2024-04-20

小津夜景×山本貴光トークイベント「本という地図、読むことと書くこと」ならびに食卓の和装本





連続トークイベント第2弾の情報です。5/12(日)19時より、東京は下北沢にある本屋B&Bで『ロゴスと巻貝』刊行記念イベントが開催されます。ゲストには文筆家・ゲーム作家の山本貴光さんが登場。当日は『ロゴスと巻貝』を軸として「本という地図、読むことと書くこと」をテーマに語らいます。サイン会もあるそうです。チケットの購入はこちらからどうぞ。みなさまのご参加を心よりお待ちしております。

話は変わって上の画像ですが、これ『ロゴスと巻き貝』刊行記念として巻いた連句(こちら)なんです。佐々木未来さんのドローイングを佐藤りえさんが折本に仕立て、拙宅へ送ってくれました。で、どんなふうに写真を撮れば素敵かしらとしばらく考えていて本日あっと閃いた。食卓っぽくするのがいいんじゃないかと。


丸帙に入っています。


表まわりの紙はシルクスクリーンプリントのコットンペーパーでドイツ製。たんぽぽの綿毛なのでしょうか。


見返しは後染和紙で、帙の内張は東南アジアの手漉き紙。


完全に和装の技法を用いてほぼ洋紙で仕立てた理由は小津へのオマージュだそうで、まことにかたじけないことです。

2024-04-19

手と手が語らう静かな場所





5/11(土)20時よりtwililightで催されるトークイベント「小津夜景×下西風澄『ロゴスと巻貝』をめぐる風景」は満席になりました。ありがとうございます。ひきつづきオンライン配信のチケットを販売しています。

昨夜、ひさしぶりに『菅家文草』の詩を試訳しました。

碁  菅原道真

手談幽静処 用意興如何
下子声偏小 成都勢幾多
偸閑猶気味 送老不蹉跎
若得逢仙客 樵夫定爛柯

碁  菅原道真

手と手が語らう ひっそりと奥まった場所で
意識を集中する えもいわれぬその愉しさよ
碁石を打つ響きはひとえに小さいけれど
碁盤の目の勢いは都を造るかに賑わっている
仕事の合間をぬって打てば気が晴れるし
老境の日々にあっても心は衰えないまま
もしも仙人が碁を打つところに出くわしたなら
きっと時を忘れる 斧の柄を腐らせた樵のように

だいたいこんな感じ(良案を思いつくたびに推敲する予定)。道真は囲碁を題材とした詩をいくつか書いていますが、この詩は冒頭が素敵。上品な香りをおだやかに放ち、おもむろに弦が鳴り出す瞬間の衝撃に似た静かな幸福感が込み上げてきます。「用意」の読み下しは「意を用いる」で、注意する、気を配るの意。「成都」の読み下しは「都を成す」で碁盤の目を都に見立てていると思われます。「蹉跎」は耄碌する。「爛柯」は爛柯伝説(樵が山中で碁を打つ仙童に遭遇し、夢中になってその対局を見てふと気づいたら斧の柄が腐るほど時がすぎ、村に戻ったら知っている人間はもう誰もいなかった)。

2024-04-13

小津夜景×下西風澄トークイベント『ロゴスと巻貝』をめぐる風景





5/11(土)20時より、東京の三軒茶屋にあるtwililightで『ロゴスと巻貝』刊行記念イベントが開催されます。タイトルは「ロゴスと巻貝をめぐる風景」。ゲストにお迎えするのは哲学者の下西風澄さん。当日は下西さんに『ロゴスと巻貝』をご案内いただいたのち、本書で取り上げた作品を軸に、ジャンルを自由に横断する本との関わり方についてお喋りする予定です。

