2022-05-30

海とパイナップル





昨日の巨大な浮き輪。使いこなせるか不安でしたが、泳いでみたらなんとかなったので、今年はこれ一個でいこうと思います。

句の整理をはじめる。今週中に4まで作業を進めたいところ。

1. 全句をwordにまとめて印刷する。
2. 印刷した紙を短冊状に切る。
3. 短冊を春夏秋冬無季に分類。
4. それぞれの分類ごとに連作を編んでみる。

2022-05-28

パイナップルの浮き輪





近所の雑貨屋さんに行って、パイナップルの浮き輪を買ってきたのですが、膨らましてみたら巨大すぎました。困った。置く場所がない。箱はこんなに小さかったのに。

2022-05-26

文学フリマ東京のお知らせ





今日はキリスト昇天の祝日。明日は金曜なので、休みをとれば4連休だ。それでみんなどこかへ行ってしまい、街は閑散としている。家人の職場も学長の裁量で明日は一斉休講となった。

5/29(日)開催の第三十四回文学フリマ東京に素粒社がブース【ソ-37】を出します。既刊本販売のほか、高遠弘美編・解説『欧米の隅々 市河晴子紀行文集(仮)』の刊行予告フリーペーパー8頁を配布するそうです。このフリーペーパーでは1933年刊行の『欧米の隅々』より「ピラミッドに登る」を読むことができます。晴子はちょっとありえないくらい素晴らしい文章家。文フリにお出かけになる方は、ぜひ素粒社のブースにお立ち寄りくださいませ。

2022-05-25

なんという薔薇





現在発売中の『俳句界』6月号に散文「そのときは世界が」を寄稿しました。海外詠について自作を引用しつつ述べよ、との依頼です。お手に取る機会がありましたらお読みいただけますと幸いです。

朝から句集のzoom打ち合わせ。担当者と会うのは初めてでしたが、素敵な方で思わず緊張してしまいました。なんとせっかく準備した目次を伝え損ねてしまうくらいに。さらには打ち合わせしながら「あれ、句集ってどういうふうにつくるんだっけ?」とわからなくなってしまった。ははは。緊張しすぎですよね。とはいえ、わからなくなって良かったような気もします。だってまっさらな状態で句集をつくることができるのですから。

佐藤りえさんから生存確認系個人誌『九重』が届く。今回のゲストは岡田幸生さんと近恵さん。

春の日の遠くでトロンボーン  岡田幸生
明るさを要求されている浅蜊  近恵
たんこぶがこたんのいろをみせてゐる  佐藤りえ
糸杉のねじれはじめの十四月翳りでさえも春はうれしい  〃

岡田幸生さんといえば、私、あの「なんという薔薇日記」のファンだったんですよねえ。内容もさることながら日記のタイトルがすごく好きで。哀愁と愛嬌があって、なおかつ洒落ている。ちなみに、わたしがこれまで出した本のタイトルはどれも、本棚のガラス戸に「なんという薔薇日記」と大きく書いた紙を護符みたいに貼って、じっと眺めつつ、これと同じくらいかっこいいタイトルはないかしらと思案した結果生まれたものです。もうね、それくらい頼りにしてる。

くれなずむ東海道の平塚の痴呆の部屋のなんという薔薇  岡田幸生

2022-05-23

遊歩者の夢とリスボンの馬車





『小説すばる』にて連載中の空耳放浪記。現在発売中の6月号は「遊歩者の夢」と題してパリ的なる俳句を紹介しています。お近くに本屋ないし図書館のある方は、ちょっとだけお手にとっていただけると幸いです。あ、どうもありがとうございます(先にお礼を言っておく礼儀正しさ)。

あと10日あまりでパリに行かねばならない。怖いよう。この世には人の名前を忘れるとか、数字を憶えられないとかいった、さまざまな類型的弱点が存在しますが、わたしは降りるべき駅で降りられない系の人なのです。次で降りないと、とわかっていても一瞬意識が飛んじゃう。寝てしまうんですよね。どうしても。

そうそう、新しい句集ですが、まだタイトルも決まっていない状態です。ひとりでだまって作業するのも寂しいから、ここに進行状況を書きながら進めようと思っています。

写真はリスボンの国立馬車博物館を出たところ。趣きある光景でした。

2022-05-20

風強き日の老船とバナナの木





木曜日。句集刊行までのめどが立ち、浮かれた気分で美容室に髪を切りに行くと、マスク義務化が解除されたにもかからわず、美容室の店員は揃いも揃って黒いマスク姿だった。暑いだろうなあ。すでに地元民は老いも若きも夏の格好なのに。

帰宅後、自宅のバルコニーで原稿を書く。バルコニーの下では近所の高校に通う放課後のリセエンヌたちが、ミニスカートのまま広場の階段に座り込んで大声ではしゃいでいる。日差しが怖くないのかしら。ん。怖いわけないか。

風強き日の老船とバナナの木 小津夜景

2022-05-18

たこ八郎観音 空も海も夏




須藤岳史さんがブログを始められたとのこと。過去に巻いた歌仙なども整理されていて、いつどこでなにを巻いたのか覚えていない身としては大いに助かる。どのくらいの頻度で更新するのかしら。とりあえず待ってみよう。

昨夜、突如として大量の句が生まれるゾーンに突入し、わたしは西鶴の生まれ変わりだったのかと思ってみたくなるくらい、まあ、そこそこ句が浮かぶ状態である。で、こういうときにちょっと困るのが類想句で、たとえば今朝は〈夕映えが白い魔球を連れてくる〉という句を思いついたのだが、これって西原天気さんの〈ゆふぐれが見知らぬ蟹を連れてくる〉と似てますよねえ。ま、西原さんは「いえ、だいじょうぶです」と仰るにちがいないんだけど。ちなみに西原さんの夏の句ではこれが好き。大変な傑作だと思う。

