ふと思いついて写真をモノクロにしてみた。するとなんとなく不穏になった。マリファナ臭いというか。それとも地中海がそうなのだろうか。
2020-05-30
2020-05-29
そこにうつわがある
フランス人から俳句についてよく質問されるのだけれど、そのたびにはっとうろたえ、もごもごすることにしています。
これは〈戦略的もごもご〉です。わたしは「ははあ。このもごもごするしか能のない人が俳句を書いているのか」とがっかりしてもらうことが、あんがいだいじなんじゃないかと思っているんですよ。
なんでも滔々と語ればいいわけじゃない。実はいますぐ言葉で説明できることでも、沈黙の方が大切な場合だってある。言葉って、空白の部分も言葉だから。もちろん長い伝統だの、深い歴史だの、豊かな諷詠だの、そんな家柄自慢の釣書みたいなことを語り出したり、俳句に日本文化という血統書がついているかのように振る舞うのはいつだって論外です。
俳句の良さは〈長さ〉〈深さ〉〈豊かさ〉といった世間で幅を利かせる価値とはまったくあべこべの領域で本領を発揮できること。〈はかなさ〉〈うたかた〉〈つかのま〉を大事にするところ。からっぽであることに軽々と耐えうるエキセントリックなところ。死すべき存在であるわたしたちが、ここにまだ見える世界を、あるいはもう見えない世界を歌うためのうつわであること。長い詩なんて書いていたら書き終わる前に死ぬかもしれない。いやかならず死んでしまうだろう。そこでむかしの人は短く書くことを思いついた。できるだけ短く。ときに言葉の意味も捨てて。伝えることも止めて。そして俳句はなにも盛らないうつわになった。なにも盛らないうつわそれは幸せの具現であり、悲しみの具現であり、怒りの具現でもある。
そこにからっぽのうつわがある。そのことが、すでにして幸せであり、悲しみであり、怒りであり、俳句の素顔であると思う。
あたたかなたぶららさなり雨のふる 夜景
2020-05-27
ささやかな考古学
漢詩を翻訳することの面白さについて、これまでさまざまに説明する機会があったんですが、今日また新たにその機会があって「そうだ、まるで遺跡が並んでいるような、貝塚みたいな道具市でよくわからないものを買うのに似ているかも」と初めて気づきました。
その場で眺めているだけだと、半分くらいしか確信が持てないものを、思い切って家に持ち帰って、ごしごし洗って、わあ、掘り出し物だったよ!とよろこぶ遊び、みたいな。
はは、ひどい説明ですね。でも漢詩を翻訳してみるって、こういうとこあります。ささやかな考古学。ハズレも多いけれど、歴史が長いだけあって掘り出し物もまた多いです。
2020-05-26
2020-05-24
2020-05-21
夢の中の死角
外出禁止令中、自分が死んだ夢を見た。
わたしは自分の死体を眺めながら、死体を眺めているこのわたしはいったい誰なのか、と夢の中で考えていた。
眠りは時間を超えるから、夢について語り始めると、かならず疎外の話にたどりつく。時間から完全に自由であることは転倒した自己疎外なのだ。つまり夢とは「限りなく自由であるようにみえて実は自分が殺されている」という輪郭を、もともともっている。
夢が掴み損ねたもの、語り損ねたもの、輪郭を与えられなかったもの そんな場所にわたしはいた。夢の中の死角に。
わたしは自分の死体を眺めながら、死体を眺めているこのわたしはいったい誰なのか、と夢の中で考えていた。
眠りは時間を超えるから、夢について語り始めると、かならず疎外の話にたどりつく。時間から完全に自由であることは転倒した自己疎外なのだ。つまり夢とは「限りなく自由であるようにみえて実は自分が殺されている」という輪郭を、もともともっている。
夢が掴み損ねたもの、語り損ねたもの、輪郭を与えられなかったもの
2020-05-12
さかさまに眺める世界
水たまりのいいところは、なんでもさかさまになるところ。覗き込むだけで頭がくらくらします。頭がくらくらするあそびって日常の中で他にあるでしょうか。子どものころは両腕を伸ばし、プロペラみたいに回ってあそびましたが、水たまりを覗き込むのにはプロペラに通じる楽しさがあります。
大通り公園は植物の豊かな市民の憩いの場で、天然の玄武岩が地面に敷きつめられていつも黒々と濡れ光っています。なぜ濡れ光っているのかというと、百二十八本のスプリンクラー噴水が埋め込まれているからです。