今回のトークイベントは連続企画で、東京では2回開催されます。場所とお相手はそのつど変わって、もう一人は本ができあがる前からお願いずみの方。で、一ヶ月くらいまえでしょうか、担当編集者のKさんに「小津さん、せっかくの機会ですのでもう一日イベントやりましょう。どなたか話してみたい方はいますか?」と質問され、おずおずと下西さんのお名前を挙げたんです。そしたらなんと先方がお引き受けくださいました。わたしのような不束者のためにお時間を割いていただくことにすごく恐縮しています。あまりに恐縮しすぎて「あの。ええと、前もってオンラインでご挨拶したほうがよくないですか?」とKさんにメールしたら、わたしの弱気を察してくれて、来週ご挨拶することに。

そんなわけで、みなさまのご参加を心よりお待ちしております。チケット購入は下のXのリンクからどうぞ。

2024-04-10

第3回 現代俳句を舌で味わう〜小津夜景『花と夜盗』に寄せて





《info.1》4月8日『カモメの日の読書』が4刷になりました。皆々様に熱く御礼申し上げます。

《info.2》『すばる』5月号の空耳放浪記は「引用のメカニズム」と題して、まつおはせをの一句についてあれこれ空想してみました。

《info.3》松本にあるbooks電線の鳥主催の連続企画「第3回 現代俳句を舌で味わう〜小津夜景『花と夜盗』に寄せて」の日程と内容が決まったとの連絡をいただきました。日時は2024年6月16日(日)12時頃から17時頃まで、会場はゲストハウス東家。今回は「水をわたる夜」を題材とし、「めしつくるひと」木内一樹さんによる料理、権頭真由さんによるピアノと上條淳香さんによる書の即興実演、小林智樹さんによる漢字解説といった演目が繰り広げられます。ざっと5時間に及ぶ盛りだくさんの内容で、参加費は4200円、定員は15名(小津は出演しません)。料理人の木内さんは文章も面白く、お品書を拝読するのが楽しみ。権頭真由さんは寓話的世界観が曲名にまで行き渡った作風で、ライブでは観客が観た夢の内容を書いて渡すと瞬時にその夢を音で紡いでしまうとの噂。書の上條淳香さん、漢字解説の小林智樹さんにもお礼を申し上げます。詳細は画像でどうぞ。

2024-04-05

私たちは今なお歩みを止めない





冊子「書肆侃侃房の海外文学」に書評「私たちは今なお歩みを止めない」を寄稿しています。取り上げたのは高柳聡子著『埃だらけのすももを売ればよい ロシア銀の時代の女性詩人たち』です。企画展風に、じっくりと詩を鑑賞することのできる本でした。

廬を結びて詩境のはずれに在る身としては「女性詩人」という言葉を聞くたびにむず痒い気分になります。けれど「女性」というカテゴライズを外してただ「詩人」と呼べばこの問題が綺麗に片付くかというとそうではない。なぜならわたしたちは、ただの「詩人」として発想すると同時に「女性詩人」という軛の中で書くことの意味を考え抜いてもきたから。つまり「女性詩人」という概念は、そう名指される側からすると「自由と軛とをめぐる省察」の歴史そのものであり、そこには今後も記憶・継承すべき言説がたんまり存在する。「女性詩」という概念の破棄を目指しつつも歴史は忘却しない。概念の彼岸へと、わーいと手ぶらで走っていくのではなく、道中のしかばねに献じる花籠を抱えるのを忘れないようにしたい、そんなふうに思います。

ところで、話は変わって先週のことなんですが、編集者のKさんと喋っていて『源氏物語』の話になったんですよ。で、思わず「わたし、紫式部に私淑してるんです。石山寺まで彼女の参籠した部屋を見にいくくらい。エッセイを書いていて行きづまるたびに彼女のことを考えます。彼女だったらどう書くだろうって」と言ったんです。すると「小津さんから紫式部の話を聞いたのって初めてかも。そんなに好きなんですか」とKさん。「はい。デビュー作の冒頭も『紫式部日記』を物真似しちゃってます。なんの文学的仕掛けでもなく、ただ自分の気分を上げるだけのために」とわたし。そんなわけで、ええと、こんな感じ。

秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。(『紫式部日記』)

ふみしだく歓喜にはいまだ遠いけれど、金星のかたむく土地はうるはしく盛つてゐる。たちこめる霧。うちともる吾亦紅。水にせまる空木のえだぶり。やすらぐ鳥の葉隠れのむれ。眼に見えるものはいつでも優しげだ。鳥は暗い音色で呼ばひあふ。そのかすかなのどぶえが静かな朝の空白にこんなにも息吹を吹き込むものだから、誰もゐないはずの庭は記憶に呼び出されたまれびとで今やおびただしい。(小津夜景「出アバラヤ記」)

2024-04-02

柩となりし船と船とは





『九重』5号掲載の高山れおな「百題稽古 其三のうちの恋」は六百番歌合の題で組題百句を作ってみせるという趣向。これが華やかでありながら軽い。まるで見えない部分に金糸が縫い込まれているかのような、ワインでいうならブルゴーニュかと見せかけてロワール地方の味わいをもつ連作で、それが川のように滔々と流れていきます。

寄絵恋 金地戦闘美少女図襖とはこれか

いわゆる「とはこれか」俳句。この型では冒頭にどんな言葉をもってくるかが見所ですが、いきなり初句七音で「金地戦闘」は超ゴージャス。中八「美少女図襖」の音密度の高さや文節の切れ方もよろしく、いよいよ期待を裏切らない。で、結句は驚きと呆れを含みつつ、すこんと抜く。雅俗の交雑が文句なしの句。

寄鳥恋 川波や夢みよと恋教へ鳥

「恋教へ鳥」(セキレイの古名)の句跨りと体言止めが雅趣たっぷり。初句「川波や」も痺れます。この語のイメージの弱さ、儚さ、ありふれた感じがかえって切なさを煽るんですよ。またこの句の場合は「恋教へ鳥」の印象が浮き出るようにするという意味でも初句は立てない方がいいですよね。川、波、夢、恋、鳥といった月並みな名詞をずらりと並べて優雅に踊らせてみせる技量もたまりません。

ちなみに『九重』5号には高山れおなインタビューも載っています。聞き手は「月刊狂歌」編集部の花野曲。月刊狂歌って…んな阿呆な。まあ冗談企画ですけれども、題詠と俳句の相性についてなど得心する点が数多く、読み応えがありました。

佐藤りえ「恋すてふ 贋作恋十二題」は高山さんの趣向をさらにひねり、詞書にさらに俳句を添えた短歌連作。

漂恋 月の夜の蹴られて水に沈む石 鈴木しづ子
追憶のついぞ変わらぬ水の上補陀落渡海の船を寄せ合う

死の国に旅立つのに、船を寄せ合う。なんというむなしさでしょうか。りえさんは俳句を書くときと短歌を書くときとで人格の現れ方がはっきりと変わる書き手で(これはもちろん詩形の側にその原因がある)、俳句のときは立体デザイナー的な感性が全面に出る。読者としては知的な喜びを感じます。かたや短歌は本音を聞いているような読み心地で、いかなる本音かというと、それは虚しさです。りえさんの短歌はしょっちゅう虚しい。でもこの歌を読むと、その虚しさこそがついぞ変わらない水の上の追憶を輝かせていることがわかります。それぞれが個別の追憶を生きながら、孤絶を抱えながら、遠く流されながら、柩となった船と船とは、それでも触れ合おうとするのです。

寄橋恋 踊り疲れて白夜を帰る橋がない 永井陽子
船形のお菓子を買って帰る宵 橋の嘆きをたしかに聞いた

「嘆きの橋」(ため息橋)といえばヴェネチア。この呼称は、犯罪者が投獄される前に見るヴェネチアの最後の景色がこの橋の上からであるために、彼らが深いため息をつく橋としてバイロンが『チャイルド・ハロルドの巡礼』でBridge of Sighsと呼んだのがその初め。で、それをひっくりかえし「橋が嘆いている」設定にしたのがこの歌。思うにこれは、地元では日没時、この橋の下でゴンドラに乗り、恋人同士が接吻を交わすと永遠の愛が約束されるという言い伝えがあるから。語順を逆さにするだけで、言い伝えに反する恋人たちの運命を見続けてきた橋の呻吟が聞こえてくるというトリックアートが面白い。それにしても舟形のお菓子の霊力ってすごいんだなあ。

