ラベル S U M I Y O K O I K E の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル S U M I Y O K O I K E の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021-11-11

言葉と恋と肉体



さいきんは朝起きると「あ。今日ブログ書けるかも」と思うのですが、歯を磨いたり顔を洗ったりしているうちに無理になってすぐ横になる、といった日々です。

横になってじっとしているといろんなことを思い出します。「どうして自分はこのような人間になったのか?」といった問いにまつわるいろいろなこと、をです。

とつぜんですけど、本の作者に会ってみたいと思ったことってありますか?

わたしはあります。

空海。菅原道真。小池純代。その人の書いた本が孤高であればあるほど会いたい欲求が高まる。あれってどうしてなんでしょう。会って楽しいことなどひとつも期待していない、むしろ本人はあらゆる意味でひどい人かもしれないと覚悟すらして、にもかかわらず会いたいのは。

わたしの場合、会いたいという気持ちの源はシンプルにいって恋です。わたしは小池純代さんにお会いしたことがあるのですが、会ってなお恋心は冷めず、むしろますます深まり、いまでは反故の一枚まで拾い集めて読みたいほどに。

そこに書かれた言葉が、壊れてしまう肉体から生じたものであるということが、せつなく愛おしい。そのせつなさと愛おしさを噛みしめたいのでしょうか。

* * *

冬泉さんがわたしの連作「オンフルールの海の歌」の全句に脇をつけてくれました。冬泉さんの書くものって学芸全般に通じている人のかもしだす豊かな華がありますよね。画像は羊我堂さん作。すごく上品で香水のラベルみたい。お読みいただけましたらとても嬉しいです。

蓮喰ひ人ねむるや櫂のない小舟
うつらうつろにうつるうつせみ

2020-01-07

鏡の中の鏡





あそこに美味しそうな焼き鳥屋さんがあるよと言われつづけ、いつか試そうとは思っていたのだけれど、そのいつかが突然やってきた。クスクス、マッシュポテト、トマト、葉っぱ、キウイを一緒に盛って夕ごはんにする。

小池純代さんの笹鳴亭(web版千夜千首)よりクロード・ロワ『バルテュス』の翻案。

バルテュスがバルテュスを見る背後から
バルテュスを見る
死後からのやうに  
小池純代

鏡の中の鏡。妖しさと、ユーモアと、ほのかな酩酊が心地よい。この歌が気に入った方はこちらもどうぞ。

2019-09-12

抽斗堂 no.34 白いガーゼの扇




抽斗堂no34は白いガーゼの扇。いただきものです。広げるとふわふわして風のよう。机に置くと、扇よりも貝に似ています。

夏あふぎ夜半のとばりを鞣しけり  夜景

* * *

小池純代にマラルメの「マラルメ夫人の扇」を長歌&反歌のスタイルに翻案した遊戯があります。こんなの。

わたしの胸はことだまの 仮の住まひにすぎぬもの
わたしの妻はわたくしの 仮の宿りにすぎぬもの
過ぎてしまへば何もかも 仮でないものあらぬもの
  *
仮の吾妹(わぎも)のその手にゆるる仮の扇よわが心

この反歌は短歌(57577)ではなく都々逸(7775)になっているのですが、言の葉が扇のようにゆらゆらして見えて楽しい。都々逸って、ともすると最後の5音に尻切れとんぼの味が出ますよね。言い切らないうちに終わりが訪れた時は、少し切ない。

2019-07-07

遠くの海を眺めながら




まさか週刊俳句で小池純代さんの都々逸連載が読める日がくるとは。

なかぬ蛍と決めつけられて
人に聞こえぬ声で泣く
小池純代



紀野恵と小池純代はどちらも好きという人が多いけれど、これはとても不思議なこと。だって全然似ていないから。

私の中の紀野は藤原定家の末裔で「句切れ、語句の倒置・圧縮・飛躍、体言句の羅列」といった達磨歌的ダイナミズムが魅力。一方の小池は俳諧歌や狂歌の遺産を受け継いだ歌人で、内に秘められた箴言性が魅力です。近世和歌でいうなら、木下長嘯子や良寛のような異端も連想します。

