2022-12-19

音楽を売るかのように





週末は曇り日。でもクリスマスだからか人出がすごかった。風船売の男性が、音楽を売るかのように風船を売っていました。

日本連句協会四十周年記念『現代連句集Ⅳ』に寄稿しました。他には堀田季何さんのエッセイや座談会、全国の連句会の作品などが読めます。興味のある方はこちらにお問い合わせくださいませ。

『NHK俳句』1月号に、香りをテーマとした15句を紹介する小文を寄稿しています。

2022-12-16

『花と夜盗』刊行記念・選書フェアのご案内2





神戸にある自由港書店で『花と夜盗』刊行記念フェアがはじまりました。私の好きな文庫本10冊が陳列されていまして、来店するとフリーペーパー【小津夜景の選ぶ文庫本10冊】が入手できます。また『花と夜盗』ご購入の方には初回特典として特製カードがつくそうです(先着順)。場所はJR須磨海浜公園駅南方面口正面、ビーチに向かう青い一本道の途中、ブルーグリーンのタイル貼りレトロビル1F。絵と絵本、詩と小説、自由と暮らしのための本、そして自分で書きたいひとのための、紙と書くものを置いている本屋さんです。

(追記/上の写真、正面からみるとこんな感じの教会です。よくもまあ、こんな雑多なパーツをひとつにまとめたなと思います。)

2022-12-12

『花と夜盗』刊行記念・選書フェアのご案内





現在、小樽の書店「がたんごとん」にて「小津夜景が選ぶ文庫本&小津夜景の本フェア」が展開されています。こちらのページに陳列されている本を購入すると【小津夜景の好きな文庫本10冊】と題された、各文庫を200字ずつ褒めちぎったフリーペーパーがおまけでついてくるはずです。また文庫以外に詩歌のおすすめとして荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』と長嶋有『春のお辞儀』も選びました。こちらの2冊については上記ページ内でコメント全文をお読みいただけます。

フリーぺーパー【小津夜景の好きな文庫本10冊】についてですが、実は私、選書フェアを企画していただくのって今回が初なんですよ。それを版元のTさんに申し上げましたら、穏やかな微笑を浮かべながらTさん、

「あ。そうなんですか。それでしたら今回はテーマを決めず、シンプルに小津さんの好きな本を10冊選んでくれたらいいです」

とおっしゃる。大いに弱りました。自由すぎてどうしたらいいものか。思案の末、こんなふうに考えました。まず『花と夜盗』を購入してくださる方々の懐に更なるご負担をかけないようにしたい。そうすると対象はおのずと文庫本になります。あと岩波の本の仕入れは買い切りですから、フェア終了後、売れ残った本を返品できません。つまり書店さんにご負担を強いる。そんなわけで、岩波以外の文庫本を様々なレーベルから一冊ずつ選んだ次第です。

1. 石田幹之助『長安の春』(東洋文庫)
2. 菊地成孔『スペインの宇宙食』(小学館文庫)
3. 野尻抱影『新星座巡礼』(中公文庫BIBLIO)
4. 森茉莉『父の帽子』(講談社文芸文庫)
5. エリック・サティ『卵のように軽やかに―サティによるサティ』(ちくま学芸文庫)
6. テッド・チャン『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫SF)
7. 鴨居羊子『わたしは驢馬に乗って下着をうりにゆきたい』(ちくま文庫)
8. 太宰治『斜陽』(新潮文庫)
9. リチャード・ブローティガン『西瓜糖の日々』(河出文庫)
10. 夏目漱石『草枕・二百十日』(角川文庫)

2022-12-10

ハードボイルドに、彼女は海を語った





先日ご紹介した佐藤りえさんの個人誌『九重』ですが、しばらく拙宅には届かないだろうと思っていたらもう到着しました。おまけがいっぱいで、突然サンタクロースがやってきたみたいです。


こちらが『九重』と1個目のおまけ「怪談牡丹灯籠双六」。


そしてこれが2個目のおまけ。佐藤りえさんの豆本句集を収納する箱です。


さっそく収納してみました。


空想科学俳句集『ぺこぽこ宇宙』、探偵俳句集『いるか探偵QPQP』、幻想怪奇俳句集『良い闇や』。この3冊をお持ちの方、こちらのフォームから箱を注文(無料)できるそうです。

