2019-02-24

北斎の川柳





日曜日。午後から一時間半ほど稽古。『ロッキー』を聞きながらだったせいでばりばり調子よかった。夕方、飯島章友さんから「喫茶江戸川柳 其ノ弐」を川柳スープレックスに掲載しましたとのメール。今月は葛飾北斎セットです。古川柳って一人で読むと味わいがわかる前に挫折してしまいがちなので、指南してくださる方がいてとてもありがたいのでした。

ひと魂でゆく気散じや夏の原  葛飾北斎

こちらは私一人でも味わえる北斎辞世の句。ひとだまになって夏の原っぱでもぶらつこうか、という意味。うーん都会的。私、一時期いろんな人の辞世句をノートに書き写してたのですが、こんなクールなのはなかったですよほんと。殊に「夏」がいい。「春」や「秋」だと雅趣が強すぎて、和歌的な権威に対する北斎の叛逆性が見えづらくなりますもん。まあ、どの季節に死ぬかなんて、人は選べないのですけれど。

2019-02-23

本に書く





今週の「土曜日の読書」は河盛好蔵『回想の本棚』から献辞について書きました。

文中、鈴木信太郎のことを書きましたが、似たようなことをしても、ホモソーシャル的な共同体愛を感じさせる人もいれば、立派な変態にみえる御仁もいるのが世の中というものです。なお本の取り扱いに関しては自分にも奇癖がありまして、それは「お気に入りの本に香水を振り、胸の上に乗せて昼寝をする」というのなんですけれど、こういうのも見ようによっては変態性を秘めているかもしれません。

サイン(autograph)については、欲しいと思っても内気なので言い出せず。それでも今まで二人の方に勇気を出してお願いしたことがあります。一人は長倉洋海。私は、トークショーに足を運んだことがあるの、唯一この方だけなんですよ。しかも3回も聴きに行っているの。おそらく相当好きなのでしょう。で、もう一人がエリック・ハイドシェック。この方は、たまたま話す機会があった時、サインをもらうついでに「いつか、あなたのベートーヴェンのソナタ28番を聴いてみたいです」と言ってみたら、その一年後、本当に全楽章通しで弾いてくれました。なんの前置きもなく「弾きます」とだけ言って、いきなり弾き出したのです。フレンドリーすぎる!!! ええっと驚きつつも、ああ、一年も前の言葉を覚えていてくれたんだ、なんて柔らかな心を持った人なのだろうって感激した。

2019-02-21

A NeverEnding Poetry





四吟歌仙 ハミングの巻(夜景・冬泉・羊我堂・胃斎)

起首:2019年 1月26日(土)
満尾:2019年 2月21日(木)
捌き:冬泉 場所:ここ

初折表
ハミングに東風の生まるるフィルムかな  景
 梅の古木に香る爪痕  泉
水ぬるむ夜のはざまへ手をのべて  羊
 壁の路線図すこし斜めに  胃
ネクタイを直してもどる月の裏  泉
 陽だまりに在る梨のつぶてよ  景
初折裏
ぽくぽくと軽車両ゆく秋の雲  胃
 ゑのころ草の遊ぶ子午線  羊
ライナスが消えた未来の窓をあけ  景
 髪を解けばこころさはだつ  冬
こまやかな雨いちめんの野萵苣(ラプンツェル)  羊
 兄弟でゆく現地調査(フィールドワーク)  胃
バスケット・ケースを洩るる息白し  泉
 山のいびきが力タストロフに   景
龍骨に朝のひかりのさしそめて  胃
 渚かなしく右大臣停つ  羊
いもうとの花を手向ける月の島  景
 仰げば浬築雪のいくひら  泉
名残表
奇術師の旅に付き添ふ石鹸玉  羊
 酔余にひらくショゴスの扇  胃
皇帝ペンギン飼育係らタコ部屋で  泉
 山宣死していまは蛍に  景
じやんけんで勝つたら指を哨(ふく)ませて  胃
 さんたまりあはうなづきました  羊
闇鍋とポインセチアの時間論  景
 おどろきはつる冬の胡蝶夢  泉
笹鳴きのスライスチーズをかこむ耳  羊
 木乃伊市長は公人ですか?  胃
お月さまなら許される虚言癖  泉
 ラジオを消せば長い夜となり  景
名残裏
そして舟は霧の忘却の川(レーテー)ただよひて  胃
 プレパラートに沈むたましひ  羊
搭乗のときはガラスの靴を脱ぐ  景
 トランジットで春の虹まで  泉
花冷えて序章の長き物語  羊
 四海しづかに囀りの果て  胃

発句はジョナス・メカスの訃に寄せて。初裏11句目の花の座〈いもうとの花を手向ける月の島〉は月と花をいっぺんに詠んでいますが、これは「月花の句」という手法なのだそうです。ふむ。

個人的に好きなのは名残表・前半6句の流れ。すわ乱入!といった勢いの、場を奪い合う華やかなプレイになって嬉しい。NeverEnding感たっぷりの、明るく開放的なラスト4句もいいな。そんなわけでこの1ヶ月間、たいへん楽しゅうございました。

