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2024-03-08

強い夢、あるいは何かに向かおうとする心






嵐の去った海には石や木が散らかっている。岩の上で釣りをする家族、椅子に座ってお茶する女たち、家づくりをする少年たち、皆それぞれに遊ぶ。


誰かが積んだ石の塔。


別の場所にも家をつくる少年がいた。


原始と抽象とのあわいに心が立ち現れる。強い夢に似た、何かに向かおうとする心が。

2024-02-12

海辺の思考





きっとうろうろしてるにちがいないと。うろうろしながら書いているのでしょうと。わたしの文章には、そんなうろうろした印象があるらしい。
「うろうろしてますね」
と言われた。きのうも。
「うろうろしてますか?」
ときかれても、うまくこたえられない。
「うろうろってなんだろう……」
そうおもいながら、いま、海をみている。

2021-09-24

夕暮れの海





せっかく旅行に来たので、夕暮れの海を見に行く。空も海も浜もなにもかもが広大だった。


2021-09-16

港の風景





港のトラム乗り場。綺麗なクルーザーが所狭しと泊まっている。けれどわたしは漁船の方が好き。イカ釣り漁船とか超かっこいいですよね。大漁旗も興奮します。

2021-08-21

わたしの恋の相手





今朝、太平洋のまんなかに住む友達から『いつかたこぶねになる日』の写った写真が届く。うれしい。彼女も6月に溺れかけたそうで、現在は心の傷と向き合いつつ、ほそぼそと海で泳いでいるとのことだった。

夕方の海は監視船がいっぱいで、いちばん近づいたときは4メートル幅くらいで左右から挟まれた。わたしは腰にプールヌードルを巻いていた。まだ足の届かないところは怖いけれど、水に浮くということの、ほとんど笑いに酷似した面白さが勝っているようで、やはりわたしは海に恋したままだった。あまりに好きすぎて、これが片思いであると思うと胸が苦しくて涙が滲むくらい。と書いて『夫木和歌抄』の

わが恋は海の月をぞ待ちわたる海月の骨に逢ふ世ありやと  源仲正

を思い出す。無脊椎動物である海月が骨と一つになる世界が存在しないように、自分は逢うことのできない、海に映る月さながらのあなたを待ち続けているという歌だ。

わたしにとっては海こそが恋の相手であり、この思いはしかし届かず、わたしは永遠にひとりだーーかつてない幸福を享受しながら。

2021-08-19

ジャワティーを編む世紀末帖





なにかのあるなしにかかわらず、心身のコンディションって波がありますよね。わたしは7月中旬から次第に崩れはじめ、寝たり起きたりの状態になり、10日は海の中でチンクイに刺され、15日はハイクノミカタの連載を休み、きのう18日はついに(といっていいのか)溺れてしまった。救助がなかったら死んでた。

夜になってもまだ動悸や不安感がおさまらず、そんな自分の状態を冷静に眺める自分もいて、ああ、溺れるってこんなに精神に影響を及ぼすんだと思いつつ眠りについたのだけど、自分の想像をはるかに超えて抵抗力が落ちていたようで、朝起きたら綺麗に治ったはずのチンクイの跡が刺された日以上に腫れていて、そのぶり返し方に度肝を抜かれた。からだの中に毒が残っていたみたい。いまはミミズ腫れが30箇所ほどある状態です。

今日は夫が仕事帰りにプールヌードルを買ってきてくれるというので、それを持って夕方から海へ。今日行かなかったら一生泳げなくなりそうなので行く。膝くらいの深さのところに座って、ぱちゃぱちゃリハビリするつもり。

ああ、書いてたらまた心臓がどきどきしてきた。この日記を書く前に明日締め切りの原稿を仕上げてよかった。これからまた夕方まで横になります。そうだ、澤8月号(創刊21周年記念号)に寄稿しているのでした。あとなんかあったかな…ちょっと思い出せない。

付句メモ(無季)
七つの海をつなぐ履歴書
ジャワティーを編む世紀末帖
泡の吐息をくぐる航海

2021-07-19

砂が乾くことの不思議





本格的に海水浴がはじまって一ヶ月。きのうはレジャーシートをひろげるためにあたりを見回したら、みんなすっかり日焼けして、なまっちろい人が誰もいないことに気づく。もちろんわたしもすっかり焼けている。というかもう10年近く、焼けていない自分を見たことがない。

わたしにとって海というのはシンプルにうきうきする空間で、波に向かって駆け出す瞬間は、かちゃっと(←カセットデッキのボタンの音です)ビーチ・ボーイズが脳内でかかる。あのアホっぽさがいいのだ。