海沿いのポストは海を向いていない眩しかりけり晩夏の潮
佐藤りえ

『九重』誌上歌集『森の中』より。この歌の「海を向いていない」という情景把握、すごくないですか。

いえ、確かに言われてみればそうなんです。あたりまえのことを言っている。そうなんですけど、でも詩歌的抒情って、ふつうはやたらと海を向きたがるものなんですよ。

もうね、いつだってなんだって、安直に海を向いてるって決まってるんです笑。

だからこそ「海を向いていない」というリアルな描写が胸に刺さります。またこの衝撃を回収する下の句の光景が巧み。一首を立体化する情感の谷折り(海を向いていないポスト)と山折り(眩しい晩夏の潮)との襞が深く、結語の「潮」も圧巻で痺れました。

2022-12-08

『花と夜盗』をめぐる12章





生存確認系個人誌『九重』3号が発売されています。今回は佐藤りえさんの誌上歌集『森の中』と、小津による『花と夜盗』制作ドキュメントの2本立てです。

私は〈『花と夜盗』をめぐる12章〉と題しまして、句集が出るまでの作業の行程について書きました。本を編むとなると、句を書く以外のあれこれをこなさないとなりません。これが想像していたよりも量が多く大変だったので、今回やったこと並びにその方法を、忘れてしまわないように整理した次第です。

構成は〈1.はじめに/2.ページ数/3.句数/4.本文デザイン/5.句をまとめる・ならべる/6.目次の構成/7.連作のタイトル/8.推敲/9.句集のタイトル/10.カバー/11.帯文/12.句集をつくることは〉の12章。

それはそうと句集をつくることの最大のメリットは何か。それは断捨離の効果があることです。散らかり放題だった抽斗の中がすっからかんになると、気分も明るくさっぱりします。

でね、すっからかんになると、一から出直せます。

すっからかんにならないと、人ってなかなか一から出直せません。

『花と夜盗』が完成したとき、洗いあがったような心でわたしは思いました。よし、次回作こそはがんばるぞって。そういうことですよ。

2022-12-06

クリスマスの飾り付けはおあずけ





かくも文明が発達した今日に至ってもいまだ解決されざる災難に「タンスの角問題」がありますが、昨夜さあ寝ようとベッドに向かったそのとき、ひさしぶりに左足の小指をやってしまいました。痛みをこらえつつ、朝になったら治っていますようにと祈って寝、目覚め、その瞬間もう痛いんですよこれが。見るとばっちり腫れている。足をついても大丈夫だから骨は無問題、シンプルに突き指です。突き指なんてしたの何年ぶりだろう?

今日の午前中は新しい出版社の方と打ち合わせ。私、新しいことに取り組みたいですと申し上げたら、本当にやったことのないことをやることになりました。あとは書くだけ。書くだけです。

この夏まで「小説すばる」で「空耳放浪記」という古今東西の詩歌・言葉についてのコラムを連載していましたが、このたび「すばる」にお引っ越し&リニューアルして再開することになりました。第一回は「狂歌の面白さ」。江戸時代の狂歌からナイス害氏の現代短歌まで、つれづれなるままによしなしごとを綴っています。イラストは引き続き柊有花さんです。この夏、編集者とお会いした折に「すばる」を見せてもらったら、イラストの分量が「小説すばる」よりも少なめの文芸誌だったんです。それで少し心配だったのですが、結局、絵巻物みたいな、屏風みたいな挿絵が入る最高のレイアウトに仕上がりました。

2022-12-05

小さな港の夜の風景





クリスマスなのでツリーを出しました。今年は体調がいいので、少々飾りつけもしたいところです。

「俳号をつけたいのですが良い名前が思いうかびません。小津さんはどのように俳号を決めましたか?」という質問はこれまで何度もされたことがあり、人前でも3回以上喋ったと思うのですが、さいきんまた同じことを訊かれたのでここに書いてみます。

実は「小津夜景」は俳号でなく、もともとはハンドルネームでした。ネットでの応募の際に名前が必要となり、わたしは小津安二郎が好きなので、苗字は小津で決まり。で、小津って小さな港って意味だよねと思いつつ、なんとなく検索画面に「petit port」と打ち込んだら、ロマンティックな夜景の画像がいくつもひっかかって「夜景かあ。そういえば港といったら夜景だったわ。小さな港の夜の風景。これでいいんじゃないの」となった。ここまで正味一分です。

こういうのって悩んだらおしまいですよね。アイデア詰まりになって。わたしも、もしもハンドルネームじゃなかったら簡単には決まらなかったかもしれません。あと「そもそも俳号は必要なのか」といった話もありますが、これについては明快かつ独特な個人的見解をもっているので、いつか気が向いたら書きます。

2022-12-01

師走の青と花と夜盗





句集『花と夜盗』の刊行から一週間。みなさまお忙しい中ご感想をお送りくださいましてありがとうございます。「黒い本」であるというのが一部の方々におかれましては大変な驚きのようで、