2024-03-28

ファンファーレを胸に秘めて





前の日記に書いた冬泉さんの誕生日祝い連句、羊我堂さんが画像にしてくださいました。燕がかわいい。そしてみんな相変わらず芸達者。わたしは根っからの地味な性格なので、この華についていくのがたいへん…。

毎晩、布団をかぶって「ああ。明日の朝ごはんがたのしみだなあ」とわくわくしながら眠りにつく。今朝の主食ははじめてのパン屋さんのパン・ド・カンパーニュで、手造りの石窯で焼いたという味はまあまあ。まあまあ、はわたしの中ではかなりいいほう。午前中は水野千依『イメージの地層』を読みながら原稿書き。昼は水餃子をつくる。皮がぶ厚くてごろごろしていた。午後は4キロ走ってヨガをして服を着替えて電車にのる。向かい側に腰掛けている9歳くらいの少女が一心不乱になにか読んでいた。そっと盗み見るとアガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』。おおっ。思わず心の中で、

てれれって
とろろっと
ぷるるっぷ
たったー

と盛大なファンファーレを少女に捧げ贈る。ほわんほわんと反響するファンファーレを胸に感じながら電車を降りて、図書館で原稿の続きを書く。夜は写真の整理をする。4年前にはじめたインスタグラム、根気がなくて上手く活用できていなかったのだけれど、これから週2回は投稿したいと思っている。

2024-03-21

七曜の断片





月曜日は山本貴光さんの新刊『文学のエコロジー』を読む。作品をするすると解析していく手つきが爽やか。「鮮やか」ではなく「爽やか」と書いたのは、文学批評にまつわる特殊な概念や装置がとても控えめにしか用いられていないせいか、語と語のどの接合部分にも胡乱な(投機的ないし山師的な)摩擦熱が発生していなかったから。単語間の配列が端正で読みながら清々しい気分になる。でもって火曜日はリチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読んだのだけれど、こちらは胡乱上等、怪しさ満点、暴飲暴食もかくやとばかりの荒ぶった言語運動。水曜日は春物の上着と靴を探しに街へ。上着はゴアテックス素材のトレンチコート。靴はカルフのMESTARI CONTROL。配色はSILVER LINING/TRUE NAVYにした。ついでにツヴィリングの包丁も購入した。高くてびっくりしたけれど思い切って買った。包丁を買ったのは生まれて初めて。大学入学の折と結婚の折に母が揃えてくれたヘンケルスと有次の包丁をいままで使い続けていたのだ。

先日は冬泉さんのお誕生日だったらしく、「いつもの連衆で表合でも巻いて贈りませんか」と声をかけてもらう。わたしは花の座の担当。

まれびとは全部伴天連花の茶屋

「全部」って表現どうなのよ、とちょっと思うけれど、わたしは音からつくるのでしばしばこういうことが起こる。中七は賑やかな和音風にしたかったらしい。

『すばる』4月号はティータイム特集。わたしもそれに便乗してキャロブ(いなごまめ)からコーヒーをつくる話を書いた。キャロブのコーヒーって自分には全く馴染みがないのだけど、年末にギリシャを旅した折、かの地の食材を眺めていたら「Carofee」という商品名で普通に販売されていた。ギリシャ人にとってのキャロブはフランス人にとってのシコレみたいなものなのかしら。以下の写真はル・コルビュジエの休暇小屋に立っているキャロブの木と拾った莢。