たこ八郎観音 空も海も夏 西原天気

2022-05-16

岸惠子の写真




今年に入ってからアルジェリアの独立運動について調べているのですが、その資料となる昔の新聞を読もうとしたら紙面中央が岸惠子の写真に占拠されていました。岸惠子がパリの空港に到着したことを報せるだけの写真記事。これほどのスターだったとは。

2022-05-13

はじめての詩歌と季刊アンソロジスト




6/19(日)まで梅田蔦屋書店にて7周年フェア「はじめての詩歌 vol.3」が開催されています。俳人の津川絵理子さんの「とっておきの一冊」として『いつかたこぶねになる日』も並びました。「はじめての詩歌リーフレット」無料配付中。お近くの方はぜひ。

季刊アンソロジストが届いたので芥川龍之介の短篇ベスト10を読む。わたしの好きな芥川作品は「河童」と「歯車」なのだけれど、「河童」を挙げていた人はいなかった。「歯車」は吉村萬壱さんが選んでいた。このエッセイ、吉村さんがとんでもなく生きづらそうな日々を送っているようすが面白い。「歯車」を読むと「狂気の熱は冷やされ、限りなく死に近い平安が訪れる」という感じ、すごくわかるなあ。苦悩の向こう側に抜けられるんですよね。とはいえそこは廃人の一丁目一番地。そして四方一面は番外地の曠野なのであります。

理屈抜きの現実体験として、芥川の小説とウクライナが織り成す悲惨さに殆ど狂わんばかりに沸騰していた私の脳は、小説「歯車」によって初めてスッと鎮められたのである。こういうことか、と私は思った。被害妄想と希死念慮に満ちたこの異様な小説の持つ「光のない闇」によってのみ、狂気の熱は冷やされ、限りなく死に近い平安が訪れるらしかった。(吉村萬壱「ウクライナ情勢と芥川龍之介」)

2022-05-11

動画公開見送りのお知らせ




最近、某所の寄合で「BBCのドラマ『プリズナー』って観たことないんですけど、画像がどれもかっこよくて気になっているんです」と話したら、ある俳人が「あれ、主演のパトリック・マクグーハンが脚本、監督もやってるんですよ」と教えてくれて、いま衝撃の沼をさまよっている。パトリック(とファーストネームで呼んでしまおう)といえば刑事コロンボ。彼が犯人と監督を兼任した「完全犯罪の誤算」がとても私は好きなのだ。

ニコ動に「完全犯罪の誤算」があったので軽く見直した。こんなにもいい役者だったんだなあ。高校生のころはピーター・フォークに夢中だったけど、いまとなってはピーターよりパトリックの方が断然味わい深い。

話は変わって、スケザネ図書館で公開予定だった「連句についての番外編」ですが、今回は公開見送りとなりました。理由は私がそうお願いしたから。実は連句を語る折、思わず『なしのたわむれ』の内容を自解してしまったのです。でも作者と作品は別のものですし、テキストは書かれたことがすべてですよね。だから「これはちょっとなしです」とスケザネさんに申し上げた次第。須藤さんの語りを楽しみにしていらした方々、本当にすみません。またの機会をお待ちください。

2022-05-08

寓意的な、あまりに寓意的な。




昼間は軽い雨。夕方から晴れ。夜8時ごろ海へ出ると、かくのごとく(写真を拡大してください)女性がぐっすりと眠り込んでいた。寝ているなあと思いつつ浜辺を見回すと、寝落ちした人影があちこちに散らばっている。寓意的な、あまりに寓意的な景色。なぜかBBCのSFドラマ『プリズナー』を思い出す。

それはそうと、今日から縦書きで原稿を書いている(いままでは横書きだった)。縦書きだと文字を草書にできるので手が楽だし、素早くリズミカルに書ける。リズムに乗ると、少女のころに浴びるように読んで体の根っことなった文体がぴょこんぴょこんと顔を出すのも面白い。で、しみじみ思った。ああ、結局わたしって筒井康隆からできてるんだよなって(知ってたけど)。

先日巻いた堀田季何さんの受賞記念連句を、羊我堂さんが画像にしてくださった。いつもありがとうございます。

2022-05-02

異文化への開眼





今日はトラムの中で本を読んでいて、目的の駅で降り損ねてしまった。気がつけばそこは終点の港。あわてて引き返して家にたどりつき、ほっと一息ついていたら、パリに行く用事があったことをふと思い出したので、飛行機のチケットをとった。で、いまからどきどきしてる。パリの空港から市内まで行けるかどうか不安で。ぼんやりしてすぐ乗り過ごしてしまう。

前回の日記で紹介した『酔拳』の冒頭2分から3分のシーンを観てくださった方が多く、黄正利も御年77歳なんですねえなどといった感慨に浸る手紙から、題字がかっこよすぎてスクショしちゃったという嬉しい手紙まで様々な感想をいただいている。ちなみに日本版の冒頭はこちら。ジャッキー・ファンには垂涎ものの編集である。でもわたしはオリジナル版が好き。なぜなら自分にとって『酔拳』の衝撃とは中国文化が圧倒的な異文化であることへの開眼と同義であり、そのことを教えてくれたのがあの題字と音楽だったからだ。

それはそうと、近々スケザネ図書館で『なしのたわむれ』番外編動画が出るらしいです(わたしもまだ見ていない)。また別の番外編として「音楽の価値とは何か」について語った須藤岳史さんのエッセイがこちらで読めます。