が、ふいに風の音にかき消されるくらいのかぼそさで、潮の香りのジャズが聴こえてきたりすると、それはそれで「あ」と心にひっかかる。

そういえばさいきん、誰もいない朝の広場でタルト・トロペジェンヌを食べていたとき、いきなりフランク・シナトラのFly Me to the Moonが流れてきたことがあった。どこからだろうとあたりを見回すと、広場に面したCDショップからだった。高齢のヴァカンシエを狙った選曲だったのかしら。シナトラって、全く聴かない人からするとハリー・ウィンストンでゆくクラブのイメージなんじゃないかと思うのだけど、あんがい朝と相性の良い声をしている。

波が引くと濡れた砂浜があらわれ、またたくまに乾く。そのことのふしぎ。


2021-07-14

たとへば蒼き原始派の雪





きのうはことしいちばんの高波で、波乗りしているとぐんぐん風に流されてしまい、気がついたら荷物を置いていたところからすごく離れてしまったので、いったん海から上がり、歩いて荷物のあるところまで戻った。そしてもういっかい海に入ろうとしたらもう無理で(疲れてしまったらしい)なんども波にのまれた。水中眼鏡もとれるし大変だった。帰宅して、水着のままベランダに出て道具を干し、しばらく風に吹かれてすごす。

今朝は祝日だけど朝から労働。近所の人たちは海に出ている。手の空いたすきにルイ・ヴィトンで今年のビキニを調べる(買わないのに)。ゲームオンクラシックの上下、カッティングが綺麗で柄も可愛い。納涼目的で冬の短句を走り書きする。

たとへば蒼き原始派の雪
冬のホルンは雑踏に消え
冬陽浴びたる医師の居眠り
凍てつく影も写らぬほどに

2021-07-11

犬の散歩





海水浴の季節になると、海岸での犬の散歩エリアが限定されます。近所のエリアは長さ320メートルで、無料の犬用シャワーとエチケット袋のディスペンサーが設置されています。

昨日21時に海に出たらまだ泳いでいる犬がいました。
この犬はステファン・ボロンガロという人の作品らしい。
緑のエリアが犬用。

2021-07-07

フィナーレは空ととけあう海だつた





ブログに海のことばかり書いていたら、知人から「そんな毎日泳ぐってすごくないですか?」というメールが来た。むべなるかなと思う。かくいう私も自分がこうなるまでは近所の人たちを見て、どうしてそんな余裕があるのだろうって思ってたクチだ。それがいまでは「仕事帰りに銭湯に寄る感覚だったんだね」と悟った。我が家は午後6時から約30分間泳ぐ。この時間に泳ぐと夜の暑さがこたえないし、肩や背中もほぐれて体調にいい。ここ一週間は波が静かで、水が透き通り、魚の群れが見える。魚たちはわたしのことを生き物だってわかってるみたい。

冬泉さんの捌きで進めてきたD連句は四ヶ月かけて四巡し、とうとう四季がつながった。とても嬉しい。D連句というのは須藤岳史さんの「並行世界連句」なる着想を、冬泉さんがシューティングゲーム「DARIUS」の面分岐にアイデアを借り、そこにダイヤ型の巻き姿を重ねて命名した、挙句が五七五の長句になる無限ループ歌仙のこと。挙句を次の巻の発句にしてつなげてゆく。

白猿の巻

発句〈白猿(ハヌマン)の半跏思惟せる木陰かな/夜景〉を左右からしっかりと支えるように〈島に便りを遣る夏霞/冬泉〉と〈やよ雲海のなぎさ発つ鳥/羊我堂〉と脇がつく。雄大な展開を予感させる素敵なオープニングだ。両脇に海の香りがするところも心が浮き立つ。D連句では長句と短句とが交互に横一列にならぶので、通時的なだけでなく共時的な楽しみも味わえる。

あらましの巻

発句〈あらましは韓江(한강)に吹く白き風/綉綉〉 と脇〈秋のさすらふ若き原人/季何〉〈忘れ扇にきざす漣/冬泉〉のバランスがくらくらするほどかっこいい。16から21の短句がずらりと平淡な味に整ったのも面白かった。
16起こりえぬとは起こりうること/綉綉
17湖底に見ゆる星の交響/拾晶
18はかりがたきは夜の短さ/羊我堂
19山椒魚ら南をめざす/冬泉
20遊べ遊べと囁きながら/岳史
21形代の紙かすかに黄ばみ/胃齋
画像を見るとわかるように、17から20は前句が2句あるので難易度が上がる。当然打越も多くなり、それらを逐一チェックする捌きは大変だ。

