跡〉の余韻もいっそう深まっている様子。あとこれはなんども感じたことですが、オオタケさんの句はひらがな・カタカナ・漢字のバランスが絶妙で、かっこいいです。

2020-03-30

そしてもう誰も死なない





冷戦下のSF的想像力は、いかに高度な観察と狂気とを秘めていようとも、良くも悪くも構造的に練り上げられた思考実験で、あっけにとられるような不条理感がなかったーーと、日本の新型コロナ対策「お魚券」の話を聞いて、ふと思う今日このごろ。外出禁止令も15日目となり、郵便箱を覗くのがささやかな楽しみです。以下は『トイ』Vol.01より。 

ダウンジャケット着て読む人類滅亡譚  干場達矢

連作「正誤表」より。初句7音「ダウンジャケット」のライトさと、句を跨いで鎮座まします「人類滅亡譚」のヘヴィーさとの組み合わせが非常にポップな一句。ふわふわの羽にくるまっているという状況が、何気ない日常詠を装いつつ、まるでシェルターの中にでもいるようなSF的退行感覚をも醸し出しています。

鳥交るころ禁猟区で逢ひませう  〃

連作ラストの句。それまでの雰囲気が一変し、エピローグと思しき明るい景色が広がります。かつて夏目漱石は僕はまだ鳥じゃないと嘆きましたが、この句の作者は近いうちに人を辞して鳥となることを予感し、そしてもう誰も死なない国に遊ぶ約束をしているのかもしれません。

2020-03-28

情感のながれる時空





LETTERSでも触れたモンテヴェルディ「オルフェオ」は古拙と現代とが融合した、知的で控え目な舞台。照明の美しさが印象的で、オペラをよく知らない自分にも楽しめるものでした。

見所のひとつは舞台に浮かぶ、特殊なナイロン糸を使った手織り彫刻「エゴ」だと思います。このオペラは物語の展開に沿って「エゴ」が変形し、それによって情感の流れる時空を創出するという、きわめて今世紀ふうの流体力学系装置を唯一の大道具にしていまして、この変幻自在の布のおかげで「柔らかな悲劇」とでもいうべき、たっぷりのうつろいを含んだ独特の香りが漂っています。

また、きわめて演劇的(見世物的)であることが多い「オルフェオ」を、照明、大道具、衣装、ダンス、器楽、そして歌唱といった要素がシームレスになった有機的インスタレーションの方向へと転じてみせたところも感動的です。

踊りについては、どこに重心がかかっているのか一目でわかる彫刻的な振り付けで、ストッキング地の衣装は、キトンをベースにしたシンプルなデザイン。色も控え目で、ほぼ裸に見える群舞については、遠目にみるとあっと驚く山海塾です(思えば舞台の上にホログラフィのように浮かぶ「エゴ」というのも、ちょっとオリエンタルっぽい趣向かも)。

音楽については楽器と歌唱とのあいだの相互作用がわかりやすく、うっとりと心地よい。ほら、歌手が歌うと、楽師の合いの手が入りますよね、この合いの手が、絹に縫い付けたビーズみたいに装飾性豊かで、かつ官能的なのです。

2020-03-27

光の落書き





きのう「音の落書き」と書いて、ふとピカソの「光の落書き」を思い出す。とても好きなのです。

医療従事者への拍手は、昨夜は鳴り物だけでなく、ベランダで花火を上げている人がいた。

部屋にこもるようになってから、アパートの前にあるカフェを日がな窓越しに眺めている。というのもこのカフェ、外出禁止令が出てからも、一日たりとも閉まっていたことがないのだ。毎朝7時から、ガタイのよい男性客が出入りして賑わっている。怪しい人たちかな、今まで全く気づかずにあそこでお茶してたなあ、これから気をつけよう……と思っていたら、今朝、その怪しいと思っていた人たちが警官であることが判明した(どうりでガタイがよいはず)。警官以外の客も出入りしていて、どうやら目を瞑ってもらっているようだ。ニース市内に何店くらい、こういうカフェがあるのだろう?