2024-03-09

『ロゴスと巻貝』刊行記念歌仙「初凪の巻」



『ロゴスと巻貝』刊行記念歌仙「初凪の巻」が満尾しました。わたしも挙句だけ参加させてもらっています。


『ロゴスと巻貝』に登場するモチーフが主旋律。そこへ句集『花と夜盗』をフレーバーとして使っていただいたようで。ありがとうございます。しかしそれにしてもみなさん上手い……いや本当にこれ上手すぎやしませんか? やりたい放題なのに独りよがりじゃない。次の連衆がうちやすいボールをちゃんと上げていく。博愛と連帯を感じさせるという意味でとても美しい歌仙です。わたしの挙句は神祇釈教も用意したのですが、 冬泉さん曰く「りゑさんの「巫山戯」がその役を果していると解しましょう」とのことで紙風船の句が採られました。

ガザを知らない二十四時間 冬泉
×○(ミッフィーのくちびるドラえもんのはな) 羊我堂
奢霸都館開店行列冷まじく りゑ
許されぬ恋だとばかり思ひ込み 岳史
喜喜昔圖古茶壺(ききとしてむかしゑがいたふるちやつぼ) 未来
エピタフのtu fui ego eris すり減つて 季何
確定申告ボイコットすれば花 胃齋

2024-03-08

強い夢、あるいは何かに向かおうとする心






嵐の去った海には石や木が散らかっている。岩の上で釣りをする家族、椅子に座ってお茶する女たち、家づくりをする少年たち、皆それぞれに遊ぶ。


誰かが積んだ石の塔。


別の場所にも家をつくる少年がいた。


原始と抽象とのあわいに心が立ち現れる。強い夢に似た、何かに向かおうとする心が。

2024-03-03

聖土曜日を飾る寄せ書き





土曜日は春の挙句をつくった。以下はその提出句。歌仙全体は日を改めて。

朧月夜に用を足す犬
聖土曜日を飾る寄せ書き
象に望みて甘茶一服
紙風船のまろぶ坂道
ごろりと臥して吹くシャボン玉

日曜日は朝からいかんともしがたい嵐。鎧戸を下ろし、暗い中でじっとしている。昼はカレーを作るが、食後の甘いものがなにもなく、外にも買いに出られない。なにもない状態でコーヒーを飲むのが辛いとつぶやくと、夫がキャラメルコーンフレークを作ってくれる。

2024-02-24

カルナヴァルの広場を抜けて





ル・アーヴルの知り合いが「ぼくの通ってた高校、サルトルが教えてたんだよ」と言うので興味をそそられ、Lycée François 1erの位置を調べたら、なんと街のど真ん中にあるショッピングモールの隣だった。こんな現実感(?)のある場所だったのか。ル・アーヴルに住んでいた頃は「いま『嘔吐』を読み返したらとんでもなく面白いんじゃないか?」としょっちゅう想像したものだけれど、知り合いの言葉が契機となって本日とうとう本屋さんで『嘔吐』を購入するに至った次第。ついでにカミュも買い直した。きれいな本で読みたくて。

わたしはカミュの文体が好きだ。何度読み返しても、まるで初めて出会ったかのような瑞々しい衝撃を受ける。心臓を鷲づかみにされる。読んでいる間中ずっと胸の痛みが止まない、そういう類の感動だ。

2024-02-18

つられて走る





日本経済新聞の17日付朝刊「交遊抄」に寄稿しました。ウェブ版はこちら。文中で触れた入交佐妃さんによる写真はこれのこと。神保町の珈琲店「さぼうる」でお茶していたとき、パシャっと一発で撮ってくれました。

高橋睦郎さんの新刊『花や鳥』の栞を書きました。栞の一般的位置付けというのが定かではないまま普通の感想を書いてしまったのですが、いまふと「あ。栞って出版おめでとうの挨拶なのかも」と思い至りました。たぶんこれ合ってますよね。

