コロナ対策で午後6時以降外出禁止になる。がんがん取り締まるのでそのつもりで、との通達があった。午後6時……早すぎてぜんぜん実感がわかない。
2020年は『たこぶね』制作のために原稿の依頼をずいぶん断った。コロナのせいで私生活も籠りがちだった。今年いちばん楽しかったのは毎日海で泳いだこと(籠りがちでも海は別)。ブログの中から印象に残っている出来事をえらぶなら、こんな感じ。
1月 四川省ランタンまつり(春節、その光の渦)
2月 ヴェネチア旅行(初めにしずくがあった)
3月-5月 都市封鎖初体験(ぽわぽわした土曜日)
6月 封鎖明けの遠足(朝のピクニック)
7月-8月 毎日海で泳ぐ(海が記憶する時間)
8月 ノルマンディー旅行(夏の終わりのオンフルール)
9月-10月 クラウドファンディング初体験(草の指輪を差し出され)
11月 『漢詩の手帳 いつかたこぶねになる日』刊行(詳細)
12月 オンラインイベント初体験(漢詩の型を旅する夜)
2020-12-30
2020年をふりかえる
2020-12-29
『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』
この人、何者?●新井白石「蕎麥麺」●植木玉厓「詠柳」●王国維「書古書中故紙」●韓愈「盆池・其五」●木下梅庵「竹村最中月」「鈴木兵庫菊一煎餅」●桑原広田麻呂「冷然院各賦一物得水中影応製」●幸徳秋水「獄中書感」●島田忠臣「見蜘蛛作糸」「照鏡」●徐志摩「再別康橋」●菅原道真「重陽日府衙小飲」「寒早十首・其二」「寒早十首・其十」●蘇軾「春夜」「病中遊祖塔院」●杜甫「槐葉冷淘」●夏目漱石「帰途口号・其一」「無題」「菜花黄」●成島柳北「塞昆」「地中海」●白居易「夢微之」「観幻」「和春深二十首・其十二」●原采蘋「乙酉正月廿三日発郷」「初夏幽荘」●藤原忠通「賦覆盆子」「重賦画障詩」●源順「詠白」●楊静亭「都門雑詠」●陸游「書適」「初夏行平水道中」●李賀「苦昼短」●李商隠「無題四首・其二」●李清照「好事近」●良寛「我生何処来」「孰謂我詩詩」●無名氏「子夜四時歌三十首・秋歌」
極上のエッセーで、文体が弾み、とんでもなく博識で、どうやらフランス暮らし。俳句を作る人らしい。一回ごとに漢詩の引用があるが、その漢詩はいつも角を曲がったところに立っている。しなやかな和訳と読解が続く。
世の中は驚きに満ちている、と改めて思った。
池澤夏樹(帯文より)
→ amazonで購入する
その堅苦しく黴臭いイメージをさっと片手でぬぐって、業界のしきたりを気にせず、専門知識にもこだわらない、わたし流のつきあい方を一冊にまとめたのがこの本です。本書「はじめに」より
→ noteで試し読みする
【平井の本棚読書会】はじめて漢詩を読む方を対象に漢詩の探し方、訳し方、面白さなどについて語った動画です。『いつかたこぶねになる日』制作秘話の一面も。
『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』
著者:小津夜景
帯文:池澤夏樹 装幀:calmar 装画:姫野はやみ
予価:1980円(税込み) 本文ページ数:272 サイズ:B6判
発行所:素粒社 2020年11月10日刊行
2020-12-28
音と身体
チューニングって、楽器同士の音色を合わせるだけでなく、音の鳴る環境と人間の身体をなじませる儀式でもあるように思います。つまり人間が音を制御するための準備にとどまらず、人間そのものを自然のフィールドとして捉え直し、環境と一体化させる、という。
でね、プロの演奏家は音と身体が一瞬でなじむのでしょうけれど素人はそうじゃない。それでクラシックの演奏会に行くと、うそ、いきなり本番? まだ身体が受け入れ態勢になってないよ!ってことがある。身体が準備できていないというのは、つまり心も準備できていないということ。
そんなわけで、本番前に軽いサウンドマッサージのついたクラシックの演奏会があるといいなと思うんです。レストランでも胃を起こすために、メインの前にほんのひとくち食べるでしょう? あんなふうに、雅楽の音取(ねとり)っぽく音出ししてから本番に入ってほしいの。これ、自分の家に演奏家を招いて弾いてもらうというのが、きっといちばんいいんでしょうね。
2020-12-26
2020-12-23
