2023-04-26

現在とは痕跡である。





ぼんやりしていたら発売から20日も経ってしまいましたが、『すばる』5月号の空耳放浪記は「国家とわたし」という題であれこれ書いております。それから昨日発売の『俳句』5月号に俳句連作「耳朶で遊ぶウロボロス」が掲載されています。

以下は前回のブログの続き。

昔、何かを入れたり、収めたり、包んだりしていた空き瓶、空き缶、空き箱、包み紙、袋といった資源ごみって、どうしてあんなにえもいわれぬ魅力があるんだろう? 端切れ、ボタン、リボン、札、タグなども面白くって、ぼんやりしていると勝手に溜まっていく。本体がなくなったあとも、抜け殻みたいに残って、忘れ形見の雰囲気すら漂わせている、そうした物に心奪われ、夢見心地でたわむれるのは、子どものままごとのように愉しい。空き瓶や空き缶は植物を育てたり、お菓子を詰めたり。空き箱は小物をまとめ、端切れは額に入れ、包み紙はブックカバーに。ボタン、リボンをグラスに入れて飾ったり、札を栞にしたり、古着のタグを丁寧に外して、ハンカチに縫いつけたりするのも、暮らしの工夫でもなんでもなく、どこまでもただのままごとだ。

抜け殻となった品々には、過ぎ去りし日の記憶が宿っている。つまり、それらは痕跡に満ちている。痕跡は、かつてそこに何かが存在していたことと、もう存在しないことを同時に伝える。たぶん不在がキラキラして見えるのは、過ぎ去ったはずのものがそこに存在しているという衝撃から来るんだろう。存在する不在。それが痕跡の美しさだ。

現在もまた痕跡である。なぜなら現在とは過去の抜け殻、過去の忘れ形見だから。過去は思い出なんかじゃない。現在こそが過去の思い出なのだ。とはいえ過去が現在に優越するわけでもない。なにしろ過去もかつては現在だった、つまりもっと過去の忘れ形見だ。そんな風に、くりかえし、くりかえし、痕跡が〈いまここ〉に現象している。そうして砂の上の足跡みたいに、いつか本当にすべての痕跡が消えて、「すべての痕跡が消えた」という還らざる痕跡だけを人の心に残すのだ。

2023-04-23

OTTAVIO RICCADONNA CANELLI





週末の朝、カフェで本を読む。その帰りしな、古道具屋に立ち寄った。その店は、けっこうな人気。いつもお客でいっぱいなので、またもやそうかと思いきや、開店と同時に入ったからか、ひっそりしていた。

さいきん古い油絵が欲しいなあとか、何かガラス製のユニークなものがあればと考えていて、よく覗きに来ている。でもいざ欲しいものが見つかっても、なかなか手が出ないのが古道具の不思議なところ。あれはどういうことなのか。なんとなく店主に話しかけづらかったりとか、まわりの熱気に圧されて買いそびれてしまったりとか。まあ、いいか、また今度にしようとついつい及び腰になってしまう。わかってもらえるかしら。しかし、この日は客もまばら。ほどよい静寂に助けられて、心をゆっくりと調えることができた。それで、よし買うぞと、前から狙っていたものを手に入れたのだ。

抱えて帰ってきた品は、透き通るガラスの酒瓶。ぶあつく、ぼってりとして、ワインがたっぷり運べるデミジョンボトルだ。把手がわりの片耳がつき、胴まわりのガラスの刻印には〈OTTAVIO RICCADONNA CANELLI〉と記されている。ひとつ10ユーロで、ふたつ買った。古いガラスのゆがみ、空気の化石のような、そのゆらぎのある存在感が本当に好きだ。ずっと眺めていられる、飽きることのない美しさ。このあたりでは、ガラスといえばムラーノ島の品が多いのだけれど、あんな上等なものでなくとも、いくらでも面白いものが転がっている。だって、ガラスって、少しも気難しくないんだもの。風情を解するとか、解さないとか、そういうことと関係なしに、誰でも一期一会の宇宙と対面できる。

リッカドンナはイタリア・ピエモンテ州カネッリの、この辺ではよく見るワイン。なにしろ国が違うとはいえ隣の州だ。ナポレオンがニースを獲るまでは同じサルデーニャ王国だった。

