土曜日の読書「砂糖菓子と石」更新。引用は種村季弘『不思議な石の話』より。
日本で水菓子といえば伝統的に果物を指しますが、地元のガイドブックによると、南仏も菓子という言葉が果物と木の実を指していた時代が長いそうです。なんでも冷蔵庫が普及するまで、生クリームやバターを使ったいわゆるフランス風菓子は南仏の家庭料理ではなく(すぐ腐ってしまう)、保存食にもなる砂糖漬けが主だったとのこと。
砂糖菓子と天然石について、夏目漱石『草枕』にすごく好きなくだりがあります。ここです。
余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと柔らかだが、少し重苦しい。ジェリは、一目宝石のように見えるが、ぶるぶる顫えて、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である。(夏目漱石『草枕』)
2019-11-30
砂糖菓子と石
2019-11-29
蜃気楼と月
須藤岳史さんとの往復書簡「LETTERS」更新。第14回は「文(ふみ)と不死」。繋がることとその痕跡。ニースに引っ越した日のこと。惜字楼でお別れしたあなたの分身。追伸と明るい雨。手紙とごみ。竹取物語の秘密。そして蜃気楼。上はこちら、下はこちらからどうぞ。
上の写真、海の向こうに見える陸地と建物はどちらも蜃気楼です。蜃気楼は時間帯によってリアルさが変わるので、もう少し眺めていたかったのですが、あまりにも寒くて10分ほどで退散しました。で、帰ってから蜃気楼の漢詩を読み比べ、李白「渡荊門送別」が私の見た風景にぴったりだなと思ったので引用します。
月下飛天鏡 月は下りて天鏡(てんきょう)飛び
雲生結海楼 雲は生じて海楼(かいろう)を結ぶ
意味は「月は傾き、天を鏡が飛んでいるみたい。雲は湧き、海に楼が建っているみたい」。ちなみにこの日の月はこんな感じ。空気がピュアで、とても痛そうだった。
2019-11-27
2019-11-22
真実の中心で愛を叫ぶ(澤の俳句 6)
ええと、わたしが句の感想を書くときのモットーは、好きな句もそうではない句もできるかぎり同じ温度で扱うことです。それなのに「夜景さん、林雅樹さんの句がお好きなようですね(笑)」といろんな人から言われてしまうのはいったいどういうわけなのでしょう。ふしぎ。
* * *
真裸で實(みのる)のハート撃ち抜く俺 林雅樹
はい。私も撃ち抜かれちゃいました。この地球に生を受け、今まさに真実の愛へ飛び込もうとする作者(なんとこの句、真と実の文字のあいだに本気で〈裸〉が飛び込んでいます)。またその勇姿を世界へ向けて実況中継するかのごとき祝祭性。そして極めつけは季語であり、心意気であり、変態であり、何もかもである〈裸〉を〈真〉で駄目押ししたことで、作者のすっぽんぽんが存在者の存在の根源の全体集合のごとくキラキラと輝いていること。素晴らしい。なんか、どうもありがとうございます。
蝌蚪の紐掬ひて掛けむ汝が首に 林雅樹
この似非万葉集っぽさ! 私、ばかばかしいことを雅な言葉で語る御仁に弱いので、もしこんな句を贈られた日には、きゅんとして結婚しちゃうかもです。それはそうと、幼かりし日に蝌蚪の紐をふりまわした方々においては御判じいただけると思いますが、あれって太くて粒立っていてハワイのレイにそっくりです。なので私、この句は
桜まつり老人ハワイアンバンド 林雅樹
の写真ないし実物を目にしたことで生まれたのではないかと推理するのですけれどいかがでしょうか。なおこちらの句については、詩性をあっさり健忘して、言葉を現実の縮尺のままでつかい「イメージの平地」を歩いてみせたところが乙。この種の面白さは作者のバランス感覚だけが頼り。じっと眺めるに、あまり凝ろうとせず、ヌケをよくするのがコツなのかもしれません。
2019-11-21
李賀訳『ランボー詩集』
ことばの本屋Commorébiで、ほんやのほの店主伊川佐保子さんと、語学塾こもれびの塾長志村響さんの往復書簡がはじまっていました。第一回は、伊川さんから志村さんへのお手紙で、なんと「ライ麦畑いろはうた」というとてもユニークな趣向です。
* * *