今日は朝8時半から海辺を散歩。空気が最高だった。たくさんの人がジョギングしてて、ほんと大勢走ってて、まるでジョギング星人たちが住む異星に迷い込んだ感じ。ぶらぶらしているうちになんだか郷に従った方がいいような気分になってきて、あたしも20分くらい走ってしまった。

2024-02-12

海辺の思考





きっとうろうろしてるにちがいないと。うろうろしながら書いているのでしょうと。わたしの文章には、そんなうろうろした印象があるらしい。
「うろうろしてますね」
と言われた。きのうも。
「うろうろしてますか?」
ときかれても、うまくこたえられない。
「うろうろってなんだろう……」
そうおもいながら、いま、海をみている。

2024-02-06

掲載のお知らせ、最近の展覧会など





●『群像』3月号に全速力の文「師走ギリシア紀行」を寄稿しています。●『すばる』3月号の空耳放浪記は「パスタパスタで暮れる年」。大晦日の詩歌を紹介しました。●『Precious』3月号巻頭に「俳人・小津夜景さんの句と軽やかに煌めくファッションで綴る早春賦/光る風に衣ゆらめき。春を着る、春を舞う」が掲載されています。全8頁。モデルは大政絢さん、撮影は藤森星児さんです。編集部から届いた写真から早春の香りがあふれていたので、かぶりすぎないよう季節感は控えめに、かつ大政絢さんの謎めく雰囲気が引き立つよう黒子に徹しました。

潮の香を残し燕は塔に消ゆ  夜景

●今日はゲラを3つ読んだ。ひとつは自分の。あとふたつは人様の本。●ニースのアジア美術館は無料なのに面白い企画展が多い。先週は「タンタン・エルジェ&チャン展」をやっていた。チャンというのはエルジェの出世作にして最高傑作『青い蓮』を描くのに協力した彼の親友で彫刻家の張充仁のこと。カラー版絵本の元となった新聞Le Petit Vingtièmeもずらりと揃って圧巻だった。下の写真はチャンに関するヴィデオ。上はLe Petit Vingtième掲載時の誌面と、チャンとエルジェの私物。

2024-02-01

正岡豊『白い箱』のひっぱりとひねり





32年ぶりの正岡豊の新作『白い箱』は正岡さんらしい歌集でした。しかしながらその「正岡さんらしさ」とは一体なんなのか。前衛短歌由来のリズムや新古今集っぽい遊戯性といった特徴はある種の潮流に共通する傾向であって正岡さんに固有とはいえない。私が『白い箱』を読みながら、ぱっとひとつ思いついたのは「結論をひっぱる」と「落句をひねる」の合体芸です。なかでも真骨頂といえるのが、

アマポーラ そらいろをしたくちびるがそこで戦う岩館真理子

こうしたひっぱり&ひねり方。このとき落句があまりにも奇抜だと意味が迷子になるわけですが、一般名詞ではなく固有名詞をあしらうことで現実世界の輪郭線をかろうじて維持する、この技がまた正岡さんならでは。固有名詞の重みで、意味のわからなさを凌駕していく作戦ですね。

だってそれでも人は死ぬから、それはそう、それはそうだがジャック・ラカンよ

小林一茶の「露の世は露の世ながらさりながら」を本歌取りしつつ、結論をひっぱり、落句をひねる。この下の句には大田南畝の「それにつけても金の欲しさよ」と同種の感触があり、付合にしても面白そうです。「ジャック・ラカン」もまるで時間ぎりぎりで決めた大外刈のようで実に見事な取り合わせ。モダンな狂歌の粋を感じさせます。

わたしはたしかにそこにはたどりつけないがかき氷に載せてるさくらんぼ

サウンドがサクサクしてて、まるでかき氷をかき混ぜるような感触をリスナーに味わわせているみたい。音が桜の花びらのように舞って、舞い散って、そして最後にひとつぶ、さくらんぼが残る。そのさくらんぼの、ちょっと間抜けな感じ。そこにひねりが隠されていそうです。