2020-03-25

音の落書き





タンバリン鳴らす隣人春の闇  夜景

ここのところ毎晩20時になると家々の窓がひらき、医療従事者を励ますための拍手が始まります。町が静かな分これがよく響くんです。手ではなくタンバリンを叩く人も多い。もしもスペインだったらカスタネットの音があふれるのかな、闇の中がカスタネットの音でいっぱいになったら、すごくファンタスティックだろうなって思います。

夜、手を叩くのは楽しいです。どこにどう音が跳ね返ったらそうなるのかわからないけれど、叩くたびに、ビョニョーン、ビョニョーン、ビョニョーンと口琴っぽい音が立派にこだまして、音で落書きしているみたいです。

2020-03-24

聞くことから始める





今日もアパートの階段を6往復しました。なんだかSFみたいな暮らしです。

* * *

往復書簡「LETTERS」更新。第22回は「解きほぐしを支えるもの」です。太極拳のレッスン、気を「聞く」という表現、ただ世界に耳を傾け意識を自分の外に置くこと、織り合わせと解きほぐし、ベケットの『伴侶』、無限者の物語、などなど。上はこちら、下はこちらからどうぞ。

アイデンティティを保証する「私」ってふしぎなものですよね。「思う=思惟」と「在る=実在」との間のずれを「私」という名の「思惟の超越論的主体X」(カント)によって隠蔽してしまうようなやり方って、たぶんベケットは大嫌いだと思うんですよ。

カントは「もしも我々が自己に関する統一的表象をもつに及ばないのであれば、『私』を纒わぬ『X』は統一を欠いたさまざまな自己に陥るだろう」と書きましたが、ベケットは『伴侶』において、もはや統一的主体としての体裁を保つことのできない瀕死の老人を登場させ、この老人に備わるさまざまな能力に名前をつけて、それぞれ別の自己として扱ってみせました。で、ここで見事なのが、それらを統一を欠いたてんでばらばらの自己のままにはせず、「声の聞き手」として一つに繋いでみせたところです。

一切を「思う」ことからではなく「聞く」ことから始めてみるという、このなにげないことを、ここまで考え抜いて構造化した小説って見たことがありません。

マトリョーシカ分かちて終(つひ)に現はるる虚(うろ)をもたない小(ち)さき人形  松岡秀明

2020-03-22

ベランダのもようがえ






蜜蜂の羽音の夢を痣は見き  夜景

アパートの階段の昇り降り、今日は結局6往復もしてしまった。わたしがそんなことをしているあいだに、家人が2階のトランクルームからぼろぼろの丸テーブルを出してベランダに運び入れ、休憩がてらちょっとした仕事もできるように模様がえした。試しにコーヒーを飲むと驚くほど気分がいい。月曜の昼ごはんはベランダでピッツアを食べることにしよう、と家人が言う。

アパートのベランダから、周りの家をみるともなしにみると、ベランダで一日をすごしている人が多い。犬や猫もベランダにいる。

2020-03-21

金魚と夢のみそかごと(澤の俳句 12)



外出制限から1週間。今週の外出はこの日の買い物だけ。まだストレスは感じていないけれど、運動の代わりにアパートの階段を昇り降りしている。今日は2往復した(住まいは6階にある)。明日からは4往復するつもり……と書いて、あ、これがストレス的行動なんだ、とたったいま気づく。

* * *

八十歳(はちじふ)のバリトン歌ふ「初恋」夏  𠮷田秀德

これ、簡単にいえば〈八十歳〉と〈初恋〉という派手なギャップを利用した句ということになりますが、にもかかわらず味わいはデリケートです。言葉の流れがなめらかなのでギャップが鼻につかないのでしょう。とりわけ〈バリトン〉という語によって情感の襞をいったん低域に引き込んでからの〈初恋〉が巧みで、涙のような潤いが込み上げています。句の要となる〈夏〉という語も切れ味たっぷりの余韻を醸し、見果てぬこの世の夢を語って尽きることがありません。括弧も効果的。ここまで括弧が機能している句というのも珍しいんじゃないでしょうか。

らんちうの尾鰭は夢の続きにて  おきのきらら

〈らんちうの尾鰭〉というのは自然と装飾とを混ぜ合わせたようで、かすかな奇想の香るところがなるほど夢に似ています。その〈夢〉を〈にて〉と軽く受け流したのがこの句の良さで、ここに夢ならではのしなやかさが現れていると思いました。もともと夢と金魚はイメージの互換性が高いモチーフですが、ソツがなさすぎて退屈になりかねないところを措辞の力で切り抜けたと思います。

2020-03-19

世界とわたしとの関係について





わたくしめのような野人でも「なんで生きてるんだろう」としばしば考えるんですが、これを突き詰めると、ああ、この世には「ちょっと遊びに来ているだけ」なんだな、といった結論に至ります。

