2022-10-23

言葉は意味の器ではなく





土曜日は丸1時間かけて海沿いを歩く。曇り空の暖かい日で、女性はミニスカートに素足の人が多く、空だけを見て秋の格好で出かけたわたしは、すっかり汗だくになってしまった。

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ええと突然ですが、作品における言葉の話をします。

わたしは言葉をシンプルに使った作品が好きです。これは「シンプルだけど、その言葉に収まらないことがここには書かれているんだなってことが、しっかりと伝わってくる使い方」っていう意味なんですけど。

で、そういった味わいを初めて実感した作品はなんだっかしらと、さっき記憶を手繰りよせていたんですが、無論思い出せるわけはなく。ただ、記憶にある限りでは『ぐりとぐら』かなあって感じ。

幼児期の本でいうと、松谷みよ子の『いないいないばあ』も好きで、子供のころは9歳年下の弟に毎日のように読み聞かせていたんです。で、朗読するときは、舞台俳優みたいに大げさに「いない いない……ばあ!」と言うんですが、それは言葉の意味を演じていたのでも、心を込めていたのでも全然なくて、小さな弟に「ひとつの言葉からは、その言葉の意味に収まりきらないものが溢れているんだ」ということを伝えたくてそうしていたんです。つまりわたしの朗読が大げさになっていたのは、意味の部分にではなく、それ収まらないものが「溢れている」という部分に対応してのことだった。

言葉は意味の器ではない。言葉はいつも、それ自体に収まりきらないものを盛大にこぼしている。そこに収まらないからといって、別の言葉にそれを託すことはできない。たとえ託したところで、また同じことがおこるから。描写を細かくしても同じ。解決策にはならない。それを忘れてはいけないと思うんですよね。