こわれないでもたもてないたましいの人体はいま光のホテル

壊れないでも保てない魂をかろうじて支える宿木、それは人体。押しとどめようもなく流れ去る月日を過客するエターナルなソウルの旅はけれども終わらない。個人的には震える魂からクォークのダンスを連想したり、そのクォークたちが踊ることで肉体の光り輝くエネルギーが生まれているのかもと想像したり。あと「たましいの」を枕詞のように使っているところが上手い。いや、よく見たら「こわれないでもたもてない」も「たましい」の序詞になっていますねこれ。なんという美しいひっぱり芸。素敵だなあ。その他、気ままに三首引用します。

みたこともないのにぼくの心臓のいろのゆうべの天の橋立
オリンパス・ペンを肩がけしてるのが父さん私の妻なのですよ
あしたあなたのまっしろな小骨になって越えたい木津川や宇治川を

2024-01-27

「物語」の根っこは「語」である





朝、海を眺めながらデイヴィッド・G・ラヌー『ハイク・ガイ』を読む。とてもキュートな小説。湊圭史さんの翻訳が素晴らしい。

妹いづこバーボン通りのストリッパ
somebody's little sister / Bourbon Street / stripper

きよしこの夜丑みつの酒場かな
silent night, holy night / three / at the bar

みな見たり成したり今や忘るるのみ
seen it all, done it all / and now / forgetting

いざさらば雪へ尿にて残す文
farewell! farewell! / pissed / in a bank of snow

つめたき世のおもてを掻きて鼠かな
scratching the snowy / surface of thing / mouse

話は変わって前回の日記について。須藤岳史さんがこんなことを書いてくれたのですが、うーんたしかに。というのは私、今回書きながらつくづく「物語って最強だなあ」と思ったんですよ。人間には生死を問わず尊厳があるでしょう? それを尊重するとなると物語以外の手段でアプローチするのは難しい。で、物語は真実を伝えるために生き残ってきた形式だなとあらためて認識しました。

物語の要諦は「本当か嘘か」ではなく「その文章がどんなノリで喋っているか」にあります。「物」と「語」では「語」の方が根っこで、要するにそれは話術、語りの技芸だということ。大きく、小さく、深く、浅く、切り込んで、よそ見して――どの語り方もそのつど真実を背負っているわけです。

2024-01-22

ミツバチのエッセイは蜜のように甘かった





このところ働きすぎていたみたいで、いきなりなにもできなくなってしまった。と、いまなんとなく書いて、あ、そうなんだ、とようやく気がついた。こういうときはなにもやらないに限る。いまからちょっと海辺を歩いてきます。

ただいま。4キロ歩いてきました。でもぜんぜん頭の中がすっきりしない。しないよう。しょうがない、さらにヨガでもやりますか…。

終わりました。やっと気分が晴れました。ええと、今日の話は『ロゴスと巻貝』について。これがですね、かつてないほど感想を頂戴しているんです。傾向としてはざっと二種類に分かれまして、ひとつは「笑った!」というもの。もうひとつは「なんて正直な人だろう」というもの。笑いに関しては、実現できているかはともかく常に心がけていることなので嬉しい。ただし他人がどこで笑ってくれているのかは分からないので後学のために友だちにたずねてみました。すると友だち曰く「いやあ、正直だなあと思って!」。はは、なんだ、そういうことか。しかしながら、私生活をあまねく暴露した文章がますます巷にあふれる今日、書きすぎないことを旨とした本書がなぜ「正直」に映ったのか。結局よくわからずじまいです。

また「装丁が綺麗」とおっしゃる方も多いです。今回、デザイナーの脇田あすかさんには「ディプティックのまだ見ぬ新作デザイン。ユニセックス仕様で」と、またイラストレーターの杉本さなえさんには「自然現象と動植物をからめた装画を」とお願いしました。カバー表のイラストと飾り罫、背の巻貝、裏の楕円フレームのロゴは村田金箔の透明箔押しで、そこだけシールのような手触りになっています。カバーをはずした本体は、天然パール調の光沢をはらんだ布のような紙。表紙見返しの黒の風合いや栞の白など、ぜひ手にとってたしかめていただければと存じます。

