2021-01-30

石を積む人





今日はどんよりした曇り空。朝から旧市街へ行き、ルロワルネでカリソンを買って、帰りの道を歩いていると、中年の男性が一人、海岸の石を積んで遊んでいました。わたしの身長より高い塔です。


こちらは小ぶりの塔。かっこいい。海が寒そうで、なんだか遠い国に来たみたい。


超思索的光景。こういうのって慣れで作れるのかしら? わたしが石の塔を眺めているあいだも、男性は新しい塔を製作中でした。たまに積むのに失敗して、塔を倒したりも、してた。

2021-01-27

対話とは何か





いったい対話とはなんぞや……って考えたことありますか? わたしは昨日はじめて考えました。

というのは昨日ですね、一方の発言に対して他方が補足したり、疑義をはさんだりしつつお互いの共通認識を目指し、ついになにかしらの結論ーー結論などはないといったよくある結論も含めてーーに至るといった、いわゆる正反合のステップをどこかしら前提とした対談をいくつか立て続けに読んで、わたし、これは対話ではなくロマン主義的な見世物だな、と思ったんですよ。弁証法って法廷劇、つまりスペクタクルですから往々にして観客目線なんですよね。いきおい対話者たちも自意識過剰になって、どこか嘘っぽい。

わたしが「対話って、ほんとはこうじゃないかな?」と思うイメージは、かんたんにいうと禅問答みたいなものです。すなわち、語りえないものを語るための問いを奏でるあそび。対話者同士のあいだでしか通じない独創的な言語をこしらえるあそび。正面からではなく、斜めから覗きこむあそび。もちろんこうした流儀は、第三者の目には、対話者たちがお互いの話をろくすっぽ聞いてないように映るでしょう。でも対話者たちがお互いの世界に対してひらかれるとき、それ以外の世間に対してとじてみえるのはありがちなこと。ほんとはとじてなんかいないどころか、ほとんどあけっぴろげなんだけど、対話者たちが遠くの星にいるように感じられて、観客は、ぽかん、としてしまうわけです。

2021-01-23

署名の逃れ方



「週刊俳句」第718号の話。四ッ谷龍「本の署名を考える」にわたしの名前が出てくるのですが、わたしは署名をするのもされるのも好きではない人です。

それで最初の本を出したときは煩悶し(あまりにおのれの流儀とかけ離れているから)、しょうがないから、苦肉の策で、後ろの見返しページにしてました(前に書こうが後ろに書こうが、署名は署名なんですけどね)。だってさ、わたしにとっては、わたしの署名なんて、ただの汚れと変わらないじゃん? だから、頼まれるたび、えっ、本を汚しちゃうわけ? いまの方が綺麗なのに正気?ってなもんで。

でね、『カモメの日の読書』を出すことになったときは、わたしが「小津夜景」と書かなくても、誰もが納得せざるを得ないようにしようと画策した。それがこちらの方法です。つまりわたしは本ではなく、イラストにサインすることにしたわけ。

イベント終了後は、あらかじめ考えていた方法で本にサインをする。サインってなんだか偉そうだし、なにより単純に恥ずかしいのでなんとかならないかなあ…と前から思案していたのですけど、下の写真の場所だったらすんなりできるので気に入っています。(ウラハイ「署名と花籠」より引用)

そんなわけで、わたしはこれからも、本ではなくイラストに「ozu」とサインしてゆく所存であります。

2021-01-17

冬のお茶とお菓子




寒いので、冬のお茶を飲む。入っているのは葡萄、檸檬、ハイビスカス、カシス、肉桂、甘草、カルダモン。大きいカップにそそぎ、鼻を差し入れながら飲むと、余計においしい。


お茶菓子はビスキュイ・ローズ・ド・ランス。創業260年のフォシエ社が製造している伝統菓子で一個30円くらい。口当たりはわたあめ、歯ざわりはさくさく、そして味は瓦せんべい。ふつうはシャンパーニュにひたして食べる。