2023-04-19

浜辺の先客、あるいは記憶と忘却





いつものように海に行く。

浜辺の先客たちは超現実的な配置かつ距離感でもって静止し、おのおの瞑想のひとときを過ごしていた。

わたしは石や硝子、流木や生き物を探し拾い、それらの助けを借りて遊ぶことにした。それは、自分が昔どこでなにをしていたのかを思い出してみる遊び、である。ちょっとした日常の出来事から、人生を左右する重要な事件まで、思い出してみる内容はさまざまだ。そしてこれがすごくむずかしい。いざやってみると、自分が自由に思い出せる記憶とはこんなにも僅かだったのか、と愕然とする。

風は岸の竿を揺らし、カモメのつばさをくすぐり、わたしの髪をそよがせていく。うねりのない海には日の光が照り映え、サングラスをかけていてもまぶしい。破けた風船のようなクラゲが渚に漂っている。眺めているとクラゲは、泡のカーテンをまとい、満ち引きに身をまかせ、斜めに伸びたり、直立したり、横になったりしていたけれど、やがて慎ましくも大回りを見せ、底づたいに海の向こうに引き返していった。

拾うものが見つからず、思い出すことにも疲れたので、わたしは一息ついて遠くを眺めることにした。すると、いったいどうしたことか、浜辺をどこまでも埋め尽くしている銀色の小さな石が、だんだん忘れ去られたものたちの無数の塚のように見えてきた。忘却の喩と化した浜辺の全景。その驚異を目の当たりにしたわたしはこんなふうに思ったーーさっきまでわたしは砂金採りみたいになけなしの記憶を漁っていた。でもどうだろう、目の前に広がる浜辺のこの清々しい石塚は。忘却ってとてつもなく輝いてるんだ、おそらくどんな記憶よりも。

2023-04-16

コルシカ行きの黄色い船





夢で動物になるときって、これまでウサギとかリスみたいな哺乳類しか変身経験がなかったんですけど、こないだはじめてカタツムリになった夢を見ちゃいました。巻貝になった夢は初めて。もう嬉しくって。海辺のコンクリートの上で日光浴していましたね。で、隣では見知らぬカタツムリがジョギング前の準備運動っぽい動きをしていたのですが、頭を殻に入れたままだったのが気になったみたいで「こんにちは。あの、頭を殻に引っ込めるとGarmin Watchの計測器が反応しなくなるんですよ」とかなんとか教えていました、このわたしが。

話は変わって、今日港を通りかかったら、 コルシカフェリーの黄色い船が停泊していました。上の写真は遠くから、下の写真は近くから撮影。


コルシカフェリーは西地中海で一番シェアをもっている会社で、フランスとイタリアを往復してコルシカ島、サルデーニャ島、エルバ島を結んでいます。今はクルーズ船3隻、高速船6隻、クラシック船2隻、超高速船1隻の計12隻で構成とのこと。


ニースからコルシカ島までの所要時間は6時間45分。ちなみに飛行機だと50分。のんびりしている分お得で利用者も多く、ウィキによればバンデミック前年の乗客数は350万人とありました。すごい人数でびっくり。

2023-04-11

八吟「雪月花の巻」




句集『花と夜盗』刊行記念の句座をもうけていただきました。拙句をひとひねりしてくださった付句がいっぱいで有り難く存じます。挙句はスペシャルゲストの夜森さん。額装は羊我堂さん。毎回画像を拝見するたび「なるほど。今回はこんな歌仙ができたんだね!」と分かったような気分になります。デザインって解釈を含んでいますよね。そんなわけで以下、自分の付句を備忘録的に抜き書きしました。

夜盗姉妹は猫目石(キャッツ♥アイ)掏る(季何)雑
額髪に驟雨がかほる老刑事(りゑ)夏  
わりと涼しいタイムトンネル(夜景)夏

付け筋は老→時の流れ。

稲穂縦(みのるほどかうべをたれてほしいまま)(季何)秋
チチポポ(つきにかはつてつづみをならす)(りゑ)秋月
秋の蚊は飛んでイスタンブールまで(夜景)秋

付け筋は鼓→筒美京平。ウィキによると「ペンネームは鼓(つづみ)が平らに響くという意味から「鼓響平」を考えていたが、『真ん中で折った時に左右対称の名前は縁起がいい』という意見があり、文字を左右対称にするために『筒美京平』とした」うんぬん。