2019-02-20

付句メモ





さいきん連句をしていたせいで(あと1句で満尾)、付句がいっぱい溜まったのでメモ。あとで俳句に作りかえられたらいいなと思って。

・異国(ことくに)のムーン・リバーを花筏
・運慶と快慶が詠む月と花
・ろくろ首月に照らされ花の宴
・いもうとの花を手向ける月の島
・こんなにもきらきら光る傘なのに
・スプーンを曲げ合ふうちに恋となり
・あしびきの長き休符にキスをして
・売血の死語よみがへる冬の街
・炊き出しの湯気立ちのぼる派遣村
・闇鍋とポセインチアの時間論
・泣く場所は布団と決めてゐる作家


・そして孔雀になる万華鏡
・マンホールにも霧の気配が
・陽だまりに在る梨のつぶてよ
・エンドロールはみぞれまじりの
・冬のシュバルツバルト轟く
・冬の時計は律法に触れ
・山のいびきがカタストロフに
・ラジオを消せば長い夜となり
・成層圏を鳴らすコスモス
・山宣死していまは蛍に

2019-02-17

『川柳ねじまき』♯5より





『川柳ねじまき』♯5をひらくと、巻頭に拙句についてのエッセイが。なかはられいこさん、ありがとうございます。

石ふたつならべただけの神様も   二村典子

喜望峰あたりでなくすハーモニカ  なかはられいこ

遠近法の頂点に凧   二村典子

ねじまき連句より。1句目は尻切れの語尾が古い習俗の儚さを思わせ、また時のまぼろしに立ち会っているようでもあります。2句目は喜望峰とハーモニカの取り合わせに安定感があっていいですね。あと川柳では「なくす」という語が愛しまれているなあと思いました。3句目は精確な描写がとても気持ちいい。あ。この3つの付句、私は川柳として楽しみました。

2019-02-15

はだかであること




今週の「土曜日の読書」は『土方巽全集』から全裸について書きました。

土方巽は数年前、たまたま彼の踊りを見返したところ、えっこんなに上手かったのか!と衝撃を受けてしまいました。それで土方を好きになったのかというと、全然そんなことはないんですが(こういうのは趣味の問題なので)。本はとても面白いです。

全裸の下校。これは以前、俳人の橋本直さんにしたことのある話なのですけれど、その時は直さんと初対面だったため「すごく天気が良くて、裸になったら気持ちいいだろうなと思って脱いじゃったんです。てへ」とご説明申し上げたんです。直さん、ごめんなさい。あの時の説明はウソでした。

話は転じて、自分で行商した書店リストの話。気の向いたときにメールを出していて、現在78件になりました。最新の小鳥書房さん(本の入荷は来週です)の立地がとても素敵。こんなレトロな商店街の中にあるんですよ。わくわく。

2019-02-10

季語を泳ぐ川柳



『晴』第2号は水本石華氏のエッセイ「季語を泳ぐ川柳」がおすすめ。文中「俳句と川柳の中で使われる季語にどのような働き・肌合いの違いが生まれるかを対照してみました」と、自作の俳句と川柳を組み句にしているのですが、それがさりげなくていいんですよ。

「名月」「残」
俳 やり残すこと多かりき今日の月
柳 戦中派にも名月の残り物

「月」「雨」
俳 お尋ねの一碗にある雨月かな
柳 雨になることを喜ぶ月見酒

「桐一葉」「国家」
俳 桐一葉落ちて論ずる国家なし
柳 恥多き天下国家にある一葉

俳柳ともに連句の香りが濃い! なお両者の違いが一番際立っていると思われるのは下の組み句。

「小鳥」「水」
俳 水の香の濃くなる昼や小鳥来る
柳 東京の水で漂白した小鳥

水本氏の書き分けがとても端正なので、どんな方なのだろうと興味が湧いてググってみたら、川柳作家の瀧村小奈生氏や笹田かなえ氏のサイトに佛渕健悟氏の柳号だとあり、さらにググると三省堂『猫の国語辞典』の編者であると知る。はて。『猫の国語辞典』とはなんぞや。Amazonの紹介を縮約すると「江戸から昭和までの俳句・短歌・川柳の作者500名の作品から2400の猫の句を集め、それらを猫の性質や動作などをキーワードに800の見出しをたてて紹介」。うーん、楽しそう。


2019-02-09

ゆかいなことはあくまでゆかいに





今週の「土曜日の読書」は鈴木孝夫『ことばの人間学』から鳥の言葉について書きました。

鈴木孝夫との出会いは高校生の時。最初は、なによこれ、こんなの論文じゃないじゃん!なんて思っちゃいましたけど。この人は梅原猛みたいな面白いキャラでもないし、なんだか中途半端にうつったみたいですね。でも論文が論文らしくないときって単に意味もなくそうなんじゃなく、やっぱり背景というか、それまでの人生から生まれた抜き差しならない思惑があったりするんですよ。で、それが鈴木孝夫の場合は鳥との連帯だったわけ。