世々のひとの月はながめしかたみぞと思へば思へば物ぞかなしき
木下長嘯子

あわ雪の中に顕(た)ちたる三千大千世界(みちおほち)またその中にあわ雪ぞ降る
良寛

小池さんの歌は前衛的要素も大きいけれど、そちらは指摘する人が多そうだから、あえて上の二人を引いてみた次第。

2019-04-10

空の深さをしばし忘れて





午後の樹下。まだ読んだことのない推理小説の筋を想像したり、好きな歌に唱和したりして過ごすことのよろこび。

春嵐
いさたのしまむ
乳房(ちちふさ)
ちからのごとき
風に凭れて
小池純代

つちふるや
譜割りのごとき
太刀捌き
小津夜景

2019-01-23

食の慰め





昨日の狂歌をもういちど引用。合わせたい歌を思い出しました。

味のよきちとり味噌たぶ御書院ここぞ友よぶところなりけれ
豊蔵坊信海
人生のここがいちばんいいところうきうきとして牛舌(ギウタン)に塩
小池純代

そういえば最近、SUMIYOKOIKEなるラベルを右欄に作りました。もしかすると何かの役にたつかもという気がしてきたので。

* * *

ここから全然関係のない話。西洋料理のレシピ以外で、シュークルート(ザウアークラウト)をどう使うか、についてのメモです。

1.ソフトスモークのサーモンやにしんのうす切りと和えて、なれずし風に。
2.韓国風鍋の具材(豚のリエットがあれば、なお良し)。
3.高菜の代用物として炒め物に(酸味が抜けないよう浅く炒める)。

このお正月は1から3まで全部やりました。シュークルートってバケツ買いだからだんだん飽きてくるんですよね。それで何か良い食べ方ないかなあと思ったんです。で、ものすごい発酵だし、即席なれずし風の前菜が作れるじゃん!と閃きました。シュークルートはもちろん生のまま食べます。カイエンペッパーを鋏で切って混ぜてもいい。お客さんが来たときに感動されることうけあい。ソーセージと合わせてぐつぐつ煮込んでる場合じゃないです、ほんと。

2018-11-05

枕詞使用法(2)





小池さんの歌のように、枕詞と被枕詞との接合に工夫や創造があるものを狂歌本からいくつか拾ってみます。

みよしのゝ山もり雑煮春来ぬと湯気も霞みて芋はみゆらん
玉くしけ二きれ三きれおやわんの雑煮に腹の春は来にけり

酒上不埒『狂歌猿の腰掛』『栗花集』より。酒上不埒は恋川春町の狂歌名です。それから、枕詞を新調するという手もありますよね。

かまぼこのいたく思へは夜は猶日にいくたびか身も焦がれつゝ

作者名は失念しました。時間ができたら調べてみます。あと口調が可愛いこんな狂歌。

久かたのあまのじやくではあらね共さしてよさしてよ秋の夜の月

半井卜養『卜養狂歌集』より。この人はさらりとした歌が多いです。また「ひさかたの」といえば、

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

の正岡子規も。子規って俳句より短歌の方がうまいと思うんですが、業界ではどう言われているのでしょう。〈打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に〉〈今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな〉とか、彼のベースボール短歌はみずみずしくて素敵です。最後に江田浩司『まくらことばうた』から一首。

こもりぬのそこの心に虹たちてあふれゆきたり夢の青馬  江田浩司

2018-11-02

枕詞使用法(1)





談林俳諧には枕詞の変則的技法が少なくないようですが、私が枕詞の粋を最初に理解したのは、

あかねさす翳とひかりのささめごと誰かあなたと流れゆく星   小池純代

という一首でした。「あかねさす」と「ひかり」との間をくっつけない、その一息分の隔たりに、なるほど、風韻とはこうやって醸すのだなあ、と思ったものです。

小池さんには、勤め人の日常風景を枕詞で綴った連作「鹽の人人」というのもあって、こちらは文字通り談林的な枕詞遊びになっています。

ともしびの明石櫻子ひとひらが地に着くまでの眸(まみ)のうつろひ
沖つ鳥「賀茂鶴」の壜傾(かたぶ)けてとふとふとふと鳴く口あはれ
御民(みたみ)われ生ける證(しるし)よ荒玉のタイムカードに載せる日月(じつげつ)
種種(くさぐさ)の業務繁りて疊(たた)なづく靑山通りビジネスビルぞ

2018-10-28

月に吃る





「吃り」というものを舞踏的に捉え直せば、世界との共振(レゾナンス)と見立てることができるでしょう。たとえば、下のような吃音歌は、光の当たる角度が変わると、どれも「命がけで突っ立った死体」(土方巽)のようではありませんか。

