2021-12-15

修羅の見わたす風景





初めて『蒼海』を読み、作品の粒がそろっていることに驚く。装幀も可愛らしく、とても充実した読書だった。

映写技師老いて春日を操りぬ  高木小都

『蒼海』13号より。春日に触れて、かつての生業を思い出したのか、天の光を操っている老いた映写技師。像なき光という、意味をなさない物象を操る人間の姿。いったいどんな世界を眺めているのだろう。すばらしいドラマ性を感じさせる句だ。

ところで、一般的な「わたしたち」とは違う世界の見え方があることを忘れないのは、詩歌にとってかなり大事なことだと思う。

俳句というのは「見えるもの」に注意が向かいがちな文芸で、標準的な視力や認知力が前提とされた写生が褒められがちで、ああ、見えないよ、見えないよ、こんなにも見えない目にうつる世界を、わたしは見えないままに書いているよって人は、ほんとに、ぞっとするくらい、少ない。

見えないものを書くなどというと、すぐ観念的に捉えるひとがいるけれど、わたしが言いたいのはあくまでも物理的な次元の話。たとえば、人は目に涙をためるだけで、かんたんに何も見えなくなってしまう。甘い涙。つめたい涙。怒りの涙。そういった、涙をためた目に映る世界を写生していけないわけがないのだ。いやむしろ、ひとりの修羅の見わたす風景は、いつだって涙にゆすれている。