今日更新のハイクノミカタにも、一句とともに子供のころのお菓子の思い出を書いています。すごく素敵な句です。

2021-01-16

世界に転がっているもの





本と自分との関係について言うと、年2、3冊買えばいいほうなので、どちらかというと縁がない派に属すると思う。

何か書くときも、たまたま出会った言葉や声の記憶を頼りにブリコラージュ方式で巣作りするため、いきおい雑然とした文章ができあがる。

むかし、ある若いギタリストの、青年期特有の抽象美をはしょらず潜り抜けたはてに豊穣へと達した見事な演奏に心を打たれたことがある。そのギタリストは音楽をはじめてまだ数年にすぎず、類まれな才能に恵まれていたせよ、どうしたって耳の経験値は足りないはずだった。

それなのになぜこんなに成熟した演奏が可能なのだろう? 

わたしは思った。きっとこのギタリストは、幼いころから世界の物音をずっと聞き続けてきたのだと。人々の怒声や悲鳴。けたたましいパトカーの音。ガサ入れのあとの静けさ。儚い匂いさながら家の窓から漏れる話し声。刹那の弾で永劫の的を撃ち抜いてしまったかのような郊外の昼の空虚。そのギタリストの身体にはそうした暮らしの音が沈殿し、一種の熟成を遂げ、この世界にとって音とは何かを掴んだ。それゆえ音楽をふんだんに聴く機会に恵まれずとも、手持ちの音の記憶の駒から、ひとつの理にかなった音楽を紡ぎえたのだ。

むろんこれはそのギタリストに限った話ではない。世界に転がっているものを拾いつづけ、幸運にも熟成させることに成功した者たちの作品は、近づいて見ると彩り豊かで、心に沁み、愛おしく、また離れて見ると思わずあっと叫んで硬直してしまうようなずたずたの疵跡を有している。

2021-01-14

匂いのふしぎ




あいもかわらず海をながめている。流れ星みたいに、飛行機雲が尾を曳いてゆく。

家に帰って手を洗い、スマホやサングラスなどの携帯品を次亜塩素酸ナトリウム液で消毒する。かれこれ一年ちかく、外から帰るたび毎回そうしている。ふわりと軽く漂う塩素の匂いは大好き。毎回毎回、自分でも頭がおかしいと思うくらい本当に毎回、子供のころプールのきもちが蘇って「ああ、なんていい匂いなの!」と口に出さずにいられない。

匂いの記憶がもたらす喜びというのは、 視覚や聴覚とちがって毎日でも全く色褪せないけれど、これって誰しもそうなのだろうか? 

好きな匂いといえば、日焼け止めクリームの匂いも好き。顔に塗るたび胸がきゅんとする。海で泳ぐときのきもちが蘇って。そしてコーヒー豆の香りも、幼いころからずっと嗅いでいるのに、蓋を開けるたびに天上の幸福がひろがるかのような、この上ないきもちになる。

2021-01-11

古屋翠渓の短歌





今週のハイクノミカタはわたしの好きな俳人・古屋翠渓の俳句について書いています。古屋翠渓は短歌も書くんですが、俳句が冒険心に富むタブロ一だとするならば、短歌は日々のスケッチの味わいです。残念ながら歌集は出ていないので、以下、日布時事から好きな歌を気ままに引用します。

金雨花の咲けるもよしや吾子連れて芝生を歩む日曜の午後(1926年8月15日号)

家解きし跡に陽炎漲りてピンクシャワーの咲きいでにけり(1928年4月29日号)

久しぶりで日和になつた朝の庭マンゴたわわにゆらす風あり(1933年3月19日号)

秋らしき雨のあしたの朝まだき柘榴色づきたりし裏庭 (1933年11月11日号)

2021-01-09

ペリメニづくり





土曜の晩ごはんは夫がペリメニ(ロシア餃子)をつくってくれました。わーい!