「表紙だけじゃなく作品の色も濃い。ってかふわふわしてない!」

との声がちらほら。わたしとしても、ふわふわは大好きなので、どの連作を収録しようか最後まで大いに悩みました。が、ものづくりで避けるべきは折衷案であるとの結論から「今回はこの路線をとことん演じ切ろう!」との覚悟で思いきり振り切った次第。おーそっち行ったか!と笑ってください。

知らないうちに「季刊アンソロジスト」が発売になっていました。師走だけど暇で暇でしょうがないよという素敵な方、もしもいらっしゃいましたらご覧いただけますと幸いです。

2022-11-26

なにが師匠をそうさせたか





へなちょこ拳法をつづけてかれこれ四半世紀になるが、ここへ来ていったい何が彼をそうさせたのか、急に師匠が剣術だの輪術だの、いろんな武器の使い方を教えてくれるようになった(これまでは棒術だけをやっていた)。ついにこのわたくしも、全てを伝授するに足る人物だと認められたのであろうか。

真意は謎のまま、昨夜も暖房のない薄汚れた道場で剣(に見立てた棒)をふりまわしていた。頭上すれすれを腕で舐めまわすかのように、くるりくるりと剣をまわすにつけ、脳裏にうかぶのはやはり往年のカンフー映画を彩った面々。蛍光灯の侘しい明かりが追憶を加速させる。

と、ここで最近のお知らせです。

(1)週刊俳句第814号に「川村秀憲、大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』を読みながら、秋の休日をすごした」を寄稿。
(2)素粒社noteに高遠弘美編『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』の書評「理知と無心」を寄稿。
(3)セクトポクリット「歳時記のトリセツ」にてインタビュー。
(4)新作『花と夜盗』発売開始。

2022-11-23

幼いころの夢





幼いころ、母は「とるぬり」の羽毛でつくった重さのない掛け布団をこしらえ、これを体に巻きつけて寝なさい、と私をしつけた。この村では夜半に必ず夢を見なければならないから、眠る前にそういった工夫をするのである。

夜ごと夜ごと、母は私のために夢もこしらえてくれた。母のてづくりの夢にはいつでも天球が存在し、無数の星たちが無邪気にたわむれていた。庭に転がっていると思ったら、いきなり浮橋の上を歩いていたりする。波の面をすべり、路地裏をさまよい、海の底に沈んだはずが、はっと気がつくと峰々のすきまから顔を出している。月の裏側で憩っていることもあれば、表側でつんとすましていることもある。そんな星たちと遊んでいるうちに、いつしか夜明けは近づき、大地のすそから朝の光があふれだす。すると星たちは、いっせいに空へ駆け上り、朝日の中へと消えていく。

この村ではだれも夜半に目覚めない。夜半に目覚めるとは、夜の囚われの身となることを意味する。つまり、夢の繭からの帰還者ではないということだ。また夢を欠いた、ただの「眠りに落ち」てしまうと、そこは夜の底であり、しかも死であることが多い。そうなるともう夢を見ることはできないから、そこで永遠に眠りつづけるとのうわさだ。私は一度そのようにして永遠の眠りについた人間を見たことがある。

2022-11-21

夜の織物(茶菓閑話 1)





あるとき友人の家で茶菓の話になって、星の蜜が好物だと話したら、あ、ちょうどよかった!と友人が台所へ駆け入り、桃の花の形にきざんだスピカを、白磁に盛って出してくれたことがあった。

薄青色の小さなスピカが落花に見立てられ、乳色の皿の上にころがっているさまは何とも清潔なもてなしの感じを受けた。胃の腑が綺麗になる気さえした。薄青色のスピカを平らげると、次は薄桃色のそれ、次は橙色のそれと皿が運ばれ、さらに茜、紫、紺と暮れてゆく空の色を追った。丸柳の楊枝をつまみ、お皿の上で、すうっと滑らすように刺して、一粒ずつ口に持っていく。噛めば、春の夜の甘さである。とりわけ、もつれるろれつの感触が、夜そのもののように思えた。

友人が、これはおまけよ、といってからっぽの皿を運んできた。顔を近づけると、皿の底に、あるかなきかの銀砂が濡れている。それは名もなき星のかけらが放つ淡い光であった。わたしはその光を指でつまみ、そっと口にふくみ、息を止めて飲み込んだ。その瞬間、胃液と一緒にすべてが逆流するような感覚に襲われたが、不快はにわかに収まり、涼風がふうわりと胸の奥を抜けたのがわかった。そうして、わたしは自分の体が内側から輝いているのを知った。それだけではない、体じゅうをめぐる血管という血管が濃い墨色にきらめく糸となり、蜘蛛の巣みたいに空へ、そして地へと伸び、しっとりとした大気を搦めとるようにして全方位に織り張られていたのだ。