あ、そうだ。杉本さんの装画の中に蜂が飛んでいるのは、初校の段階ではミツバチについてのエッセイがあったからです。引用したのはレイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』。でも最終的に破棄してしまった。この本のことが好きすぎて、うまく書けなかったの。

2024-01-16

「読む」こととの距離感 『ロゴスと巻貝』著者インタビュー





「本チャンネル」はブック・コーディネーターの内沼晋太郎さんをメインホストに、本にまつわるあらゆることを扱うYouTube番組。その看板コンテンツ「今日発売の気になる新刊」に出演しました。

YouTubeはこちら。以下のX(旧ツイッター)でも公開されています。


自分のことを書くのって難しい。今回の本でもそれをひしひしと感じました。なかでも「人は一人で生きているわけじゃないから、自分のことを書こうとすると周囲にいる人たちの人生を大なり小なり暴露することになってしまう」というジレンマ。これがますます浮き彫りになり、いったいどう向き合えばいいのか考え込むことが多々ありました。

『ロゴスと巻貝』にはいろんな人が登場しますが、個人のプライバシーを尊重して、アスタルテ書房のササキさん以外は仮名を採用しています。もう二度と交わることのない人たちも少なくないけれど、でも、たとえそうであっても、彼らが語ったことを都合よく利用することは許されないと思い、慎重に、控えめに、本当に控えめに書きました。あと家族を出すというのも一筋縄ではいかない難問なんですよね。どんな家庭、どんな一族にも平坦ではない歴史があり、ペンを持つ者がそこに独断で踏み込むことの是非はいつだって悩ましいところです。

「人には尊厳がある」というのは、わたしがエッセイを書きながらつねに思い起こすことです。他者の人生は決してエッセイの具ではありません。書くという行為によって他者の実存を実は盗んでいるんじゃないかと自問したり、自分の言葉と他者の言葉との境界線をきちんと見極めているか気にかけたり、またあるいはごくシンプルに、彼らがこのエッセイを読んで「そういう意味で言ったんじゃない」と驚かないか想像したり。そんなことを忘れないようにしながら綴ったこのエッセイ集、ちょっと読んでみようかな、と思っていただけると嬉しいです。

2024-01-09

スタンプ記念日





俳句結社誌『鷹』1月号に巻頭エッセイを寄稿しています。そして『ロゴスと巻貝』が本日発売になりました。デザインは脇田あすかさん、イラストは杉本さなえさん、帯は山本貴光さん。全部で40篇のエッセイが収録されていて、AmazonのKindle版で巻頭詩、目次、最初の一篇が試し読みできます。

* * *

気管支炎はすっかり良くなった。一昨日は句集の栞と「すばる」の連載を書き上げ、夜は旧市街のBocca Nissaで知人と食事をする。料理はスパイシーな挽肉を添えたフムス、胡桃とカマンベールのロースト、バルバジュアン、トリュフのフェットチーネ、焼きかぼちゃのストラッチャテッラ添え、レモンタルトとヴェルヴェーヌのお茶。バルバジュアンはカステラール村の郷土料理で、玉葱、菠薐草、リコッタチーズなどを生地で挟んで揚げたラヴィオリのこと。カステラールの住民がモナコでそれを販売していたことで有名になり、今ではモナコの伝統料理になっている。ワインはFamille PerrinのCôtes-du-Rhône。白でなく赤にした。

昨日は別の雑誌のエッセイを書き、今日は『ロゴスと巻貝』の刊行日ということで著者インタビューの取材を受けた。どんなふうにできあがるのだろう。不安しかない。昼間、掃除をしながら俳人のRSさんとLINE。生まれて初めてLINEスタンプを投下。スタンプ記念日である。