夢にのみききききききとききききとききききききと抱くとぞ見し
ー『古今和歌六帖・巻四』 歌番2174

も、も、ももを
も、もいでもらふ
も、もちろん も、問題ない
も、も、桃だもの
ー小池純代『雅族』

叱つ叱つしゅつしゅつしゆわはらむまでしゆわはろむ失語の人よしゅわひるなゆめ
ー岡井隆『神の仕事場』


人間の発音行為が全身によってなされずに、観念の喙(くちばし)によってひょいとなされるようになってからは、音楽も詩も、みなつまらぬものになっちゃった。音楽も詩も、そんなに仰山ありがたいものではない。/くしゃみとあくび、しゃっくりや嗤うことといったいどこがちがうのだろう?もし異なるとしたら、それはいくらかでも精神に関するということだけだろう。(武満徹「吃音宣言」)

2018-09-10

翻案と定型





小池純代『梅園』に翻案短歌というのがあって、

J.L.Borges「短歌」より翻案一首
さうであることもさうではないこともあはれやゆめのなかあめのなか
小池純代

みたいな感じなんです。素敵でしょう? こういう遊び、自分もしてみたいんですけど、この人の、下のような翻案をみてしまうと、おいそれとはできなくなります。

なにかしら香るところに灯をともす
その仕草こそ
学といふなれ  

モナドからモナドへうつるつかのまを
見失ふたは
蛍のしわざ

カタルシス無きまま流す涙かな
語るともなく
死するともなく

さはいへど
さはさりながら
さるにても
以上サイバネティックスな古語  

大衆の大の字が
ちと
あかんやん
連衆ぐらゐで
ええのん
ちやうか

翻案された書物は、上から順に、アンリ・ポアンカレ『科学と方法』、ライプニッツ『ライプニッツ著作集』、フレッド・イングリス『メディアの理論』、ノーバート・ウィーナー『サイバネティックス第二版』、オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(引用はすべてweb版千夜千首より)。

かぐわしき古風と、チャーミングな奇態とが、結ばれあった歌たち。オルテガの翻案には、ほんまになあ、と蒙が啓かれるような気分です。

2018-07-24

未明編集室と編集工学研究所





俳句業界に句友がいないまま2016年に刊行した『フラワーズ・カンフー』は、帰国時にご挨拶したことのある少数の方がツイート・ブログを書いてくださった程度で、ほとんど話題になりませんでした。その状況が一変したのは「俳句」2017年新年号での中原道夫・小澤實の両氏による推薦がきっかけで、新年号が出たとたん、献本先から「拝読しました!」というメールが舞い込むようになり、また田中裕明賞受賞後の数日間も有名らしい方たちから「素晴らしい句集でした!」とメールをいただき、一瞬、このまま俳壇に誘われてしまうのかと思ったりも(ありえないけど)。

一方こちらの属性を考えず連絡くださる方もいて、びっくりするほど早かったのが「未明編集室」ディレクターの外間隆史さんと「編集工学研究所」のイシス編集学校師範で歌人の小池純代さん。どちらもこの夏、鼎談をすることになり、なんだか不思議な気分です。

「未明編集室」が共催となった7月29日B&Bでのイベントは告知したばかりなので、8月4日にある「編集工学研究所」の方に少し触れますと、これ実は一年半越しの企画だったりします。講師としてお招きくださるとのメールを昨年春に頂き、それから数ヶ月後の日本帰国時に本決まりとなり、さらにその一年後が本番。イシス編集学校受講生のための講座ゆえ告知はしていませんが(終了後に感想を書くかも)、松岡正剛さんと小池純代さんと鼎談できるなんてとうきうきしています。

で、今日の本題ですが、先日「未明編集室」の外間隆史さんとイベントの打ち合わせをしたんです。その折、帆立の乗ったワイルドライスを食べながら、話の流れで彼の作品制作の方法を伺っているうちにふと、エディションやディレクションといった分野は人類学っぽい感性を必要とするのかも、と思ったんですよ。うまく説明できないのですけど、基本、独創的な分類を打ち立てる作業とでもいうか。またその点において、まるきりタイプの違う松岡正剛さんと外間さんとが繋がった気分になったりもして、ふわりと充実のひとときでした。

2018-06-30

姉にあねもね





ここ数年来、ずっと工事中だった家の前がとうとうきれいになって、今日から芝生の上を電車が走りはじめました。さっきまで市長の挨拶とブラスバンドの演奏が続いていたところ。近所の人たちはみんな開通セレモニーを見に行っているみたい。隣に住んでいる男の子もお父さんと一緒に電車を見に行っていて、周囲がとても騒がしい。