少年の巻

これは自分の付句の調子が良かった回。全体で一番好きな付句は22〈南風渡るメイプルソープのTシャツに/胃齋〉。前句は16〈SF(サマーキャンプのフレンドシップ)/羊我堂〉と17〈狂つた泉の小さな世界/岳史〉で、ついつい衒学的遊戯を深めたくなる流れなのだけれど、その予想を裏切り、風通しのよい方向へ舵を切っている。

藍ねずの巻

挙句〈白猿(ハヌマン)の半跏思惟せる木陰かな/夜景〉の前句34〈やがて虹立つ現現現世/志保〉と35〈汗拭きながら仏跳牆(フォーティャオチァン)を/胃齋〉の趣が好き。D連句の円環を閉じるにあたって現現現世にかりそめの虹を架けた志保さんと、かりそめの世など忘れた体で楽しい時をすごしている胃齋さん。どちらにも連句ならではの美しさがある。

2021-07-03

過ぎゆく刻の潮騒





小説や楽曲の面白さというのはストーリーやメロディーといった単体の要素で説明できるものではなく、むしろ素材の厚みとか重なり方とか、論理のこんがらがり方とか、声や息つぎの癖とか、さまざまな質感および量感の即興的現前に立ち会うところにあると思う。小説ならばそれを読んでいる時間の中で、音楽ならばそれを聴いている時間の中で、作品が今まさに生まれてくる状況を体験することがひとつの醍醐味なのだ。

遊佐未森『潮騒』を聴く。遊佐未森さんは初期からずっと物語性を素地とした作品をつくっていて、今回もその感性は健在だったのだけれど、それ以上に私がありありと感じたのが「わたしはいま音楽を聴いているのではなく、刻一刻と過ぎ去ってゆく〈時〉を聴いている」といった新鮮な驚きだ。まるでこちこちと時を刻みつづける時計が豊かな翳りを湛えつつ、作品の中心で静かに鳴っているかのような世界。『潮騒』は物語的ないし音楽的な愉しさはもとより、過ぎゆく時間そのものを表現した作品集だった。

過ぎゆく時間を現前させるしかけは、楽器の音づくりにもまして遊佐未森さんの声と歌唱法に隠されている。よく太極拳では套路をするときに「繭の中から一本の糸を、切れないように細心の注意を払いながら、どこまでもすぅーーーっと引っ張り出してゆくイメージで息をし、また指先の意識を整えなさい」と言われるのだけれど、さながら『潮騒』ではそんな歌唱法がきわまって、声の持続のなかに時間のうつろいが生じていた。うつろいといっても無常観のごとき「意味的」なそれでは勿論なく、時間の真綿をすっと一本の絹糸に変えるみたいに純粋な時間そのものを生成している、ということ。特に前半、静かな緊張をはらんだ声と時間との対話が感じられる。

作品にただよう仄暗さも良かった(きれいな声のせいで一見そうと気づかせないところも面白い)。外間隆史さんと遊佐未森さんって、やはり相性がいいと思う。

2021-06-21

剣の術理で乗りこなす波



「ほぼ日通信WEEKLY」の巻頭エッセイを書きました。下のツイートを見ると22日火曜日(明日ですね)午前中までに登録した方のみ読めるみたいです。わたしもさっき覗いてみたんですが、試し読みのコーナーに柳家喬太郎氏のインタビューが載っていて、ちょっと得した気分。


日曜日は朝から立ち泳ぎで波乗りをして、帰宅してから前田英樹『剣の法』を読む。もしかしたら新陰流の術理が、波乗りの参考になるのでは?と思って。波にそなわる縦回転の円運動との引き合いとか、波に身体を斬らせるときの上手い角度とか、また反対に波頭に斬られないようにして懐に潜り込んでゆく動作とか。チューブライディングみたいな世界とくらべたら、わたしの遊びは赤ん坊の次元だけど、それでも考えることがいっぱいあってたのしい。今日は夏至なので午後の遅い時間に泳ぎに行こう。

2021-06-19

手をオカリナのやうに過ごした





今年はじめて海で泳ぐ。これから2ヶ月間、毎日泳げると思うと幸せすぎる。海に入ると、かんたんに瞑想状態になれるのもうれしい。陸の上ではこんなふうにはいかないから、水の力ってすごいなって思う。