ペリメニの型はロシア食材店で見つけたもの。餃子の皮が茶色いのはふすま入り(パンを焼いて余った小麦粉)だからです。餡は牛ひき肉とマッシュポテトを練っています。


2枚目の皮をかぶせたら、


綿棒を押しつけて型抜きすると、一気に37個つくれます。


今夜は茹でて食べました。正直、手で一個ずつ餡を包んだ方が綺麗にできます。でも型をつかうとファストフード感が出て、また違うたぐいの満足感が生じるみたいです。

2021-01-07

わたしは漢詩が好きなのかについて





こんにちは。以下乱文です。

わたしのことを漢詩がものすごく「好き」な人だと思ってくださる方が驚くことに少なくないのですが、ええと、これ言っていいのかなあ、ほかの何かよりも漢詩がとくべつ「好き」だったりはしないです。そもそも漢詩の本を書くことになったのは編集者に提案されたからで、なんども断った(自分にできるわけないと思った)末の決断でした。もちろんなんだって、やると決めたら一生懸命やるわけですけど。

俳句も同じで、超厳密にいえば「好き」とは違う。貴重なのは「何か」との出会いそのもので、もしかしたら「何か」自体は別のものでもよかったかもしれない。でね、どんな「何か」もいざ始めてみれば頭をつかうし、自分がいまどこにいるのかも知らないといけないし、そういった「何か」が引き起こす心のうごきや世界のひろがり自体が面白いんですよ。

ただいっこ蛇足を書くと、わたしには幼いころ本に生かされた経験がある。わたしの人生における決して多くはない宝物が、本との出会いだったりする。佐藤さとる『だれも知らない小さな国』とか。で、本を読むとはどういうことなのか、それが人生でどれだけかけがえのない財産になるのかを知っているから、その自覚を打ちこわしたくないという思いが強烈にあるんです。

この世には本をたくさん手にすることのない、もしかしたら一冊しか読まないかもしれない人が、いるわけですよね。わたしもまかり間違えればそうなるかもしれなかった一人ですし、いまも色んな事情があって碌に読書していません。その自分が「これが誰かの、たった一冊の本になるかもしれない」と思いながらキーボードに向かっているとき、そこに「わたし」なんていないし「好き」もない。『いつかたこぶねになる日』を書いているときにあったのは、自分の胸の中を照らしてくれている本たちへの感謝と、自分もまた誰かの胸にともしびをともせたらというひそかな願いでした。

2021-01-04

切り紙のつなぎ模様





『トイ』Vol.03が届いたのでめくってみると、俳誌名そのまんまの句がありました。

古書市に古き禁書の古りゆき雪  干場達矢

視覚的にも聴覚的にも、切り紙のつなぎ模様を彷彿させる句。この特徴が功を奏し、「古」の語がセンチメンタルな懐旧を寄せつけることなく祝祭的愉悦を放っています。古書に照準を合わせつつ、それを取り囲む群衆の賑わいをソフトフォーカスで描いたところもいいですね。

壜吹きてさびしき音を冬三日月  干場達矢 
 
日常にひそむ心象風景の発見。うん、船の汽笛みたいなあの音はたしかにさびしい。それでいてこの句は「壜」「吹く」「音」「冬三日月」といった語の並びにトイ・ミュージック的軽みがあるので、さびしさが湿っぽくならない。壜と冬三日月との響き合いもタルホ的小宇宙を感じさせます。

2021-01-02

2021年の初体験





三が日はできるだけゆっくりしようということで、晩ごはんは前から試してみたかったここにお寿司を注文する。夕方取りに行くと、それなりに繁盛しているようで、店内は受け取り待ちのお寿司でいっぱいだった。

お寿司は皿に移し替えず、そのままお盆にのせてテーブルへ。茶色いのはカリフォルニアロールの上に揚げ玉ねぎをのせたもの。白くて丸い容器は付け合わせのオプションで選んだ、鳥と野菜の餃子。

2021-01-01

謹賀新年





手紙を読みながら  高橋睦郎

ワスレナグサの咲きみだれる庭に
椅子を持ち出して 手紙を読む
読みながら うとうととまどろむ
その手紙を書いたのは いつのたれか
書いた時と書いた人とは忘れられて
(書いた日が昨日で 書いた人があなた
でなければならない理由があろうか)
読む時と読む人も忘れられて
(読む時が今で 読む人がわたし
でなければ なぜならないのだろう)
ただ 光の中に手紙がひろげてある
庭はうとうととまどろんでいる
手紙がまどろんで そして忘れられる

詩集「フィレンツェの春」より