すごいなあと思うのは今日から9月2日までの2ヶ月間、この電車の運賃が無料なこと。観光シーズンまっさかりにもかかわらず。しかもこれ、空港に乗り入れている電車なんですよ。こういう太っ腹なところは南仏クオリティです(7月20日追記。空港まではまだ到達していませんでした。誤情報、許してください…)。

* * *

昨日の続き。小池純代による別の遊戯に攝津幸彦〈階段を濡らして晝が來てゐたり〉の17音を各首の頭に据えた17首連作「碌碌集」があります。以下に4首を引きます。

階段を濡らしてのちに來たるらし在不在(ありてあらざる)白日白(はくじつのしろ)  小池純代

いましがた姉にあねもねいま胸にわすれもしねえむねえもしゅねえ  (あねもねに「風の娘」、むねえもしゅねえに「記憶の女神」とルビ)

がらんどうなれば鳴るほかなきものを夏鴉來て鳴きてゐるなり

來て仰(おほ)す花眼(くわがん)の花がかく仰す 見紛ふてこそ浮かぶ句もあれ

五感が涼しくなるような作品。そして、もしも〈静かな談林〉を目指した攝津幸彦がこの短歌を見たらとても喜ぶだろうなと思うのでした。

2018-06-29

李賀の聯句とその翻案



さきほど週刊「川柳時評」のここを読んでいたらこんな一節がありました。

そういえば、「連句」という言葉は漢詩でも使われている。
鈴木漠『連句茶話』(編集工房ノア)によれば、対話形式の漢詩に「聯句(連句)」があるという。漢の武帝の時代に始まる「柏梁体」である。また、李賀にも柏梁体の漢詩が二編残されている。これは一人で詠む独吟だが、「悩公」はプレイボーイ・宋玉と遊女の対話、「昌谷詩」は李賀自身と侍童との対話である。

これで思い出したのが、発売ほやほやの拙著『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』に何度も登場した小池純代のこと。というのも、実は小池さんには「悩公」の翻案があるんですよ。

宋玉と遊女のかけあいを李賀が一人二役で演じたこの詩は>こんなにも長いのですけれど、せっかくなので小池さんの訳で好きな流れを3箇所ばかり紹介してみます。

曉奩妝秀靨  あかときの気配も化粧も濃くなつて
夜帳減香筒  夜どほし焚いた香りが残る
鈿鏡飛孤鵲  かささぎが手鏡の背をかすめてく
江図画水葓  河にもまるるわれは水草



月分蛾黛破  月の弧を分けてもらつた蛾眉なのよ
花合靨朱融  花と融けあふまで頬あかく
髪重疑盤霧  どこまでもさまよふための霧と髪
腰軽乍倚風  まよはずきみに添ふ風になる



莫鎖茱萸匣  あの文の謎を解いたはわたしだけ
休開翡翠籠  解いてはならぬかはせみの籠
弄珠驚漢燕  つばくらめさへも驚くあそびかた
焼蜜引胡蜂  焦がした蜜のにほひ 焦がるる

うーん、まいった。これ、冒頭から読むとますます楽しいんです。まだ書きたいことはありますが、長くなりそうな予感がするので、続きはまた明日に。

2018-02-08

俳諧歌の風味



藤原俊成の歌論書『和歌肝要』に「俳諧といふは狂歌なり」との一文がありますが、これは実感としてよくわかる言葉。

ところで小池純代の短歌には俳諧歌のほのかな風味があると思います。西原天気さんの「組句」に倣って、小池さんの短歌を古い俳諧歌と組んでみました。

1.
からかさのさしたる咎はなけれども人にはられて雨にうたるゝ
北条時頼
長雨をあびながら泣く雨傘(アムブレラ)惡意も愛もあまり變はらぬ
小池純代

2.
散ればこそいとゞ桜はめでたけれけれどもけれどもさうぢやけれども
鯛屋貞柳
川岸の写真館にてまなざしは遠くをとほくをもつととほくを
小池純代

貞柳の俳諧歌はつい最近見つけました。かわいいでしょ? 伊勢物語の第82段「散ればこそいとゞ桜はめでたけれうき世になにか久しかるべき」への返しになっています。貞柳については金子実英「狂歌小史」(藤井乙男監修『蜀山家集』に入っています)で次のように解説されていまして、うん、うん、とにっこりすることしきり。

