2021-12-19

海のみえる休日



数ヶ月前から来ているインド人の知人と夫が食事に行く。知人は明日インドに帰国するそうだ。夫が今日行ったお店の写真を見せてくれる。わたしは変なタイミングで病気になってしまったせいで、結局いちども会えなかった。ざんねん。今度会えるのは来年の秋だ。

2021-12-16

『カモメ』の3刷できました





佐藤智子『ぜんぶ残して湖へ』を手にとる。すごく素敵な装幀。

秋日和そっすね船に積む列車  佐藤智子

からーんと晴れた秋の日和に、港に佇んで、船に積まれた列車を眺めている二人。情報が盛りだくさんの句だけれど、そう感じさせないのは相槌「そっすね」が絶妙だから。いやほんと、「そっすね」の一語で句中に人間が二人いることを表現するなんて技が決まった感じだよね。しかもこのさりげない口調、高い空がますます高く感じられるような余白さえ生んでるし。

それはそうと、この句集、食物関係の句があんぐりするほど多い。なんなんだこれは?ってな勢いで、めくってもめくってもおんじき、なのだ。それから川柳の香りがする句が多いのも特徴だと思う。刊行されたばかりなのでたくさんは引用しないけれど、たとえば、

薫風やどこにもいかないねラーメン
おじいさんとわたしで食べるちいさな蕪
そつなくてせつない 雪のすこし在る
お祈りをしたですホットウイスキー
やわらかいタウンページと鱈の鍋

といったあたりは、小池正博『はじめまして現代川柳』に載っていても全然おかしくない。「どこにもいかないね」と「ラーメン」の強い恣意性。おじいさんとわたしが分け合う「蕪」に隠された小さな「無」(この句が本当に川柳だったら、つまり季語の要らないルールだったら〈おじいさんとわたしで食べるちいさな無〉と詠まれたのではないか?)。「そつなくてせつない」と「雪のすこし在る」とのあいだの空白=非言語が狙う効果。「お祈りをしたです」という発話の妙な力加減。また最後の「やわらかいタウンページ」と「鱈の鍋」の組み合わせにひそむ魔法も面白く、「やわらかいタウン」からは「優しい街」が連想され、それが「鱈→雪」と結びついて、愉しい鱈鍋とやわらかく街を包む夜の銀世界とを同時に感じさせる句になっている(あのタウンページがやわらかいってどういうこと? あ、もしかしてあれを敷物にして鱈鍋をやったってこと? そうだわ、この不思議な表現はきっとそこから生まれたのよ、汁なんかこぼれたりして、だからくったくたなのよ、といった現実派?の解釈もいちおう試みつつ)。

お知らせ。『カモメの日の読書』が3刷となりました。地味な本を応援してくださる版元、地道に売ってくださる書店、そして手にとってくださった読者に心から感謝申し上げます。

2021-12-15

修羅の見わたす風景





初めて『蒼海』を読み、作品の粒がそろっていることに驚く。装幀も可愛らしく、とても充実した読書だった。

映写技師老いて春日を操りぬ  高木小都

『蒼海』13号より。春日に触れて、かつての生業を思い出したのか、天の光を操っている老いた映写技師。像なき光という、意味をなさない物象を操る人間の姿。いったいどんな世界を眺めているのだろう。すばらしいドラマ性を感じさせる句だ。

ところで、一般的な「わたしたち」とは違う世界の見え方があることを忘れないのは、詩歌にとってかなり大事なことだと思う。

俳句というのは「見えるもの」に注意が向かいがちな文芸で、標準的な視力や認知力が前提とされた写生が褒められがちで、ああ、見えないよ、見えないよ、こんなにも見えない目にうつる世界を、わたしは見えないままに書いているよって人は、ほんとに、ぞっとするくらい、少ない。

見えないものを書くなどというと、すぐ観念的に捉えるひとがいるけれど、わたしが言いたいのはあくまでも物理的な次元の話。たとえば、人は目に涙をためるだけで、かんたんに何も見えなくなってしまう。甘い涙。つめたい涙。怒りの涙。そういった、涙をためた目に映る世界を写生していけないわけがないのだ。いやむしろ、ひとりの修羅の見わたす風景は、いつだって涙にゆすれている。

2021-12-14

私の好きな中公文庫





中央公論の連載コラム「私の好きな中公文庫」に寄稿しています。これ、書き出す前に、現在刊行されているリストというのを頂いたんですけど、記憶に残る本という本がことごとく絶版でびっくりしました。リストに目を通しながら、なんというか、知ってる町内だと思って歩きはじめたら、つぎつぎ知らない曲がり角があらわれて、いるはずの人たちも全員死んでいて、自分がどこにいるのかわからなくなって、途方に暮れ。

2021-12-05

休日の写真など





金曜の夜から症状が落ち着いている。日曜日は家人が外の写真を撮ってきてくれる。朝の海と、毎年恒例のサンタクロースと、かなり燃えてしまった夕日。

さいきんは頭がつかえないので、内容をよく知っている小説を読み直している。太宰治とか。太宰は読み返すたびに文章の上手さに感動する。端正なやつと、ぶっ壊れたやつとの落差にもじーんとする。一番、とか口にするのってばかみたいだけど、でも日本語が一番うまいと思う。ついでに森見登美彦『新釈 走れメロス』も読む。そして大いに身につまされる。