スプリンクラーのノズルの軸は垂直になっていて、噴水が上がると風が起こり、樹の林の中に水の林が生まれます。噴水がやむと風もやみ、地面は黒々とした水の鏡と化します。夏になると、水着すがたの子どもたちが、ぴちぴちと鏡の上を跳ね回ります。
朝の公園にあそぶ人はいない。水たまりの上に立つ。静かに憩う鳥を真似て。水たまりは周囲のかたちを映している。椰子がゆらりと倒立し、青空は透きとおり、朝雲がさざ波のように伸びてゆく。鳥が飛び立つ。深く真っ逆さまに。わたしは思いました。鏡は写しではないと。そこには、さかさまになることでしか成立しえない別の法則、別の世界があると。おそらくはうつしよもまた。
大通り公園は植物の豊かな市民の憩いの場で、天然の玄武岩が地面に敷きつめられていつも黒々と濡れ光っています。なぜ濡れ光っているのかというと、百二十八本のスプリンクラー噴水が埋め込まれているからです。
スプリンクラーのノズルの軸は垂直になっていて、噴水が上がると風が起こり、樹の林の中に水の林が生まれます。噴水がやむと風もやみ、地面は黒々とした水の鏡と化します。夏になると、水着すがたの子どもたちが、ぴちぴちと鏡の上を跳ね回ります。
朝の公園にあそぶ人はいない。水たまりの上に立つ。静かに憩う鳥を真似て。水たまりは周囲のかたちを映している。椰子がゆらりと倒立し、青空は透きとおり、朝雲がさざ波のように伸びてゆく。鳥が飛び立つ。深く真っ逆さまに。わたしは思いました。鏡は写しではないと。そこには、さかさまになることでしか成立しえない別の法則、別の世界があると。おそらくはうつしよもまた。
2020-05-09
ぽわぽわした土曜日
分離帯の芝が、ぽわぽわとのびて、花畑になっている。刈る回数が足りないから、かわいいことになっている。画像クリック推奨。
静かな海は大きな布に似ています。下になにか隠しているのかもしれない。大きな布の中に。それにしても風は椰子の下が好きですね。あと光と影も、椰子とたわむれたがる。
誰もいない道でじっとしていると、時空をめぐる虚薄な気配が、わたしを取り囲んでいるのがわかります。
静かな海は大きな布に似ています。下になにか隠しているのかもしれない。大きな布の中に。それにしても風は椰子の下が好きですね。あと光と影も、椰子とたわむれたがる。
誰もいない道でじっとしていると、時空をめぐる虚薄な気配が、わたしを取り囲んでいるのがわかります。
2020-05-04
逃げ去りし夜
逃げ去りし夜ほど匂ふ水はなく 夜景
すみわたる青空をみると、夜の出来事を思い出します。そして、夜とはすなわち矛盾であった、と考えるのです。夜においてはどんな感じ方も成立する。それはなんでも受け入れる、怖いくらいに。
2020-05-03
すみっこで生きてる感じ
すみっこで生きてる感じって素敵だと思うんですよ。たとえば銀河のふちとか。でも宇宙はすごい勢いで大きくなっているらしいじゃないですか、そうすると、すみっこにいたはずの自分がだんだん真ん中にきちゃいますよね。あわあわしているうちに。それはこまる。
ゆく春や子象を抱いて泌尿器科 夜景
2020-05-02
ハリー・ラヴァーズ、エアー・ラヴァーズ。
日本語圏のハリー・ラヴァーズのみなさん。こちらのツイートによりますと、新刊にはあやとりの話も出てくるみたいですよ。相変わらずエアーです。
それにしても折り紙と比べてあやとりラヴァーズって少ないですよね。布教しないといけません。とりあえず、あやとりについて書いた過去記事はこちら。
真偽は知らないが、ともあれ、人類に普遍的な活動を「歌とあやとり」と喝破して、あやとりの研究を始めるところが「天才」である。天才は、間違わない人ではない。むしろ彼等は、間違った確信から、真実をスピンオフするのである。
— +M (@freakscafe) May 2, 2020
それにしても折り紙と比べてあやとりラヴァーズって少ないですよね。布教しないといけません。とりあえず、あやとりについて書いた過去記事はこちら。
2020-05-01
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