彼は狂歌よりは寧ろ狂歌を詠むといふ心境を尚んだ。何ものにも拘泥しない、何ものにも執着しない、洒々落々たる自由人の心持を養ふ事が第一義だと考へた。(…)真の狂歌は縁語や掛詞や地口や擬作をはなれて、軽妙洒脱な作家の心境が、自然に流露したものでなければならん。

2017-03-22

無の手ざわり





砂浜にいると、なにもない空中に圧倒的ともいえるような物質感があってびっくりするけれど、あれは空中をつらぬく光のせいで〈無の存在〉が実感されるのだとおもうんです。

光の輝きは無をあぶりだす。そこにたしかに〈非在が在る〉ことをあらわにする。笑っちゃうくらい。泣けちゃうくらい。

そういう話をね、したいんです。

なきひとはひかりをとほしゐたりけりこのわたくしはひかりをかへす  小池純代

2016-12-03

「なう」の歌と「いろは」歌



このタイトルだと越智友亮の〈焼そばのソースが濃くて花火なう〉を思い出す人もいるかもしれないが、本日の「なう」はそっちでなく古典の方。『閑吟集』に

後影(うしろかげ)を見んとすれば 霧がなう 朝霧が

という歌謡がある。つねづねこの「なう」が良いなあと思っていたのだが、あるとき小池純代の

うつくしう 
噓をつくなう 
唄うなう 
うい奴ぢや さう
裏梅のやう

という「なう」を知った。さらに眺めると各句の頭韻と脚韻が「う」で揃っている。こういった書き方もあるのかと思い、さっそく「いろはうた・いろはうた」の沓冠折句(くつかぶりおりく)を閑吟集風にこしらえてみた(なう、の意味が変わってしまったが)。

言ひかけた論より、見なう、花々は虚(うろ)よいざうろたへな残命  小津夜景

二回目の「いろはうた」は結句側から倒立で仕込んである。どうして「いろはうた」という言葉を選んだのかというと、これを書いたとき小池純代の「いろは歌」が念頭にあったから。

あけのちきりに   明けの契りに
すむこゑも     澄む聲も
いさやおほえぬ   いさや覺えぬ
まとろみへ     微睡へ

よせゐるふねは   寄せゐる舟は
そらゆめを     空夢を
うたひつくして   唄ひつくして
わかれなん     分れなん

うたかたを寄せ集めたような美しい歌。だが言葉はいつもこうあってくれるわけでなく、ときにこの世界をはっきりと名指す。無論その、はっきり、とてもうたかたなのだけれど。

2016-11-27

じかに抱き合う



挨拶句、挨拶歌が好きだ。誰とわかる人への応答でなくてもかまわない。なんというか、さらりと消息を通わせあう気分の作品、に惹かれるのである。

単に惹かれるだけでなく、わたし自身いつも誰かと、あるいは何かと唱和しあう気持ちで俳句を詠んでいる。俳句のことをかけがえのない《贈答品》だと思っているらしい。

* * *

さいきん立て続けに知人が遊びにきたり、ボジョレー・ヌーヴォーの解禁があったりしたせいで、アルコールめいた気分で暮らしている。毎年この時期は、酒の歌が頭に浮かんでは消える。たとえば大伴旅人の連作「酒を讃めたまふ歌」なら次の歌。

酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ  大伴旅人
(酒の名に「聖」とつけたいにしえの大聖人の言葉のうまさ) 

なかなかに人とあらずは酒壷に成りにてしかも酒に染みなむ  〃
(なまじっか人でいるより酒壺になりたい酒に溺れていたい)

それから小池純代。この人には相当な数にのぼる酔歌があるけれど、

一杯のソルティドッグを嘗めたれば鹽(しほ)のからさと犬のかなしさ  小池純代

これなんか、どことなく俳句の香りが。まぎれもなく短歌なのに。

ほろ酔ひの
ほがらほがらと
頰(ほ)にのぼる
ほのさびしさぞ
ホワイトホオス   小池純代

連作「ありたれいしょん歌留多」より「ほ」の歌。言葉えらびに力みがなく、酒に似つかわしい俗謡の精神が心地よい。もっとも俗謡の精神も巧みな技も脱ぎ捨てて、この世界とじかに抱き合ったような次の歌が、わたしにとっての一番かもしれない。