そうやって、わたしの夜が創られてゆく様子は、さながら洗い清められ、春風にたなびく黒衣のごとく美しかった。しかし、それは同時に自分の死期が迫っていることをも意味していた。なぜなら夜はいずれ消えゆく運命にあるから。わたしの肉によって織り上げられた夜は永遠ではない。わたしはわたしを夜に磔にしたまま死んでゆくのだ。

地平線がほのかに明るみ、どこまでも果てしなく広がっていた夜は少しずつ崩れはじめた。しだいにわたしたちは力を失っていった(実は夜の織物となった人々がまわりに大勢いたのである。夜がこのように創られていることをわたしはそれまで知らなかったが)。ついにひとり、ふたりと夜の世界に別れを告げる者があらわれた。彼ら彼女らが去った後の夜はますます小さくなり、もはや夜とは呼べないものになっていた。そしてとうとう何もかもが見えなくなったとき、わたしは友人の前に座っていた。

「ああ、おいしかった」
「おそまつさまでした」
「他の茶菓もこんなだったらいいのに」

友人は、こんな古い茶菓は、もう誰もこしらえないわ、と笑った。たしかにそうだ、こんなに古くちゃあいけない。

*  *  *

(追記)この春は、星へ来て三年目になるが、友人と知り合ってからは、お茶会といえばいつもこんなふうだ。スピカとは、要するに星の蜜の一種であるが、来たばかりのころは作法がわからず、金平糖みたいに次から次へと口にほうりこんで、通りすがりの老婦人を怒らせたこともあった。あなた方、地球人はスピカのことを何もご存じない、あの蜜の中にはね、星の命が含まれているんですよ、命が入っているってことがどんなことなのか、想像できるかしら、それはね、星が死んでしまうほどの大爆発ですよ。それがどういうふうにして生まれるのかしら? きっと切ない虫のようにうじゃうじゃ集まっているんでしょうよ。それなのにあなた方ったら、何でもかんでも、ぺろりとたいらげてしまうんだもの、かわいそうったらありゃしない。だってさっきも言ったとおりあなた、星が死んでしまうような爆発よ。そりゃ、みんな死んでしまいますとも、でねえ、それでもまだ残っているんですから。それが星の蜜よ。

2022-11-18

句集、刷り上がりました。





朝、ラッシュアワーのトラムに乗り、手すりにつかまっていたら、二日続けて席をゆずられてしまった。

わたしは平生から公共の乗り物で席をゆずられがちな人間ではあるのだけれど、さすがにラッシュアワーに声をかけられるのは稀。とはいえ理由はすぐに推察できた。外見がひどかったのだ。とくに髪の毛がぼっさぼさ。それで具合が悪そうにみえたのだろう。

それで今日からシャンプーを定番のものに戻した。いまはさらさらしてる。あとは服装か。コロナのあいだは全然出かけなかったから、ほんとうに着るものがない。明日買いに行ってこよう。

『花と夜盗』の担当H氏より、本日刷り上がりましたとの連絡。拙宅にも5冊発送ずみとのこと。書肆侃侃房のサイトでご注文いただいた方は発送が遅くなります。刊行記念特典カードの完成はほぼ月末とのことなので、到着は12月初めでしょうか。特典カードはわたしも確認しました。あっと驚くデザインの、たいへん手の込んだものです。冊数限定の特典付き句集の販売ページはこちらからどうぞ。

なにもしない朝





朝おきて、きょうはなにもしない、といいだして、じゃあわたくしもすることがないわ、とこたえたら、きみもすることないのか、といわれた。だからそうよ、といったらきみはうれしげにしてからわらいだしたので、わたくしも、なんだかわらいになった。すると、きみはもっとわらって、もうちょっとうしろむいてみろ、という。

わたくしは、どうしてそんなふうにさせるの? というときみは首のところを指さした、すると、わたくしの首に、かみあとがあることがわかった。わたくしはそのあとをしばらくながめていたが(なぜ?)やがて、それをけずってしまったので、わたくしはそのことをすっかりわすれてしまって、つぎには、なんのことをおもうでもなくなっていた。

そしてふたりで庭へ出て、そこにすわっていた。そのあいだ、わたくしたちはべつべつにものをみた。わたくしたちのまえのほうでは、光がしきりにひらめいている。そしてうしろのほうではわたくしたちはただひとつの影だった。そうでしょう? ほら、枝をおって、ききみみをたててごらんよ。風がうごいている。あのひとたちのように、風にさわぎたてられるのだ。あのひとたちはどこへいくのかしら。あすはきえることばをついばむ鳥みたいに。あさってはまどろんでねたふりをする魚みたいに。そのまたあしたは――そうだね――もうないんだよ!