こちらで連鎖をやっていたので、ストーカーっぽく、喪字男さんの背後にぴったりつける。
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都々逸からの脱線メモ。江戸時代の
沖の暗いのに白帆が見えるあれは紀の国みかん船
というかっぽれを、成島柳北が、
滄溟暗処白帆懸
知是載柑南紀船
と漢詩に訳していて、和語と漢語とでは、もうね、漢語の方がはるかに好きですわたしは。漢語といえばランボーの〈おお、季節よ、おお、城よ/無疵な魂がどこにある?〉を李賀訳で読んでみたかったな、そしたらランボーのこともっと好きになっただろうに、と思ったこともあった。想像しただけで膝が震えてきませんか? 李賀訳『ランボー詩集』だなんて。
2019-11-19
さいきんのこと
日曜日、大塚泰子さんの『小さな家のつくり方』を再読。クリアかつシンプルな文章で、必要事項がわかりやすく、家を建てるときは依頼したいと思わせる本(残念ながら建設予定は0.1ミリもないが…)です。大塚さんといえばツイッターのアガべがとんでもないことになっていて、この先が楽しみ。
週刊俳句第656号に「祝祭的迷子、あるいは中嶋憲武『祝日たちのために』に捧げる小さな覚書」を寄稿しています。ええと、これを書きながら思ったのは「1分で読める文章も、決して1分では書けないのよね」ってことです。
月曜の朝、人生でいちばん大切なのは何かを考えていて、それは時間だという結論に達してしまう。労働以外はしたいことだけをしないとって。そして夜は、冬泉さんが捌いている連句をのぞき、自分の句がふたつ続きで採用されていたことに驚く。ここです↓
おいしいマロングラッセの山
致死量の琥珀に月は燃え出して
火曜の朝、寝起きにスマートフォンをみたら、とある俳人から「はじめまして」のメールが。わーい。帰国する機会があればお会いしてみたいな。
2019-11-16
駒と巡りあう夜
先日、冬服に着替えた泰山木の実をアップしましたが、つい3週間前まではこんな色の服でした。あ、いえ、別にこれ以上言うことはないんですよ。めっちゃかわいいなってだけ。
* * *
戦前の日系紙でめぐる都々逸のつづき。今日は「日米新聞」です。この新聞は「北米日報」と「桑港日本新聞」とが合流して1899年に誕生しました。のちに「新世界」とともにサンフランシスコの邦字新聞の双璧をなしたそうです。
葉蔭ながらも横降る雨に濡れて色づくストロベリ
ギヤスで料理のお雑煮よりも柴で焚くのが俺(わし)や嬉し
生活の作品より。英単語がかっこいい。〈ギヤス〉は瓦斯のこと。〈ストロベリ〉は日系移民史と切り離せない単語ですよね。
会いに来たのか厩の駒を除隊した夜の夢に見る
銃(つつ)で霞ませ血潮で咲かす春の戦場のみぢめさよ
木の葉残らず散らしてあとは何を散らそと鐘をつく
戦争の作品より。〈厩の駒〉はすごい。なんというか、心の闇の深みをさまよっていたら、ふいに発光する湖を見つけたような、そんな静謐な慰めを感じます。この都々逸と出会えて本当に良かった。
2019-11-14
リクビダートル、あるいは別れを告げる日の丘へ
須藤岳史さんとの往復書簡「LETTERS」、最終回から1ヶ月でまさかの連載再開です。第13回は「日曜日の午後に軽い手紙を書こうとする試み」。秋の散策路、古い手紙、王様の耳はロバの耳、ラジオの夜、誤配送された手紙、一人の幅、私淑の系譜、日曜日の午後の軽い手紙を期待するということ、などなど。上はこちら、下はこちらからどうぞ。
* * *
佐藤りえ「リクビダートル」はチェルノブイリ事故のリクビダートルをテーマとした30句連作。持ち重りのする主題のときは、固有名詞は多くしたほうが連作の旨味がはっきりしてよいですが、この作品もまた詞書まで駆使して固有名詞をたっぷり使っているのが面白い。
ぼた餅もて別れを告げる日(プロヴォーディ)の丘へ
放射性廃棄物容器(キャニスター)込めばやオンカロの凍穴に
栗鼠かち割る木の実デーモンズコアならめ
現実にべったりと即きすぎて虚構性(作品としての自律性)が弱くなったり、あるいは逆に凡庸な観念の塔を建立したりといった、政治を扱うときに俳句が陥りがちな穴をうまく回避している、との印象を受けます。
