2024-06-25

帯状疱疹とトークイベントと私





7月18日のトークイベントは盛況のうちに終わりました。ご来場、ご視聴の皆様ありがとうございました。吉村萬壱さんは物腰が柔らかくて優しくて、だらりんと力の抜けた人(あるいは一種の脱力によって自らが抱えている浅からぬ業をいなしているのであろうか?)。なんか世間的な雰囲気が全然なくて、一緒にいると子供に戻った気分になれる、そんな人でした。結論としては、また会いたい、絶対会うんだって気持ち。

この春以降『カモメの日の読書』が4刷、新潮文庫版の『いつかたこぶねになる日』が2刷になったのですが、ここへ来て『ロゴスと巻貝』も増刷されることが決まりました。わーい。どうもありがとうございます。

それから帯状疱疹のほうは、後遺症が残ってペインクリニックに通う羽目になっています。ブログを書いていなかった理由もひとえにその痛みゆえでして、トークイベントの前日などは朝から悶絶し「人前で話すなんて無理だ」と心底思っていたのです。ところが注射を一発打たれたら、怖いですねえ、痛みがすっと消えてしまいました。昨日は2回目の注射を打ったんですが、自覚症状としてはもうかなりいい感じ。

Xの書き込みを遡りますと(いや、わざわざ遡らずとも伊藤亜紗、奥野克巳、吉村萬壱共著『ひび割れた日常――人類学・文学・美学から考える』所収のエッセイ「帯状疱疹とウイルスと私」に状況がつまびらかですが)、吉村さんは帯状疱疹の後遺症でペインクリニックに通った際、なんとお腹と背中に5か所(!)も注射をされたとか。なんとも気の毒。わたしは毎回1か所だけですんでいます。イベントの日は控え室で七転八倒な経験談をお伺いして「あたしは不幸中の幸いだったんだわ」と震えた次第です。

2024-06-12

古典を読む人生とは





帯状疱疹の病状はまあまあ。腫れは引いたけれど痛みは残っているので、だいたいの時間を横になっています。そうすれば痛みが和らぐので。

最新号の『すばる』は「古典のチカラ」特集。わたしもエッセイを寄稿しています。古典といってもカノンの話はしたくないので、「昔の作品=なんでも古典とみなす」と断った上で思っていることを書きました。

わたしはナイーヴな啓蒙にはうんざりする質だし、古典を読む行為を教養に結びつけたくもないので、今回のエッセイも古典を語ることで生じかねないある種の「力」を無効化するために断章形式で対処したのですが、それでも古典を読むコツをきかれたら「できるだけ多くの先行研究を読むこと」と答えるしかないと思っています。古典を読むことと学ぶこととは切り離せない、自分の勝手な想像だけで読もうとしたところで古典の肉は噛みきれないし、一人の人間が考えられることなどたかが知れている、わたしたちは解釈のバトンを受け継いでようやく今ここに至っているのだといった認識は前提として必要だろう、と。

あと古典を読むとは「テキストを読了すること」に価値を置かない人生を送るということでもあります。つまり古典と付き合うことは必ずや生き方の次元にかかわる。生き方そのものが変わる。この世の中が「本を読み終えた」という台詞を口にする人間だらけになったのって古い話じゃないですよね。なにしろ印刷技術と出版流通システムの普及なくして読書を娯楽にするなんてことは不可能なわけですから。本が貴重だった時代は誰しも同じ本をくりかえし真剣に読んでいた。そういった意味で、読書の歴史は読者の生き方の歴史でもあるでしょう。