ああ、びっくりした。わたくしがそういうと、きみは、ぼくもびっくりするだろうと思ったという顔をしたね。そしてふたりとも、じぶんたちのしていることのおかしさがわからなかった。わたくしたちはそれからながい年月のあいだじっと次の朝をまっていた。

2022-11-17

庭の手入れ





しづむもの、いろづく月が来た。

しづむものの庭に「とるぬり」と「こねよき」の花が咲いている。「とるぬり」は鳥、「こねよき」は鐘の形をしている。しづむものは青い土だ。土の色なら赤でも緑でもなく青がいい。青い土は血が欠けていて、これを使うと死者の国のものがよく生る。だから、しづむものは死人返りの種床とも呼ばれる。

死者の国では「ねもみか」や「いよよか」「ふわわわなわ」などの白い花が咲くのだけれど、それらは「白根」と呼ばれて、やはりあちらにだけ生えている特別なものなのだそうだ。死者たちはその花で「ねもみかし」という果実酒を作る。こちらでは発酵しない質の酒だが、驚くほど甘美とのうわさで、それを飲みたいがために死んでしまう者もある。こちらの世界には甘いものが何もないからだろう、人々はしばしばそういう死に方を選んだ。

しづむものの庭からは毎年多くの実の収穫が得られる。だが今年は今のところ「こねよき」が少し穫れただけだ。去年植えた「とるぬり」も実がひとつもなっていないが、これはわざと眠らせてある。「とるぬり」は「とるり」つまり鳥に属する植物で、その証拠に形はもとより、ぎっしり生えた葉のいちまいいちまいが羽根だ。この実がなれば必ず人間を空にひっさらう。植えてから空に連れ去られるのが急に怖くなって、「ねぼけるもの」「うとうとするひとびとよ」「おどろくをゆめみるひとよ」「ひとのまねをしえているもの」の四種類の肥料を買い求めた。どれもそれなりの値段だったが、「とるぬり」が実をつけるまえに、人にして眠らせてしまおうと思ったのだ。花は見たかったので、ぎりぎりまで待った。

三年前に植えつけた「しれとしろ」もまだ実をつけていない。蕾のまま、もうすぐ二年になる。その蕾を見る度に、死んだ父を思い出す。父は生前から、この「しれとしろ」が好きだった。私が父の部屋に行くと、よく父は言ったものである。

「おれが死んだらさ、おまえ、あの蕾の下を掘り起こしてくれないか」
「なんで」
「いいからさ」

理由がわからぬまま七十二歳で死んでしまった。

私は「こねよき」の実をむくと、立ったまま食べた。胸の中から鐘の音がきこえた。

2022-11-15

曇り日のメレンゲ





税務署の帰り、聖ジャンヌ・ダルク教会の前を通りがかる。晴れの日だと屋根も白く見えるので「メレンゲ」とも呼ばれています。

教会のデザインというのは本当にいろいろ。二十世紀のモダンな教会建築を見て歩くのが好き。これはアール・デコ様式。

集英社文芸ステーション「ネガティブ読書案内」第13回は「季節の変わり目でゆらぐとき」。案内人は不肖わたくしです。あの人・この人に聞いてみた、落ち込んだ時のためのブックガイド・エッセイということで、大いにゆらいでみました。

2022-11-14

海で考えている人





さいきんは、夕暮れに海に出る。そして、いしころの上を、走ってみたりして、遊んでいる。


岩の上で、女の人が、なにか考えているようだった。なにも考えていないのかもしれない。どちらでも、わたしは、海で一人であそんでいる人たちが好きだ。

2022-11-06

霧の残り香





秋がくると、空はますます高くなり、やわらかな空気の層にうろこ雲があらわれる。私は風を雇い、生まれたてのうろこ雲を集める。それをざるかごに干して、雲飯にした時のうまさといったら格別なのだ。この時期に収穫した雲は舌ざわりがさらさらで、ほんのりと甘く、挽きたての薄の穂と一緒にふかして食うと、いっそう箸が止まらない。

秋は月も極上だ。中秋の池から掬い上げたばかりのものよりも、竹林などでじっとしずかに、熟れてふくれてきたものの方がはるかにうまい。月は実として熟すると、金色のあばたの内側から、赤い粒々が見えてくる。それを一つずつひねってやると、果肉がぶつっとはがれ落ちる。私はその音が面白くて何度でもやりながら、笑って月の実を食う。しかし祖父のうちの竹林では、熟れすぎの実は食わせてくれないので、私は一人で月の実を採りに行くことを覚えた。