砂の女はアバヤ脱ぎ捨て(季何)雑恋
トレーダー分岐点まで何マイル(りゑ)雑
エメラルダスの屋根裏の窓(夜景)雑

付け筋は松本零士。追悼句。

テキサスのピストルオペラ知らざりき(季何)雑恋
あれ見さいなうシガーの煙(りゑ)雑恋
深井戸に飛び込みたがる十三夜(夜景)秋月恋

前句が閑吟集「あれ見さいなう、空行く雲の早さよ」ということで、付け筋は空→月。

2023-04-08

〈いまここ〉を実らせる人





物語って、時には批判されることもあるけれど、結局は読んでる人がどう読むか次第だ。主旋律にとらわれず、いろんな文脈をまたいで生きてみればいい。枠に抗うことで、テキストはいくらでも魅力的になる。

保坂和志の小説はその最高の例だろう。そもそも話に主旋律がない。しかも読んでいると、書かれていないことがどんどん頭に浮かんでくる。今、テラスのテーブルの上に『あさつゆ通信』が置いてある。これは「たびたびあなたに話してきたことだが僕は鎌倉が好きだ」という印象的な冒頭からはじまる、作者が自分の子どもの時代のことを語った小説で、ひとつひとつのエピソードが浅い眠りにちらばる夢のかけらのように、たくさんの光を含んでいる。

作者は「あなた」を思い、ここに生きる今を大切にしながら、〈いまここ〉ならざる思い出を語るのだけど、その語りが小さな鏡のように別の小さな出来事を映し出していて、それぞれの出来事に核心はなくて、ただいろんなことにたとえられるようにつながっている。イメージをはっきりさせたい気持ちと、イメージをほぐしてゆきたい気持ちとがぶつかりあい、つまり固まることと流れることとが同時に起こっているから、世界がぴくぴくと震えて、くすくす笑っているみたいで面白い。そしてきれいだ。ジョナス・メカスのソニマージュさながら、読んでいるあいだずっと、どこからか響いてくるきれいな鈴の音を聞くともなしに聞いている気分になるほどに。

作者は現実も夢も他者の言葉も全部ごちゃまぜになった思い出を、そのまま無造作に実況する。そうやって読者を作品の中の時間へと引き込むのだ。その整理されていない時間は、今この瞬間そのものである。作者の語りは〈いまここ〉をたわわに実らせ、その豊かな風景の中に、いつのまにか自分も立っていることにわたしは気づく。

2023-04-06

歩きながら本を読む





さっき海辺を歩いていたら、なんか胃のあたりから「つまり読書ってどういうことなんだろう?」という超絶難問がこみあげてきた。

それで、そのとき同時に、答えのかけらみたいなものもどっとあふれてきた。頭がぎょっとしたぐらい。足もうごかなくなってしまって、これは危ないってことでカフェをさがして、ひとまず一息ついてみた。いまもまだそこにいる。それで、ええとなんだっけ。そうだ、読書である。

読書とは頁をめくっている時間だけをいうわけじゃない。たとえば、近所を歩きながら、昔読んだ本を思い返していることがよくあるんだけど、そんなときこそ「今、読んでる!」って感じがする。だいたいわたしは本を手にしても、初手から全体を理解しようとしないし、しようとしてもできない。文脈の整理はあとまわしにして、まずは言葉の響きや新しい発見を楽しむくらいのものだ。そんなだから、散歩がてらに思い返すときのほうが読書の実感が強いわけだけど、この「歩きながら読む」感覚って実はものすごかったりする。起きているんだか寝ているんだか。醒めているわけでも、まどろんでいるわけでもない時間がつづく。現実と非現実の境目がにごって、風景と思考とがマッシュアップして新しい時空が紡ぎ出されてゆくような、知らないどこかへと彷徨い出たような、えもいわれぬ浮遊感があるのだ。

どこかで、たしか宮川淳が「書くことと読むことは、一種の鏡のようなもので、実はすごく似てる。でね、書くことと読むことが同時に起こって、お互いに影響しあう空間を、わたしたちは本と呼んでいるんだ。つまり本という空間そのものが対話の具現、コミュニケーションの成果なんだよ」と言っている。この「書くことと読むことが同時に起こる」というところ、歩くことが織りなす世界もまた、まさにそれかもしれない、と思う。

2023-04-05

ブリコラージュとしての連句





エッセイを書くときは、とにかく連想する。これから書く話題と、これまでの自分の経験や知識を、ああ、そういえば、って感じでつなげてゆくのだ。これをわたしは「そういえばの術」と呼んでいる。

