2025-01-05

これでいいのだ



今日のお昼はガレットとシードル。

ガレットの上には、アヴォカドを薄く並べ、生ハムを一枚のせた。で、その隣に山盛りのベビーリーフ。飲み物は、ほんとは炭酸水がよかったのだけど、冷蔵庫をのぞいたらなかった。だが考えるに、ガレットにとってシードルは調味料みたいなもの。水ではその役はつとまらない。水は舌の上に残るものをきれいにさらっていく。料理の余韻を切り捨ててしまう。

ガレットを食べる。チーズの濃厚な味がまず広がり、次にアヴォカドの柔らかな甘みがゆっくりと追いかけてくる。ときおり生ハムの塩気がひょいと顔を出す。生地の端の部分のカリッとした食感と香ばしさも舌と鼻にうれしい。

そこへシードルを飲む。口の中がさっぱりと軽くなる。だが洗い流しすぎはしない。いろんな風味が、ちょうど春の終わりと夏の始まりのさかいにわだかまるみたいに、名残を引きずったままじんわりと潰える、そのくらいの感じ。

にわかに、失われたガレットの味が恋しくなる。フォークをうごかす。飲んでは食べ、食べては飲んで、そうやって交互に味わっているうちに、ふと思う。これって会話みたいだな、と。ひとくち、またひとくち。口の中で、ガレットが何か言う。それにシードルが答える。あるいは、シードルが先に問いかけて、それにガレットが静かに返事をする。そんな気がした。

結局、お昼のあいだじゅう、私はこのふたつのやりとりを黙って味わっていた。そして、最後のひとくちを飲み終えたとき、なんだかひとりごとのように「これでよかったのだ」とつぶやいていた。自分に言ったのか、ふたつに言ったのか、よくわからないけれど。

初芝居あやかしの面ひとつ掛け今宵の嘘に命を賭ける

袖口をしっかり直す役者の手今年最初の幕が上がった

役者たち新春の香をまとい立つ舞台の板は軋みながらも

華やかな紅の化粧を塗り直し役者のまなこ新春を裂く

初芝居ゆめとうつつの境目を破る拍手の音をこそ泣かめ

初芝居虚構の街を駆けめぐり行方知れずの俺の言葉よ

芝居終え虚無を抱えて戻る夜人類絶えし新年の路地

2025-01-04

マカロンのこと



本日の俳句日記、漢詩っぽい対句が出てくるのだけれど、あれは狂詩のきれっぱしと解してもらえればありがたい。ほかにもメモ。

初嚼甘香如花蜜
再嘗酸冽似酒濃

初めて嚼めば甘香(かんこう)花蜜(かみつ)の如し
再び嘗めれば酸冽(さんれつ)酒濃(しゅのう)に似たり

あと今回の連載を機に短歌も書いてみることにした。手元で整理がつかないので、ここに貼り付けていくつもり(元日付のブログにも短歌を追加した)。その日の俳句日記と、なるべく響き合うものをつくりたいと思ってはいるものの、たぶん、そううまくはいかないだろう。早々につまずいてしまうかも。

虚ろなる甘さの芯にふれたればたしかに苦し光のつぶて

2025-01-01

新連載「俳句日記」のお知らせ





あけましておめでとうございます。2025年1月1日から、ふらんす堂で俳句日記の連載をはじめることになりました。期間は一年。ヘッダーの画像は月替わりです。どうぞよろしくお願いします。

夜明け前路地に散らばる欠片あまた新年の光ひとつも届かず
あさやけは言葉をほどくため息のかわりに染めた絹のひといろ
初東風や運命の枝ひとつ折れ鳥がふたたび巣へ還るまで