鳥や獣となんら変わるところがない。遊びをせんとや生まれけむ、という次第です。

でね、ここでいう「遊び」ってなにかというと、それは歌を歌うことです。誰に聞かせる訳でもなくただ歌う歌。歌うとは、この世に生きたことの証です。

以上、世界とわたしとの関係について、でした。お別れの曲は陸游の愛聴盤からお送りします。ではみなさま、また会う日まで。

初夏行平水道中  陸游 

老去人間楽事稀 一年容易又春帰
市橋圧擔蓴糸滑 村店堆盤豆夾肥
傍水風林鶯語語 満園烟草蝶飛飛
郊行已覚侵微暑 小立桐陰換夾衣

初夏 平水の道中を行く

人間は年をとると 楽しいことが少なくなる
一年はあっけなく またしても春が終わった
市場の橋には つややかな蓴菜が籠いっぱいで
村の店先には 丸々太った莢豆が皿に山盛りだ
水辺の風に林はそよぎ 鶯は互いに鳴き交わし
野原を覆う草はかすみ 蝶と蝶とがたわむれる
郊外を歩くとうっすら汗ばむこの季節
しばし桐の木陰に立って着替えをしよう

朝の買い物



夫婦で最寄りのスーパーへ。ニースの人口はフランス第5位なので行列を危惧したのですが、入場制限はなし。1軒目。


2軒目(ここはル・アーヴルでゴム長靴を目撃した系列です)。


朝10時にしては、普段よりも棚に商品が揃っている。みんなが不安にならないよう、仕事をサボらずに並べているのかも。上のスーパーはどちらも全国チェーン店なので、他の都市でも似たような感じで営業しているのではと思います。

2020-03-17

ちょっと思いついただけの話



外出禁止令が出た。これからは外に出る時は、自分で自分に「外出許可証」を書いて持ち歩かないといけない。 もし道で警官に会ったらその「外出許可証」を提示する(持ち歩かなかったら38€の罰金)。書式も決まっていて内務省のサイトからダウンロードできるのだけど、うちはプリンタがないので手書きになる。面倒なので今日はどこにも行かなかった。家人もジョギングをしたくらい。

以前、半可山人の「詠柳」という狂詩を訳したことがあるのですが、ふとフランスで同じ趣向の遊びをするならいったい何が入ってくるだろうと考えてみました。

(1)パリ。シテ島の柳。
(2)ジヴェルニー。モネの庭の柳。
(3)ペリゴール地方の柳細工。
(4)自転車の手編みかご
(5)ディプティックのロンブルダンロー(水の蔭)。香水瓶の裏面に柳の画が付いています。
(6)モントゥーの高級ビストロ「枝垂れ柳」。
(7)ミュッセの墓碑銘。
(8)ナポレオンの柳。

(4)が適当すぎですね。すみません。ほんと、ちょっと思いついただけの話でした。

2020-03-16

郷に入っては





身につけるものって住む場所によって変わりますよね。たとえ洋服に興味がなくても、パリとタヒチとサンクトペテルブルクで同じ格好をする人は少ないだろうし、洋服が好きならなおのことそうでしょう。土地の空気に敬意を払い、進んでそこに感性を寄せてゆくのが吉という意味で、ファッションは料理とよく似ています。

経験的に言って、ファッションの中で最も使い回しのきかないアイテムは靴です。パリに住んでいたころはジーンズが多かったので、革の厚い老舗のローファーを色違いで揃えて、夏も履いていたのですが、夏のニースでそんなものを履いていたら二度見されてしまいます。コート・ダジュールに立体的な靴は似合わない。断然足を覆わない、もしくは柔らかく平面的な靴がいいんです。イタリア製のレザーサンダルから土産物店のラバーサンダルまで、ぺったんこならさらに風流。ただしわたし自身はぺったんこの靴が苦手で、最初こそ粋がってキオスクで買ったスポンジ草履で海辺を闊歩していたのですが、足の裏が痛いのでミドルミュールのサンダルに移行してしまいました。

トゥールーズ(ミディ・ピレネー)は、これといって驚きのない、雑誌から出てきたような装いが多いんです。ファッションにおいてローカリティがないというのは往々にして欠点だったりしますが、わたしは「あ、この町はこうなんだな」と思うだけです。バラ色の煉瓦に挟まれた裏通りを歩くには、ルイヒールのサンダルあたりが気分を上げてくれそう(ルイ14世は、フランス人の弁によれば、それまで実用品だったヒール靴を初めてファッションとして履いた人)です。