さいきんはずっと考え事をしていた。こんなに考えたの何年ぶりだろうってくらい。何を考えてたのかというと「いい文章ってどういうふうにできてるんだろう?」ってこと。こんなことを考えるなんて頭が変になっていたのかも。人の話もきいてみようと思い、保坂和志「小説的思考塾vol.4」も視聴した(すごくよかった)。

そういえば、喋っている保坂和志さんを見るのってその日が初めてだったんですが、声や喋り方に違和感がなさすぎて、見終わるまでそのことに気づかなかったんですよ。絵描きはそんなことないのに、物書きが話しているところを目撃すると、ときどき「え?」ってなりますよね? なりません? 想像してた声との違いにたじろぐというか。彼らは「語る」のが仕事だし、文体というのはフィジカルなものだから、読み手はなにかしらの声をあらかじめ強く思い描いている。村上春樹の声と喋りを初めて聞いたときなんか、もうわたし、びっくりどころじゃなかったな。

D連句は雑の短句。いつもどおりわしゃわしゃっと書いて、ちょうどいいのをメールで送る。

うそもほんとも鳥だつたころ
雲雀を燃やす木々のたてがみ
寝息のにじむ古き絵葉書
色を失くせし虹の嫁入り
タイムマシンの静かなる夜
手をオカリナのやうに過ごした

2021-05-29

どこまで行っても青い海





浜辺のレストランが本格的にはじまった。魚介類を焼いたおいしそうな匂いでつっぷしそうになりながら、海岸道路を歩く。ああ。わたしも何か食べたかった。前回この町のレストランに入ったのは昨年の2月27日なので、ちょうど1年3ヶ月前になるが、レストランの再開(まだテラス席のみとはいえ)がこんなにも肉体に喜びをもたらす(まだ実際に食べていないとはいえ)ということに改めて驚愕している。これまでは理念としてしか、つまり精神としてしかその重要性をきちんと理解していなかったのだ。


ところで数日前に活動写真弁士の話を書いたら、思いがけず定型詩関連の知人から「私も好きです」とか「音源もってます」などといったメールが舞い込んだ。きわめつけが「同世代の弁士に習っていたことありますよ」という知人。彼は私にとってもっとも身近な一人なので、とつぜんの告白にのけぞる。ううむ。短詩系の人ってこの手の文化と近いのかもしれない。

2021-05-06

みんな風を見ている




時間がかかっていた原稿の初稿がやっとできた。まだ文章に余熱が残ってはいるものの、あとは冷ませばよいと思うとほっとする。書くことのコツって、自分の思いを変に大切がらないことだ。今回の原稿は、締め切りまでになんとかそこまで辿りつけそう。

今日は風が強かった。海に出ると水着の人たちがシートを敷いてくつろいでいた。そしてみんな風を見ていた。見たくなるような風なのである。パラグライダーの準備をしている若者たちも風を見ている。


彼らも風を見ている。右の男性はファンキーな銀髪を、白い炎のようにくゆらせながら。


彼も風を見ている。いつまでも漕ぎ出さずに。


あのこも風を見ている。そして全身で遊んでいる。表になったり、裏になったりして。

2021-03-29

大急ぎで海へ行く





仕事が終わったので大急ぎで海へ行く。午後5時の海はまだ明るかった。泳いでいる人もちらほら。きのう観た映画や、さいきん読んだ本の話などをしながら家人と歩き、ちょっとだけ水につかる。きもちいい。


スケザネさんがyoutubeを撮影した日の思い出をnoteに投稿しています。あの日は本当に楽しかったな。もしもコロナじゃなければトンカツを食べたあともう一軒寄りたかったくらい、ぜんぜん遊び足りなかったです。

2021-03-14

海と出会う、なんどでも。



フランスでの自主隔離期間が終わり、日曜日の海へ行く。車両制限をしているらしく、道路はからっぽだった。道路をひとつ渡ると、もうそこは大好きな海だ。

2021-01-30

石を積む人





今日はどんよりした曇り空。朝から旧市街へ行き、ルロワルネでカリソンを買って、帰りの道を歩いていると、中年の男性が一人、海岸の石を積んで遊んでいました。わたしの身長より高い塔です。


こちらは小ぶりの塔。かっこいい。海が寒そうで、なんだか遠い国に来たみたい。


超思索的光景。こういうのって慣れで作れるのかしら? わたしが石の塔を眺めているあいだも、男性は新しい塔を製作中でした。たまに積むのに失敗して、塔を倒したりも、してた。