2024-12-28

そんなこと、できるはずもないけど。





巴里雑詠 其一  成島柳北

十載夢飛巴里城 
城中今日試閑行

画楼涵影淪渏水

士女如花簇晩晴

パリあれこれ その1  成島柳北

十年も夢見てた
パリの街にとんできた。

今日はきままに
パリを歩いてみることにした。

絵のような建物が
水に映る
澄み切った水は静かで
影は深く沈んでいる

花みたいな人の群れ
紳士も淑女も
夕映えの空の下
きらびやかに集っている

柳北の詩は香り高い。この詩もシンプルながら、描かれる景色は鮮やか。で、雰囲気がある。「画楼」はセーヌ両岸の建物群。「画楼涵影淪渏水」はその影が水面深くに沈んでいるように見えたのだろう。

十年も夢見てた、との冒頭には少し笑ってしまった。だって成島柳北がパリにやってきたのは明治五年、1872年のことだ。長らく夢見てたというわりに、この詩には当時の政情の影がない。静かな夕暮れの光と、人々のざわめき、澄んだ水に映る影、それだけ。でも、もちろん、それでいい。光だろうと、影だろうと、旅人の目に映るのはいつだって物事の外側。それは今も昔も変わらないし、変えられるはずもない。ただ旅人の目にだけ見える風景があるということも確かで、それはかけがえのないものだと思う。

それに、たとえそこに住んでいたって内側が見えているとは限らない。内側を見たいのなら、自分の想像力で捕まえにいくしかない。しかも捕まえた瞬間、それは形を歪める。見えないものをどう見るかはいつだって見る側の責任だ。

これは詩を訳すときにも言えることかもしれない。たとえば成島柳北の詩を訳すのは絵の構図を決めていくような作業だ。どこに色を置くのか、どこを空白にするのか。そうやって詩の形をつくり上げる。一方で、菅原道真の詩ならば言葉の内側を追いかけていく。それは、目をとじたまま手触りのある何かを掴みにいくような、奇妙で少し怖い感覚だ。出来上がりが壊れていたってかまわない。それが書き手のいる場所に寄り添った結果ならば。

書き手の立ち位置に立って、同じ景色を見て、同じ風を感じて、その感覚を言葉に移し替える。そんなこと、できるはずもないけど、でも翻訳が目指すのはそういう地平じゃないだろうか。人はひとりひとり、立っている場所が違う。そこを、そうか、と頷くこと。

2024-12-26

白居易の「書斎の三つの友」の詩を読む





『いつかたこぶねになる日』のあとがきで引用した「詩友独留真死友(詩友は独り留まる真の死友)」。この詩を現代語訳してみました。原文はこちらで確認できます。細かな点は『菅家後集』を確認していただけると幸いです。

白居易の「書斎の三つの友」の詩を読む 菅原道真

白居易の『洛中集』十巻
そこに「書斎の三つの友」という詩がある
一つの友は琴、もう一つの友は酒
私は酒と琴についてあまり詳しくない
でも、詳しくなくても、なんとなくはわかっている
わからないと言いつつ、疑問が湧かないくらいには
たとえば酒は麹を水に溶いてつくるし
琴はといえば桐の木に糸を張ってつくる
でもわざわざ自分で一曲弾きたくなることはないし
目いっぱい飲んだからといって楽しくなるともかぎらない
つまりそこまで親交がないってのが正直なところ
だからさよなら いまここで 丁寧に別れを告げるよ
するとね 詩だけが残る それが死ぬまで連れ添う本物の友
わが家は先祖代々ずっと詩を作りつづけてきたけれど
それが世間で広く歌われるのはどこか憂鬱
私は声に出さず ただ心に思うだけにしてる
言うにはばかることが多く 新しい発想も浮かばないから
口をついで出るのは誰かの古い詩ばかり
その古い詩をどこでそっと抜き出すかといえば
柱三間の 白い萱と茨を葺いた貧しい公舎
敷地は狭いものの南北の向きだけは定まっている
建物は粗末ながら戸も窓もなんとか整っている
それに運良く北向きの書斎があって
たまに詩がやって来てはそっと寄り添ってくれる
とはいえ酒も琴もない 何か代わりになるものはないか
見回すと、そこにいたのが燕の雛と雀の子
燕と雀 種は違えど同じように生きている
親鳥は子を護り、しょっちゅう助け合っている
ここでは焼香や散華も行われるのだけど
念仏や読経のときにひょっこりあらわれ
嫌がりもしなければ飽きもしない
なんの妨げにもならないし下心もなくて
彼らはぴいぴい、ちゅんちゅんと話し合いながら
わずかな虫や穀粒をついばんで、飢えることもなく過ごしている
彼らは小さな鳥 私は儒者を名乗っているけど
きっと彼らのほうが ずっと慈悲にあふれてる
右少弁が地方官を務めたとか
式部丞が新たに五位をあたえられたとか
蔵人は帝のそばにいたがすぐに殿上を去ったとか
文章得業生はまだ部屋にこもって勉強を続けているとか
そんな世間の折 私はといえば勅使に追いたてられ
父と子が一度に五つの地に引き裂かれてしまった
言葉にならない痛みが血の涙となってあふれ
俯いたり仰いだりして天の神地の神にいのる
だが東へ西へと雲はただ遠く流れるばかり
春はのどかで、二月、三月と日が長くなるけど
関所は幾重にも閉ざされ、便りは絶え
独り寝はつらく、夢もめったに見なくなった
進めば進むほど山や川は遠ざかり
道中を進むほど景色は薄暗く変わっていく
左遷の地で、子らはいったいだれと食事をするのか
秋風が吹くころまで生き延びても着るものもないだろう
かつての三友——琴・酒・詩——は一生の楽しみだったけど
いまの三友——燕・雀・詩——は一生の悲しみになった
昔と今は違う 今は昔と違う
楽しみも、悲しみも、すべては心の向きしだいなんだ