ル・アーヴル(北ノルマンディー)はどうかというと、あそこは絶対に黒のゴム長靴でなきゃいけません。はい。ル・アーヴルに住み出してすぐ近所のスーパーに行ったんですね。すると海鮮売り場の、氷の上にどさりと盛られた鰯のすぐ横になぜか家庭用ハンガーラックが置いてあり、トレンチコートとゴム長靴がずらりと掛かっていた。で、これなんなの?と思ったら売り物でした。生魚の匂いがうっすらとするトレンチコートは興奮します。あとあそこはエーグル愛好率がやたら高い。わたしも当地に住むまでは「エーグル? ダサいよ」なんて思っていたクチですが、潮の荒々しい港町で身につけるそれはーーはい、本来エーグルは農作業用です。しかしながらーー渋くて最高なのでした。そんなわけでわたしもエーグル派に改宗し、乗馬型の長いラバーブーツと短いレザーブーツを履き、ニースに来てからも雨の日に使用しています。

2020-03-15

声と文字





新型肺炎対策でいろんな施設が閉まったせいでみんなやることがないのだろう、海岸沿いが賑わっている。ジョギングをする人もいつもの倍はいてとても走りにくそうだ。ニースはイタリアまで車で30分かからない距離にあるのだし、もう少し自宅に籠っていてもいいと思うのだけれど。パリのニュースがまるで外国の出来事みたいだ。

* * *

往復書簡「LETTERS」更新。第21回は「間の呼吸」。朗読の間、呼吸を重ねること、響きの庭、バッハの受難曲、人の声を超えた声、楽器がもたらす情報、文字のイメェジと音、声と文字、ひらかれた問い、めざめた心、などなど。上はこちら、下はこちらからどうぞ。

今回の手紙に「声と文字とが線引きできない」という話が出てきます。しばしば学問では「文字の中の声」についてよく語られ、「声の中の文字」について語る人が少ないですけれど、わたしには「声の中の文字」の方が日常のリアルでして、例えば自分が(朗読も含めて)独り言をいうときというのは、音で絵(痕跡)を描くように音程を広くとり、標準語でも地方語でもない独自の訛りで、少しずつ円を描くように息を出すんです。場合によっては八卦掌みたいに、実際くるくる回りながら声を出してみたりもします。わたしにとって声を出すというのは虚空に描く書道のようなもので、また実際にも詩、書、画、武は「運動」として分かち難い。古代の演劇や、能楽などもまた然りではないでしょうか。あ、あと朗読のとき、言葉に感情を投影するのは好きではありません。なぜなら、そのときわたしは感情を伝えるためにではなく、言葉そのものを演じるために声を発しているからです。

2020-03-14

眠りと目ざめのあいだで





ゆうべは、たしか0時ごろでしょうか、ふとこのまま死んだら困るなと思い、死んだあとの段取り(?)について日本にいる知人にメールを出したんです。そしたらすぐに返信があったのですけれど、悪いけど自分の方が先に死ぬから頼んでも無駄ですと書いてあって、悲しみに濡れながらそのまま眠ったのでした。今朝は8時に起き、各所からのお見舞いメールに返事を出し、ささっと身の回りの整理をしました(恥ずかしいものを捨てた)。顔が痛くなってきたのでこれからまた少し休んで、夜は少し前に満尾を迎えた連句の直しをする予定です。

ところで、何かを回想するシーンなどで「わたしは目を閉じてほにゃららを想った」という描写をたまに見かけるのですが、あれって本当のことなんでしょうか? それともただの凡庸な言い回し? かなり気になります。というのもわたしは目を閉じるとすぐ寝ちゃうんですよ。目を閉じてものを考えられない(寝ちゃうから)。道場で練習の最後に瞑想するときも、頭の芯の部分のスイッチを毎回こっそり切って、眠りながら瞑想しているふりをしているんです。と書いていま気づいたんですが「ふりをしている」と思っているのはわたしだけで、周囲の人たちには眠っているのがバレているかもしれません。

2020-03-11

大地と獣のマリアージュ(澤の俳句 11)





顔の腫れ。動くと腫れるのでまだじっとしている。武田百合子『ことばの食卓』を読む。手に軽くて文字が大きくて、横になったまま眺めるのにぴったり。

潮風やパスタにからめ烏賊の腸  馬場尚美

ううむおいしそう。料理の手際が鮮やかで、食材の湯気までが目に見えるようです。さらに〈潮風〉と〈からめ〉の語が相性抜群ときている。あとこの句形って「手早くまとめました感」を醸し出すのにもってこいですね。アウトドア料理の描写にとてもフィットしています。

