2023-04-08

〈いまここ〉を実らせる人





物語って、時には批判されることもあるけれど、結局は読んでる人がどう読むか次第だ。主旋律にとらわれず、いろんな文脈をまたいで生きてみればいい。枠に抗うことで、テキストはいくらでも魅力的になる。

保坂和志の小説はその最高の例だろう。そもそも話に主旋律がない。しかも読んでいると、書かれていないことがどんどん頭に浮かんでくる。今、テラスのテーブルの上に『あさつゆ通信』が置いてある。これは「たびたびあなたに話してきたことだが僕は鎌倉が好きだ」という印象的な冒頭からはじまる、作者が自分の子どもの時代のことを語った小説で、ひとつひとつのエピソードが浅い眠りにちらばる夢のかけらのように、たくさんの光を含んでいる。

作者は「あなた」を思い、ここに生きる今を大切にしながら、〈いまここ〉ならざる思い出を語るのだけど、その語りが小さな鏡のように別の小さな出来事を映し出していて、それぞれの出来事に核心はなくて、ただいろんなことにたとえられるようにつながっている。イメージをはっきりさせたい気持ちと、イメージをほぐしてゆきたい気持ちとがぶつかりあい、つまり固まることと流れることとが同時に起こっているから、世界がぴくぴくと震えて、くすくす笑っているみたいで面白い。そしてきれいだ。ジョナス・メカスのソニマージュさながら、読んでいるあいだずっと、どこからか響いてくるきれいな鈴の音を聞くともなしに聞いている気分になるほどに。

作者は現実も夢も他者の言葉も全部ごちゃまぜになった思い出を、そのまま無造作に実況する。そうやって読者を作品の中の時間へと引き込むのだ。その整理されていない時間は、今この瞬間そのものである。作者の語りは〈いまここ〉をたわわに実らせ、その豊かな風景の中に、いつのまにか自分も立っていることにわたしは気づく。