といっても、本当に「そういえば」だけでつなげるわけじゃない。多くの場合、無意識というのは拘束的に働いてしまうからだ。

その拘束から抜け出す方法はいろいろある。連句的発想もそのひとつだ。連句というのは数人で集まり、五七五の長句と七七の短句を交互に連ねてかっこいい巻物をつくる遊びである。一巻をつらぬくテーマのようなものは存在しない。むしろ心象、物象、事象など、自然や人生の多様な相を句に描き、できるだけ変化を尽くすのが良しとされる。

連句には細かい作法がたくさんある。たとえば連句の最小単位は付句(付ける句)、前句(付けられる句)、打越(前句のさらに前の句)の三句だけれど、付句と打越が似ていると単調でつまらないから、打越に出てくる概念や言葉をつかって付句を書いてはいけない。ほかにも、同じ言葉のくりかえしを避けるための一座一句や、同種・類似の言葉が近くに来ないようにするための去嫌、花や月の句を置きどころを指示した常座など、巻物が一個の概念や系統にとじてしまわないように全体を構成するコツがルール化されている。ここで驚くのは、こうしたルールを意識せずに句を書くと、かならずといっていいほど重複、反覆、停滞、同趣、同種、同景におちいることだ。人間というのは同じ話をくりかえす。似通った趣向に走る。記憶をひきずる。心は囚われの温床なのだ。しかしそれではいけない。ぐるぐると同じことを考えるな。輪廻を断ち切れ。というわけで「歌仙は三十六歩なり。一歩も後に帰る心なし」と芭蕉は言った。

この芭蕉の言葉から、わたしはいつも万華鏡を思い浮かべる。万華鏡において、秩序とは常に壊されるものとしてあり、古いかたちを壊した分だけ新しいかたちが出現する。万華鏡の空間では一切のピースが流星群ならぬ変換群であり、それ自体を分解しながら新たな時間を生み出してゆく。きらきらと、まるで永遠に今が更新されてゆくかのように。そんなところが、なんだか連句に似ていると感じるらしい。

別の角度からいえば、連句の豊かさは、連想でつながりあった全体の背景に体系が存在しないことにある。つまり連句とは、ブリコラージュで整えただけの、つかのまのかたちなのだ。鑑賞のときも主題ではなく、一句ごとの良し悪しや、連想の筋(前句からどんな展開を引き出したか)や、句と句の相関(つながり方のかっこよさ)を吟味する。このあたり、連句は神話構造と同じく、いやそれにもまして複雑だ。なにしろ右を見ても、左を見ても、これっぽっちも概念に還元できないのだから。もう、まったくといっていいほど。

2023-04-03

ロープがつないでゆく風景





日曜の朝、ぶらついてたら、アパルトマンの外壁工事用の足場のてっぺんから、ゆらゆらとロープが垂れ、その端にペンキ缶がぶら下がっていた。

風もないのに揺れてる。怖いなあ、落ちてきたら大変だわ。そう思ったとき、缶の中からカササギが顔を出して、ぴゅっと飛んだ。二羽、いや三羽いたかも。カササギは楽しそうに、缶から出たり入ったりして遊んでいる。が、わたしの目はそっちよりもロープに釘づけになった。前に見たモンゴルフィエ兄弟の熱気球の動画がとつぜんよみがえって、単純にして万能なロープのすごさにいまさらながら気づいたのだ。

熱気球は風船と籠をロープでつないで空に浮く。帆船も、山登りも、エレベーターも、ロープに命をあずけている。だらんと緩んだり、ぴんと張ったり、吊ったり降ろしたり、ロープはなんでもやってしまう。またロープは構造の主役にだってなれる。吊り橋とか住まいとか。最古の人工的住居であるテントは、その気品ある風貌でわたしを魅了する。尖塔、天幕、帽子といった独特の形が、なんかロマンティックでいいのだ。道なりにつづく市場。満天の星がひろがる砂漠。古代ローマの夜の劇場。ルネサンスやバロックの祭典。どんな光景を心に思い浮かべても、テントはいつもテント特有の魅惑を湛えている。

友だちの家では、手編みの籠をロープで枝に吊るして、庭の巣箱にしている。最初は木の巣箱を置いていたけど、鳥好きの人に「彼らは丸くて暖かい家を好む」と教えられて、いまのやり方に変えたらしい。見に行くと、それはまるで天然の風鈴のようだった。風鈴みたいに揺れる籠に、鳥が住んでお喋りしてるって、なんか素敵だ。