結界の扇一本能舞台  望月とし江

私、能を詠うのって難しいと思うんですよ。能って素敵だから、詠む方も気分が躍るじゃないですか。それで二枚目気分の酔っ払った句ができちゃたりする。翻って掲句をみるに〈扇一本〉によって設けられた一線が、恥ずかしい世迷言を口走りそうになる隙を与えない。寡黙な言葉選びが効果的です。

水晶の鏃夏野へ鹿射ぬく  高橋和志

句のすみずみまでキーンとゆきわたる〈水晶〉という語の魅力。護身具としても使われ、邪気のエネルギーを浄化するこの〈水晶の鏃〉が〈夏野〉の舞台をいっそう清らかにしています。射抜かれる鹿、またその鹿が大地へと倒れるイメージも、大地と獣の婚姻のような神話的美しさがありますね。

2020-03-07

機屋と紺屋のリトルネロ(澤の俳句 10)





昨日と比べて顔の腫れがずいぶん引く。ちなみに魚は鰊だった。写真はネグレスコの玄関に立つニキ・ド・サンファルのマイルス・デイヴィス像。

父の写譜手伝ふ夜や椎若葉  鳳 佳子

古写本からの書き取りでしょうか。上五中七の情緒が密で濃いので、下五はあっさりとした、しかも句の内部空間を押し拡げるような植物がしっくりくるかなと想像しますが、その点みずみずしさとおおらかさを兼ね備えた〈椎若葉〉はまさに適語。新しい葉をゆらしてさやぐ初夏の樹木というのはそれ自体楽団的でもあります。素材のバランスがうまくいった句。

機屋に嫁ぐ紺屋の娘つばくらめ  古川恵子

歌合における永遠の宿敵同士、機屋と紺屋。私にとっての両者のベストマッチは「職人尽発句合」にみえる〈春陽の日陰や藍の深緑/紺掻〉vs〈夕立や織り込む箔の稲光/織殿〉です。両句の力量のバランスと情景のコントラストがいい。さて、ふつうは紺屋で惚れた腫れたというと「紺屋のあさって」ということわざのせいで悲しいものが多いですが、この句はうきうきした雰囲気で気に入りました。家庭円満や富の縁起物である〈つばくらめ〉の季語も、句意をよりわかりやすくしています。この句の場合、図式の強さは長所です。

2020-03-06

魚の骨とペニシリン





昨日から予定をすべてキャンセルし、薬をのんで横になっている。口の中に魚の骨が刺さったのを自分で取ろうとしたらなぜか失敗して、顔がすごい腫れちゃったのである。ごはんも食べられない。山のように薬を出され、とりあえずペニシリンを6日間のむのだけれど、神経を圧迫しているとかで、これで治らなかったら手術だそうだ。怖いよう。とりあえずこのペニシリンの包み紙がかわいいので見てください。

それで横になっていて、一人きりなので動画を流していたら、たまたまSlackers☂という人たちの映像を見たんです。で、この程度のざらついた画が好きだなと思いました。編集もクールでアート・フィルムっぽい。それにしても「ロシア人ともあろう漢はこのくらいの寒さはなんでもないのか?」と思いきや、撮影の間にヴァイキングフィヨルド一本開けちゃってるとは。

2020-03-03

宵越しの句は持たない





海辺の遊歩道で見つけたチョークのラクガキ。一度描かれると2、3日は消えずに残っています。

むかし、ある場所に俳句を毎週連載していたとき、たまたま調子がよくて沢山の句が生まれた週があったんです。で、句ができたときは一瞬「わあ。これだけあったら、つまり翌週分のストックもできたってこと? やったね!」と思ったのですが、すかさずはっと我に返り、

翌週分? 
なにそれ? ばかなの?
そんなのどーでもいいよね。 
俳句を書くって、なーんの義務でもないのに。
だいたいストックとか、そんなセコいこと考えてたら、遊びにならないじゃん。
書けたらぜんぶ出す。書けなかったら寝てる。
宵越しの句は持たない。
そうゆうことよ。

と、自分にツッコミが入って、漢の道を踏み外さずにすみました。

これは俳句についての話ですが、他のことでも言える場合があるかもしれません。やりたいときはやる。やりたくないときはやらない。そういうことです(もちろん締め切りがあるおかげで実現する楽しみというのもあるんですけれどね)。

2020-03-02

coronavirus



連帯保健省のチラシがメールで回ってくる。新型コロナウイルスを理解するために、とのこと。面白いことは一つも書いていなかった。