十月になると、流星が釣れる。山間の村だからたくさん跳ねる。それを網ですくう時の快感は言葉につくせない程すばらしいもので、この天の幸をどう料理したらよいか思案するのが日々の楽しみである。しかし今年の秋の流星の数はすくないそうだ。先生から聞いたところによると、かつては一晩に二万も三万と、まるで花火のように爆ぜた時代もあったという。また先生のお話だと、「むかしの大人はみな子供だった」そうで、「むかしの大人は流星を肴に酒を酌みかわしたものさ」とおっしゃるが、私はまだ酒を飲んだことがない。それが許される年頃になればきっと飲むだろう。

十一月になると霧が群れをなしてしのびよる。これがまた、この山あい独特の香りを有し、古来より珍重されているだけに調理法も古式ゆかしい。おひたしにしてもよし、だんごにしてもよし、てんぷらにしてもよし。ただし霧を捕えるのには時間がかかる。木の皮を削って、匂いでおびきよせるとよいと聞いてやってみたこともあるのだが、これはどうもうまくゆかなかった。しかし、この秋はちょっとちがう。いつものように霧が立ちこめるとすぐ、私は月の実の汁をしぼった。それから、手製の竹笛に口をあてて吹いてみたのだ。笛の音が私から離れていく。すると、その音色に絡め取られるようにしてか、霧のなかからふわっと影のようなものが浮かんだかと思うや、みるまに大きくふくらんだ。それは白い大きな綿毛であった。やがてそれが人のような形になってこちらへ近づいてきた。

「あなたが笛を吹くからきちゃいましたよ」

と、そのひとは言った。そうして、

「さあ、いきましょう」

と誘うように霧のなかへと戻っていった。私はそのあとを追った。するとたちまちにして姿が変わってしまった。私たちはさながら霧ととけあった巨大な魚といったところで、しかも泳ぐというよりも滑っていくように進んでいく。霧の粒子を上へ下へと縫うように。

「もうすぐ夜明けです」

霧は言った。私も、そうかな、と思った。手を伸ばし、そっと霧のしっぽを撫でながら。

翌日私は学校に行かなかった。

六時に起き、顔を洗い、髪をとかすと、私は鏡のなかの泣きはらした目をじっと見つめ、こすった。それからお湯を入れすぎたお茶をのみ、霧の残り香でごはんをこしらえた。

2022-11-05

色校を愉しむ





新刊『花と夜盗』の色校がフランスに届きました。

編集者のHさんがわざわざカバーの色校を切って、折って、ためしに束見本に巻いてみてくれたので写真を撮ってみました(手づくりなので拡大すると折り目が少しガタついています)。


見返しと栞紐の色は、カバーの花模様タイルと同じ渋いオレンジに揃えてありました。栞紐は付くと思っていなかったので嬉しいです。花布はグレー。やはりタイルの色と揃っています。デザインは成原亜美さん。


本体も面白い紙をつかっていました。ど、どんな紙?と思った方は書店でお確かめください。11月下旬発売です。

2022-11-03

グレープフルーツと世界





句集『花と夜盗』の原稿は下版に入ったが、まだ特典関係のあれこれをやっている。それがわりと大変な作業でずっと机に向かいっぱなし。それでは体力が落ちてしまうので海に行って歩く。そしてぼんやり考える。

わたしはかつて、世界に向かってグレープフルーツを投げつけるひとになりたかった。

もちろんグレープフルーツにもいろいろ種類があって、それこそ「世界の」というやつもあったっけ、と思ってインターネットでみたのだが見当たらない。あったっけてことはなかろうと思い、もいちど本箱を引っかきまわしたが、やはり見つからなかった。それだけでなく『近代短篇名作事典』などにも載っていなかった。なぜなのかと首をひねるほかない。グレープルーフト(またはリーグフレーフか?)という作家がいてそれが「世界中の」という言葉を生み出したということらしいけれど、「わたしも世界中の……だったんですよ」と言ったところで誰が信じるだろう? だって、いつだって「世界中の」という言葉はまぼろしなのだから。

2022-10-26

この世界には始まりしかない





秋の空は高い。ひさしぶりに午前中からベランダのテーブルでコーヒーを淹れて飲んだ。

さいきん或るネガティブな感情を主題とした文章の依頼がありまして、今日はそれを書いていたんですが、書けば書くほど自分がネガティブ思考にまるで縁がないことがわかって、うすうす気づいてはいたもののまさかここまでとはと驚愕しました。

「ほんとに?あなたよく悲しみについてあれこれ書いてるじゃないの」と思う方もいるかもしれません。が、それはいつもわたしが途中で書くのをやめているから、その文章が悲しみについてのそれに見えるのであって、心の中には常にポジティブな続きが実はあるのです。

