2023-04-05

ブリコラージュとしての連句





エッセイを書くときは、とにかく連想する。これから書く話題と、これまでの自分の経験や知識を、ああ、そういえば、って感じでつなげてゆくのだ。これをわたしは「そういえばの術」と呼んでいる。

といっても、本当に「そういえば」だけでつなげるわけじゃない。多くの場合、無意識というのは拘束的に働いてしまうからだ。

その拘束から抜け出す方法はいろいろある。連句的発想もそのひとつだ。連句というのは数人で集まり、五七五の長句と七七の短句を交互に連ねてかっこいい巻物をつくる遊びである。一巻をつらぬくテーマのようなものは存在しない。むしろ心象、物象、事象など、自然や人生の多様な相を句に描き、できるだけ変化を尽くすのが良しとされる。

連句には細かい作法がたくさんある。たとえば連句の最小単位は付句(付ける句)、前句(付けられる句)、打越(前句のさらに前の句)の三句だけれど、付句と打越が似ていると単調でつまらないから、打越に出てくる概念や言葉をつかって付句を書いてはいけない。ほかにも、同じ言葉のくりかえしを避けるための一座一句や、同種・類似の言葉が近くに来ないようにするための去嫌、花や月の句を置きどころを指示した常座など、巻物が一個の概念や系統にとじてしまわないように全体を構成するコツがルール化されている。ここで驚くのは、こうしたルールを意識せずに句を書くと、かならずといっていいほど重複、反覆、停滞、同趣、同種、同景におちいることだ。人間というのは同じ話をくりかえす。似通った趣向に走る。記憶をひきずる。心は囚われの温床なのだ。しかしそれではいけない。ぐるぐると同じことを考えるな。輪廻を断ち切れ。というわけで「歌仙は三十六歩なり。一歩も後に帰る心なし」と芭蕉は言った。

この芭蕉の言葉から、わたしはいつも万華鏡を思い浮かべる。万華鏡において、秩序とは常に壊されるものとしてあり、古いかたちを壊した分だけ新しいかたちが出現する。万華鏡の空間では一切のピースが流星群ならぬ変換群であり、それ自体を分解しながら新たな時間を生み出してゆく。きらきらと、まるで永遠に今が更新されてゆくかのように。そんなところが、なんだか連句に似ていると感じるらしい。

別の角度からいえば、連句の豊かさは、連想でつながりあった全体の背景に体系が存在しないことにある。つまり連句とは、ブリコラージュで整えただけの、つかのまのかたちなのだ。鑑賞のときも主題ではなく、一句ごとの良し悪しや、連想の筋(前句からどんな展開を引き出したか)や、句と句の相関(つながり方のかっこよさ)を吟味する。このあたり、連句は神話構造と同じく、いやそれにもまして複雑だ。なにしろ右を見ても、左を見ても、これっぽっちも概念に還元できないのだから。もう、まったくといっていいほど。