釣り人とリフレイン
釣り人を眺めながら、木下長嘯子『挙白集』を読む。
せめてわがぬる夜な夜なは逢ふとみえよ夢にやどかる君ならば君
すべて人をいかなる時にしのばざらんあはれ日又日あはれ夜また夜
世々のひとの月はながめしかたみぞと思へば思へば物ぞかなしき
リフレインがうまい。さいごのうたにはこんな派生歌も。
おもふまじ思ふかひなき思ひぞとおもへばおもへばいとど恋しき/近衛尋子
もろともに見しその人の形見ぞと思へば思へば月もなつかし/徳川光圀
近衛尋子(徳川光圀の正室)はいかにも才媛な雰囲気。20歳で死んでしまったけど。三体詩を暗記してたそうで漢詩も2首残っているらしい。
2020-12-21
2020-12-17
都々逸の贈答
師走の野暮用がつづく。きのうはお歳暮をさがしに街中へ。ついでに自分用のマロングラッセを購入する。箱をペンケースにできそう。
それはそうと、お歳暮で思い出したのだけれど、誰かと詩歌をやりとりする場合、自分で詠むのもいいけれど、他人の作の引用ですませる粋もあると思う。今日届いたメールで、さらっと雑俳の話をしたさいごに、こんな詠み人知らずの都々逸をしたためてくれた友達がいた。
遠くはなれて逢いたいときは月が鏡になればよい
控えめに言って最高である。李氏朝鮮の使者なのである(@久木田真紀)。しかしながら問題はどのような返歌をつけたらよいかだ。このメールをくれたのは友達だから何を書いてもいいのだけれど、ちょっと距離のある人だと、いろいろとむずかしい。で、こういったとき他人の作を借用するのはいい方法だと思う。わたしが合わせてみたいのは読み人知らずのこちら。
月に誘われデッキに立った沖のクラゲに手をふって
100年ほど前の『北米新聞』で見つけた都々逸。可愛いと思ってメモしておいたのが役に立った。けっこういい感じの組詩になったと思いませんか。これが千年まえの恋愛なら、思いが成就したかもしれない、みたいな。
2020-12-15
上海の赤
しばらく雑用をこなしているあいだに1週間が経っていた。さすが師走だ。
今日はロックダウン解除初日ということで、まっさきに髪を切りに行った。すっきりして気分がいい。帰ってきてメールをひらくと、イベントの感想が新たに数件届いていた。今回はメインの翻訳スライドのほか、漢詩の本の探し方に興味のもった方が多かったようで、これは私としては思いがけないことだった。
『オルガン』23号で素粒社設立にちなんだ記念連句を読む。好きだったのは下の流れ。上海の赤、がいいなあ。
テープ起こしの声のさゝめく 智哉
空気より冷たい鳥の樹を祝ふ 健一
水銀燈がすごい元気だ 抜け芝
上海の赤をほどなく食べるひと 佳世乃
時間旅行で恋人が死ぬ 若之
2020-12-09
2020-12-07
2020-12-06
唐紅のスパイシートーン
オンラインイベント「知られざる香道具の魅力」の講師であるmadokaさんから特製の文香しおり「唐紅」が届く。
袋をあけるとスパイシーな香り。芳烈だけどしっとりしていて目や鼻がちくちくしない。香道初体験なので、これだけですでに新鮮な発見だ。表には業平の和歌(ちはやぶる)に因む絵、裏には源氏物語「紅葉賀」の帖を示す源氏香の図が記されていた。とても嬉しい贈り物で、どの本にはさむか考えた末、エキゾチックなところが合いそうなモーツアルト「魔笛」のしおりにすることに。
あときのうは平井の本棚さんのイベント「第4回 本の作り手と読む読書会」に出演した。ご来場のみなさまありがとうございました。自分のパートは「訳し方の基本」として3作、「詩の冒頭から型を読む」として3作、そして朗読用に3作と全部で9作に言及したのだけれど、時間の関係で使用しなかったスライドがいっぱい残った。ちなみに残ったのは夏目漱石「菜の花の黄」、原采蘋「初夏の幽荘」、徐志摩「天真的預言」、白居易「げんしんのゆめ」でした。
2020-12-04
2020-12-01
「作者」あるいは「作品」とは何か
「読む」ことをめぐるタームの、今日的使用に関する違和感として、「つながる」という言い回しが幸福詐欺の様相を呈するほど安売りされているといった状況がある。曰く「作者と読者とがつながる」、「作品と読者とがつながる」、「作品を通じて〇〇とつながる」、うんぬん。こうした言い回しにはいったいどんな効用があるのだろう?