たとえば季節の移り変わり。これを嘆き悲しむ習性が人にはある。もちろんわたしにも。ところがたとえ無常観を感じたとしても、すぐさま生来の疑う心が「むしろ次のように考えるべきではないか?」とわたしを促すのです。

失われた世界の代わりに訪れるもの、それは生まれたての新しい世界だ。新しい季節を生きること。新しい時間を生きること。どうしてわたしはそれに喜びを見出そうとしないのか。背後の影が深く濃くなればなるほど、目の前の扉が眩しく輝く現実を見ようとしないのか。始まりは日々訪れる。この世界には始まりしかない。微笑みの扉しか。

2022-10-23

言葉は意味の器ではなく





土曜日は丸1時間かけて海沿いを歩く。曇り空の暖かい日で、女性はミニスカートに素足の人が多く、空だけを見て秋の格好で出かけたわたしは、すっかり汗だくになってしまった。

***

ええと突然ですが、作品における言葉の話をします。

わたしは言葉をシンプルに使った作品が好きです。これは「シンプルだけど、その言葉に収まらないことがここには書かれているんだなってことが、しっかりと伝わってくる使い方」っていう意味なんですけど。

で、そういった味わいを初めて実感した作品はなんだっかしらと、さっき記憶を手繰りよせていたんですが、無論思い出せるわけはなく。ただ、記憶にある限りでは『ぐりとぐら』かなあって感じ。

幼児期の本でいうと、松谷みよ子の『いないいないばあ』も好きで、子供のころは9歳年下の弟に毎日のように読み聞かせていたんです。で、朗読するときは、舞台俳優みたいに大げさに「いない いない……ばあ!」と言うんですが、それは言葉の意味を演じていたのでも、心を込めていたのでも全然なくて、小さな弟に「ひとつの言葉からは、その言葉の意味に収まりきらないものが溢れているんだ」ということを伝えたくてそうしていたんです。つまりわたしの朗読が大げさになっていたのは、意味の部分にではなく、それ収まらないものが「溢れている」という部分に対応してのことだった。

言葉は意味の器ではない。言葉はいつも、それ自体に収まりきらないものを盛大にこぼしている。そこに収まらないからといって、別の言葉にそれを託すことはできない。たとえ託したところで、また同じことがおこるから。描写を細かくしても同じ。解決策にはならない。それを忘れてはいけないと思うんですよね。

2022-10-20

新刊句集『花と夜盗』のご案内





来月6年ぶりの句集『花と夜盗』が刊行されます。数日中に各方面での予約がはじまるそうです。

タイトルの『花と夜盗』はかっこいいタイトルにしたくてずいぶん考え尽くしました。ひとくちに「かっこいい」といっても様々な方向性がありますが、わたしがイメージしていたのはサマセット・モームの『月と六ペンス』。小粋です。英語にするとThe Moon and Sixpence。はあ。あかんて。かっこよすぎて倒れそう。こういった方向で、なにかものすごいのないかしらとタイトル候補を見比べていたら、あるとき背後から家人が、

「あのさ『花と夜盗』って英語だとFlower and Burglarsだね」

とおっしゃった。Flower and Burglars。目で見ても、耳で聞いても、悪くない。てか、これしかない。これにしよう、ってことでこれになりました。

で、肝心のメニューですが、メインの俳句連作はかつて雑誌に発表したものもふくめて全編すっかりリニューアルしましたので、どなたさまもまっさらなきもちでお読みいただけるかと思います。またア・ラ・カルトとして連句・武玉川調の俳句・短歌・都々逸などもご用意しました。こちらも気の向くままにつまんでいただけますと幸いです。

表紙カバーは成原亜美さん。どうぞよろしくお願いいたします。

【花と夜盗*目次】

一 四季の卵

春はまぼろし
駒鳥の隣人
ルネ・マグリット式
カフェとワイン
ポータブルな休日
狂風忍者伝
冬の落書き
花と夜盗
胸にフォークを

二 昔日の庭

陳商に贈る
貝殻集
今はなき少年のための
AQUA ALLEGORIA
研ぎし日のまま
サンチョ・パンサの枯野道

三 言葉と渚

水をわたる夜
夢擬的月花的(ゆめもどきてきつきはなてき)
白百合の船出



2022-10-17

幸運な結末





11月はモロッコに行く予定で、7月に航空券も購入ずみだったのだけど、航空会社から一方的なキャンセルの連絡が入った。欠航らしい。どうしてかしら。原油の値上がりのせいかしら。でもちょっとほっとしてる。夏の日本とインドがきつかったので少し家で休みたかったから。あと中途半端になっている新居のリフォームを再開しないといけないし、所用のためにイタリアまで行ってこないといけないし、もしかしたらキャンセルは幸運だったのかも。