言語学といえば、自分は高校生の頃、中央公論社『日本語の世界』をよく眺めていたんです。今でも言語学と聞いてぱっと思い浮かぶのはこの全集と、あと井上ひさしの『自家製 文章読本』『私家版 日本語文法』あたり。とくに『私家版 日本語文法』はオールタイムベスト10に入るくらい面白かった本で、いま手元にないのがとてもざんねんなのでした。

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに。
井上ひさし

2019-02-07

Tsunami à Nice 1979



この町の地理について調べていたら、1979年にコート・ダジュール一帯を襲った地震の写真があった(この辺りからイタリアにかけては、たまに地震が来る)のでブログにメモ。



これは隣町アンティーブ。津波が引いたあとの光景。



こちらはニース空港。滑走路の先がなくなってしまっている。元々は黄色い部分があった。画像はこちらから。


余談。このあたりは日頃から高波が一種の名物のようで、昔の絵葉書を見ているとそんなのがいろいろある。この絵葉書はいつなのかしら。まだカジノがあるのでナチス侵攻前だということはわかるのだけれど。

2019-02-03

デイヴィッド・ホックニーの1枚





ミラノのブティックでVOGUEかなにか(忘れた)を読んでいたら、デイヴィッド・ホックニー愛好家?として有名なルーク・エドワード=ホールのインタビューを発見。この二人って棒ストライプのシャツとか、ヘヴィーフレームのメガネとか、くしゃくしゃ頭とか、あといろいろ、微笑ましいほどそっくりですよね。

この記事には1970年、セシル・ビートンの家でピーター・シュレシンジャーが撮影したデイヴィッド・ホックニーの写真が添えてあって、それがあまりに素敵なので、店員に断ってスマートフォンに収めました。こちらの足元もよく似合っているなあ。ホックニーって作品もいいけど、本人も最高。ポスターが欲しい。

2019-02-01

旅のさなかに





4泊5日のミラノ旅行から帰宅。写真はとてもピンクだった教会。椅子が透明で可愛い。ここはお茶会のサロンですか!っていう。

中空は星まれにして下界には月見る人の目玉きらきら
混沌軒国丸

ミラノのドームは宗教より天文学の香りのするものが多かったです。神よりもむしろ宇宙への憧れ。で、あちこち眺めながら思い出したのが混沌軒の狂歌でした。

* * *

旅のさなか、夜のベッドの中で、1月26日の日記を読んだという2人の方と「闇」についてメールをしました。

一人は闇と親しみ、もう一人は闇をしたたかに拒絶して孤高を生きてきた方でした。

以下に書くのは、発狂していないことを前提とした話です。

先日の日記で言いたかったのは、闇はそれなりに味わいある場所ではあるものの、その効用というのが言ってみれば〈ゆりかご〉であり、イニシエーションの拒否なので恥ずかしいってことでした。ただし、こんなしょうもないことに意識が向いていたのは当然本人に原因があってのことで、以前は私自身が闇をアジールにした生活を送っていたんですね(この話は『カモメの日の読書』や、日経新聞のこちらあちらにほんの少し書きました)。で、そういった、自己批判を免れた、自分べったりのどん底にいざるを得ないことがたぶん無念で、それで闇を否定・批判することで正気やバランスを保っていたわけです。

もちろん私は当時から、こうした闇に対する否定・批判が少しも現実との闘争になっていないことに気づいては、いました。とはいえどんな状況でも楽しく生きてみせることこそがリアル・レジスタンスなんだってことにはなかなか思い至らなくて、結局「否定ではなく、肯定の中にこそ生の実践がある」ということにはっきりと気づくきっかけが俳句だった。

やっぱり、ほら、現実ってこんな場所じゃないですか。それを考えると、どうしたって現実への最大の非服従というのは、この世界に意地でも日々輝きを見い出し続けることなんですよ。

私はもう10年くらいフツーに生きていて、どこも手術をしなくてよくなってからは5年くらいなんですけど、体調的にも上向きの、奇跡的なタイミングで俳句と出会い、この明るいインスピレーションを得たんです。

今は、もしまた何かが起こっても、もう昔のようにはならないという予感があって、それで闇を否定する気持ちが消えました。闇の悪い面に引きずられずに、純粋に素敵な面とだけつきあうことができそうというか。実際、そういう人は、あちこちにいる。孤塁を守りつつ、あっけらかんと生きている人が。

最近、私の誕生日を祝う義母からの電話で「本当にあなたは健康になった」と言われて、義母に改まってこんなこと言われたの初めてだったので、ちょっと感激したんです。で、さらに先日、ミラノの旅のさなかに橋本治がこの世からいなくなって、とてもさびしいのですけれど、あ、彼はちゃんと本を残してくれたのだからさびしがってはいけないと思って、さびしさに引きずられないために、1月26日の日記と同じ話をもういっかい書きました。さようなら、橋本治。