そもそも「つながる」ことはそんなに手軽なのだろうか。読み手と書き手の共通基盤を「つながる」という発想以外のやり方で築く者はいないのだろうか。これはいちゃもんではない。私自身がものを読んでいて何かとつながったと思うことがないため、純粋に不思議なのだ。
「読む」ときにまずもってわたしが実感すること、それは果てしなさである。追いかけても追いかけても作者に、あるいは作品に手が届かない、といった無常の感覚である。私にとって作者ならびに作品とは、決して抱き合うことのない、いつもこちらに背中を向けている存在のことだ。
なにかの一節が頭をよぎるたび、「ああ。これを書いた人はもういないんだ!」と驚愕する日々。「過去の作者や作品も、さらに昔を生きた作者や作品を追いかけていたんじゃないかしら?」と想像する日々。いまは、それらの背中をわたしが追いかける番らしい。過去へ向かってわたしは駆け出す。するとわたしはまた一歩未来へ近づく。わたしたちがいつか巡り会うだろう場所、その共通基盤は死だ。
ときおり、わたしの追いかけているものが遥か彼方ではなく、肌を撫でるほどそばに感じられる瞬間がある。掲句は、蛍として完結することも聖化することもなく、死んでなお秋風となってさまよう魂が、わたしには「作者」や「作品」の化身のように思われた。もっとも肌を撫でるほど近くにあっても、風は人と「つながる」ことはなく、目の前を一瞬で吹き抜けてしまうのだけれど。
引用は横井也有『鶉衣』より。
そもそも「つながる」ことはそんなに手軽なのだろうか。読み手と書き手の共通基盤を「つながる」という発想以外のやり方で築く者はいないのだろうか。これはいちゃもんではない。私自身がものを読んでいて何かとつながったと思うことがないため、純粋に不思議なのだ。
「読む」ときにまずもってわたしが実感すること、それは果てしなさである。追いかけても追いかけても作者に、あるいは作品に手が届かない、といった無常の感覚である。私にとって作者ならびに作品とは、決して抱き合うことのない、いつもこちらに背中を向けている存在のことだ。
なにかの一節が頭をよぎるたび、「ああ。これを書いた人はもういないんだ!」と驚愕する日々。「過去の作者や作品も、さらに昔を生きた作者や作品を追いかけていたんじゃないかしら?」と想像する日々。いまは、それらの背中をわたしが追いかける番らしい。過去へ向かってわたしは駆け出す。するとわたしはまた一歩未来へ近づく。わたしたちがいつか巡り会うだろう場所、その共通基盤は死だ。
たが魂ぞほたるともならで秋の風 横井也有
ときおり、わたしの追いかけているものが遥か彼方ではなく、肌を撫でるほどそばに感じられる瞬間がある。掲句は、蛍として完結することも聖化することもなく、死んでなお秋風となってさまよう魂が、わたしには「作者」や「作品」の化身のように思われた。もっとも肌を撫でるほど近くにあっても、風は人と「つながる」ことはなく、目の前を一瞬で吹き抜けてしまうのだけれど。
引用は横井也有『鶉衣』より。
(ハイクノミカタ)
登録:
投稿 (Atom)