句集は刊行日が見えてきた。

今日は来年刊行予定の本のことをぼんやり考えていた。まさか自分がやるとは思わなかった内容のものだ。でも依頼があったとき、自分が人からどう見られているのかつくづくわかった。信じたくないけど信じざるを得ない。だっていつも同じことを言われるのだから。きっとそれがわたしの三つ子のたましいってことなのだろう。

2022-10-08

歌仙「ありのすさびの巻」



『なしのたわむれ』刊行記念歌仙「ありのすさびの巻」が満尾しました。今回は連衆が多かったので出番も少なく、気がついたらできていたという感じです。画像は羊我堂さん作。この本が往復書簡なので、歌仙絵、飛行機、フェルメール、扇、鳥、村上勉、たこぶね、楽器、水辺などなど手紙に登場するモチーフの切手を散りばめてくださいました。加えてニースとハーグと素粒社の消印まで! 羊我堂さんといえば篆刻ですが、こういったゴム印風のものも新鮮です。


冬泉さん曰く「ありのすさび」は『なしのたわむれ』という書名を見るとどうしても浮かんでくる古語とのことで発句に使ったそうです。わたし自身はこのタイトルを思いついたとき、頭のかたすみにも「ありのすさび」はなかったのですけれど。冬泉さんと話していると「積んでるエンジンがちがう!」っていつも思います。

2022-10-06

インド日記その16





帰路。最初の乗り換え地ムンバイの、チャトラパティ・シヴァジー国際空港ターミナル2がとんでもなくかっこよかった。設計はSOM。


搭乗口はこんな感じ。搭乗口ですよ。有料ラウンジみたいな照明じゃないですか。

いまはニースの自宅で、やっとトランクの荷物を全部出したところ。インドは、すごい国だった。あとわたしは、いままでどこへ行っても、ごはんが食べられなくなったことがないのだけど、インドでは後半の10日間、日に一食の状態がつづいた。こんなに食べられなくなったのは人生初。そのせいか脳が疲れている。インドという空間の情報量が多かったのも疲労に関係していそう。

2022-10-03

インド日記その15





コルカタの神保町こと、本屋のひしめくカレッジストリート界隈。青い本屋さんが多くてうっとりしながら歩く。


工学と医学の専門店が多く、わたしの読めそうな本はあまりない。


店の雰囲気が、セーヌ川沿いの古本屋そっくり。パリのカルチェラタンが懐かしい。


世はドゥルガー・プージャーだというのに学生がけっこういた。


インディアンコーヒーハウスを発見したので、休憩しようと思い入った。驚くほど格調高く、まるで映画みたいだった。アイスコーヒーを注文すると甘〜いコーヒー牛乳が出てきた。昔、銭湯の番台で売っていた味だ。

2022-10-01

インド日記その14





ドゥルガー・プージャーの祭りが始まる前日の深夜。


飾り付けのみならず、建物もすべてお祭りのために造られたもので、祭りのあとは解体されてしまう。午前3時なのに人の海。


これが壊されてしまうなんて、と思ってしまう綺麗さ。


建物の内部も凝っている。


ヒンドゥー教の女神ドゥルガーはどれも愛嬌がある顔。ちょっと菊人形を思い出させる。


今年はインド独立75周年だからなのか、チャンドラ・ボースを筆頭とした革命家たちがモチーフとなった建物もあった。縄は絞首刑のイメージ。

2022-09-30

インド日記その13





今日は30日で、インドに来る前に仕上げた俳句の原稿の締め切り日だったのだが、どれどれとファイルの中から取り出してみたら、ぜんぜん仕上がっていなかったことがわかり、日中ずっと書き直していた。三日あればまるごと書き直したのだけれどいまさらどうしようもない。日が落ちてからは祝祭前夜の街をふらふらする。

コルカタって道を歩くのがとてもむずかしい。願わくは牛のように丁寧に扱われたい。

インド日記その12





29日。引き続き日中は安静に過ごす。夜は在コルカタフランス総領事のディディエ・タルパン氏の邸宅に招かれ食事。言葉の面でひさしぶりに気の休まる、ゆったりとした時間を過ごした。タルパン氏は総領事の他に指揮者の顔ももつ人で、食後はお茶を飲みながら彼が指揮したモーツァルトのアリアを聴く。ソプラノはまさかの幸田浩子さんだった。

コルカタは10月1日から始まるドゥルガー・プージャーの準備一色。夜のイルミネーションがすごい。街がまるごとパチンコ屋みたいなことになっている。