2024-12-24

くじに当たる





ほんの3日前、繁華街でまないたを買ったらクリスマス抽選くじを1枚もらった。その場でくじを引いたらなんと1等が当たった。7000分の1の確率だそう。1等の景品はハンス・ウェグナーのYチェア、ビーチ材ソープ仕上げである。さっそく届いたので部屋にあるオーク材のYチェアと並べて撮影。こんなことってあるんですね…。

まないたを買ったそれだけなのに今くじの半券にぎりしめてる
確率の冥き渦中にわれ置かれ七千に一の奇跡をつかむ
「一等が当たりました」と渡されしカードの裏のイエスの言葉
無作為の連鎖の果てにここに在りオークと並ぶ新らしき椅子
まさかねと口にしてみるそのたびにビーチの椅子はそこにたたずむ

2024-12-20

小津夜景×永井玲衣×穂村弘トークイベントのお知らせ



年が明けたら東京行き。トークイベントに参加するためである。聞けば開始時刻がライヴみたいに遅い。思わず三省堂書店の営業時間を調べた。二十時まで、だった。なるほど。つまり、営業終了後にイベントが始まるってことか。

イベントのタイトルを見ると「言葉の魔術師」とあり、ええっとおののく。おののきつつ、でもこういうストレートなネーミングは逆にありがたいのかもしれない、と考え直す。いやいやいやと否定しやすいし、文句もつけやすい。つまり話が初手から、ずん、と前へ進む。明確な的があるほうが、ボールも投げやすいってものだ。


2024-12-16

まだ何も飾らない日



エスプレッソマシンをあつかう手つきが、少しこなれてきた。小さな台所も急に落ち着いて、なんだか背が伸びたみたいに感じる。マシンの上の壁には、空っぽのフレームが四つ並んでいる。新しい道具に合わせるのだ。

パソコンをひらき、壁に飾る写真を探す。とりあえず二枚選んだ。一枚は駅の小屋。錆びたトタン屋根、ひび割れたコンクリート、炎帝に射抜かれた影。そこに漂うのは、ひと昔前の、田舎の夏のにおいである。もう一枚は海。ひろくて遠い。どちらも、ふっと奥に引き込まれる感じがする。写真の奥へ、奥へと入っていけそうな気がする。

蒸気上げ正確無比なマシン鳴る抽出時間十二秒ぴたり
濃密な一滴ごとの正確さ小宇宙生む蒸気の技術
ちょっと待てエスプレッソがそう言ったそんな急ぐな人生だってさ