よろこびのかくあふれたり卓上にこぼるる酒を惜しと思ふな  小池純代

2016-11-14

野遊び、きゅんと。



(しおたまこ「ひとり文化祭」より)

11月13日のブログで小池純代の「ありたれいしょん歌留多」を折句と書いたのですが、あのあと「この作品、折句という呼び方で良かったのかな?」と不安になりました。頭韻を揃えているだけだから。こういうシンプルな疑問をぶつける相手がいないのは不便です。

しょうがない。過去はきれいさっぱり忘れることにして、折句の話をつづけますと、小池純代に「野遊び --- the Japanese syllabary steps」というの別の連作がありまして、その冒頭が

あひみてのいまはうたかた泡沫(うたかた)のエスプレッソに面(おも)伏すパティオ   小池純代

という歌(泡は旧字体)なのですが、いかがでしょう、カフェでうつろなひとときを過ごす男女のこの描きっぷり。つかのまの逢瀬、うたかたのリフレイン、泡立つエスプレッソの修辞、面伏すのが人でなくパティオであるがゆえの、感傷の抑えられたアンニュイ感。死にそうなほどきゅんときます。一読で痺れてしまった自分は真似したい気持ちを抑えきれず、さっそく

さるびあに痺れる指(および)すべからく世界は意味にそびえたつべし

という折句を書きました。しかしこれだと前後の意味関係がいかにもとってつけたよう。および、という読みも青臭い。で、どうにかしたいなあと思いつつ長いこと放置していたんです。それがある時、俳句にしたらいいかもとひらめいて、

さるびあに痺れし指を陽に吸はす
すべからく世界よ蟻にそびゆべし

こんな風につくりかえてみました。が。短歌の時よりはましになったものの、やはり魅力不足。まだまだ直したいですが、これ、手元に置いたままだと思案の袋小路に入ってしまいそうなので、いったん執着を断つためにブログに出してまうことにします。

2016-11-12

しおたまワールドから冬の折句へ





しおたまこさんの個展「ひとり文化祭」が表参道のギャラリーニイクではじまりました。しおたまさんのツイッターに展示作品が何点かアップされています。とてもかわいいです。『フラワーズ・カンフー』も扱っています。お近くにお住まいの方はどうぞこぞってご来訪ください。

* * *

折句は、きばらずに軽くまとめたものががいい。こんな感じの。

冬に読む文(ふみ)のぬくみの
ふふふふ

ふくみわらへり
ふくらみながら   小池純代

連作「ありたれいしょん歌留多」より。ありたれいしょんは頭韻のこと。この連作でいちばん有名な歌は「も」の

も、も、ももを
も、もいでもらふ
も、もちろん、も、問題ない
も、も、桃、だもの   小池純代

だと思いますが、ほくほくした部屋の雰囲気とふみふみした音のうごきが愉しい「ふ」の方がわたしは好き。だからなんということもない、それだけの話なんですけど。けど、おとといの俳句と短歌が少しせつなかったので、楽しい手紙の話もしておこうと思って。

2016-11-11

『フラカン』解体、そして恋心



先日ある人が、あなたの『フラワーズ・カンフー』に入っているこの句が好きですと言って口ずさんでくれたのだが、どういうわけかそれが俳句ではなくて短歌だった。俳句と短歌の区別がつかなかった、という話ではない。そうではなく、その人はわたしの短歌の、きっかり上の句だけを口ずさんだのだった。

こういうのは初めての体験である。それで、し、しものくは?とおそるおそる尋ねると、これ、下の句は要らないんじゃないっすかね。だいじょうぶですよ、なくて。じゅうぶんガソリン入ってます、とのご意見。わたしは、そうか、そうなんだ、そうかもねーと笑いながら、その人がじぶんの好き勝手に『フラカン』を解体して読んでくれていることがうれしくて、心のなかでひゃっほーと踊る。

* * *

くりかへしくりかへし聽くいちまいの音盤(ディスク)のごとき戀心かな  小池純代

連作「11月のヴァリエテ」より。レコードの素敵なところはくるくる回っているのが目に見えるところ。恋をしたら、くるくるまわりたい。アホっぽく。レコードはたまに、ちゅん、と音がとんでしまうところもかわいい。掲歌は「くりかへしくりかへし」の部分に、始まりを花咲くようにリピートしたい気分と、音のたわむれを終わらせたくない気分とが強く出ていて、こういう恋心って、うーんすごくわかるよ。