2023-04-06

歩きながら本を読む





さっき海辺を歩いていたら、なんか胃のあたりから「つまり読書ってどういうことなんだろう?」という超絶難問がこみあげてきた。

それで、そのとき同時に、答えのかけらみたいなものもどっとあふれてきた。頭がぎょっとしたぐらい。足もうごかなくなってしまって、これは危ないってことでカフェをさがして、ひとまず一息ついてみた。いまもまだそこにいる。それで、ええとなんだっけ。そうだ、読書である。

読書とは頁をめくっている時間だけをいうわけじゃない。たとえば、近所を歩きながら、昔読んだ本を思い返していることがよくあるんだけど、そんなときこそ「今、読んでる!」って感じがする。だいたいわたしは本を手にしても、初手から全体を理解しようとしないし、しようとしてもできない。文脈の整理はあとまわしにして、まずは言葉の響きや新しい発見を楽しむくらいのものだ。そんなだから、散歩がてらに思い返すときのほうが読書の実感が強いわけだけど、この「歩きながら読む」感覚って実はものすごかったりする。起きているんだか寝ているんだか。醒めているわけでも、まどろんでいるわけでもない時間がつづく。現実と非現実の境目がにごって、風景と思考とがマッシュアップして新しい時空が紡ぎ出されてゆくような、知らないどこかへと彷徨い出たような、えもいわれぬ浮遊感があるのだ。

どこかで、たしか宮川淳が「書くことと読むことは、一種の鏡のようなもので、実はすごく似てる。でね、書くことと読むことが同時に起こって、お互いに影響しあう空間を、わたしたちは本と呼んでいるんだ。つまり本という空間そのものが対話の具現、コミュニケーションの成果なんだよ」と言っている。この「書くことと読むことが同時に起こる」というところ、歩くことが織りなす世界もまた、まさにそれかもしれない、と思う。