ここから余談。観念の塔の最大の弱点といえばおおむねどれも似ているってことですけど、これ、もちろん箴言性や肉体性を有した観念を書ける人は別です。いますよね、たまにそういう人が。いつだったか知り合いが「岡井隆は観念の塔の名人で、塚本との最大の違いはそこかなと思うわ」と言ったことがあって、その時はなるほど!と唸りました。
2019-11-13
サンフランシスコの都々逸
泰山木の実がとんだ可愛い冬服を着ていました。首のところの赤い点々がえりまきみたいでおしゃれ。
* * *
昨日の続き。サンフランシスコの日系雑誌「桑港文庫」を読んでみたら、都々逸がすごく盛んでした。
胸の曇りを察せぬ月が晴れて涙の身をてらす
惣亭藝升
積る思ひの雪踏み分けて解ける心で来たわたし
渓鶯粹史
「桑港文庫」第二篇(1900年)より。粋筋の都々逸です。ご当地性があればもっといいかも。せっかくサンフランシスコに住んでいるのだから霧がらみとか。他にもいろいろありましたので、2つほど画像で紹介します。
2019-11-11
ハワイの都々逸
昨日の日記を書いたあとで「あっ」と気づいたのですが、私、戦前の「日布時事」文芸欄を整理していたころに、都々逸の投稿欄も一応メモしておいたんですよ。俳句短歌に比べると圧倒的につまらない作品が多く「うーん。どうしてこんなに差があるのか」と思いつつ。すっかり忘れてました。時折、ほんのりマイタイの香りがする作品が混じっていて、そんなのを見つけたときは嬉しかった。
シュガケンはサトウキビ(sugarcane)のこと。どうでもいい話ですが、マイタイと聞くと私は東京するめクラブの『地球のはぐれ方』が読みたくなります。
椰子の葉蔭にうたたねすれば雪の門松夢に見る
わたしゃシュガケン焼かれて切られ絞り上げられ白砂糖
待てど会はれぬ妾(わたし)の胸を渡してやりたい夜の虹
シュガケンはサトウキビ(sugarcane)のこと。どうでもいい話ですが、マイタイと聞くと私は東京するめクラブの『地球のはぐれ方』が読みたくなります。
2019-11-09
町中に風呂が
土曜日の読書「町中に風呂が」更新。引用はドミニック・ラティ『お風呂の歴史』より。高遠弘美氏の訳が読みやすかったです。変な喩えですけど、天気の良い日の野鳥観察みたいに文章の見晴らしがよくて、日本語がくっきりしてる。思わずアマゾンに他の訳書を探しに行ったら、なんとプルースト『失われた時を求めて』を翻訳中ではないですか。読んでみたいかも。
『お風呂の歴史』については、本文に引用したのと同じあたりに、当時のおすすめ入浴法のこんな記述もあって、どこの住人もお風呂好きのやっていることは同じだなと思います。
十三世紀の医師アルノー・ド・ヴィルヌーヴは、若さを保つために、四月と五月には、週に三回入浴することを勧めている。湯は透明でぬるめ。そこに、植物(ローズマリーや接骨木やカモミールや品川萩)や花(赤い薔薇や睡蓮)や各種の根を煎じたものを入れ、一週間で新しくする。浸身浴は空腹時がよく、最低一時間は続ける。終わったら煎じ茶を飲み、休む。
2019-11-07
言葉遊びの川柳
川柳スープレックス「喫茶江戸川柳 其ノ捌」更新。今回は言葉遊びのメニューで、当て字の句、マニエリスティックな句、寄席芸人っぽい句、 空耳アワーな句、 早押しクイズの句など、なかなかヴァラエティ豊かでした。
マスターの話に登場する〈たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごもり)いぶせくもあるか妹に逢はずして〉という万葉集の歌も面白いですね。あれだけ言葉遊びを盛り込むというのは、作者が和歌というものの虚構性を自覚しているからこそで、戯作性の強さにも感心しますし、なにより読者が読み方を「発見」するまで全く意味わからないという攻めの姿勢がよいです。
*
大雨の翌朝。海岸を見ると、砂浜に誰もいなかったので、
ちょっと海に入ってみる。
あわあわ。
海を眺めるカモメたち。
海を眺めるヒトたち。
2019-11-03
中国古代建築を覗く
以前、東京新聞のコラムに「住まいと庭に関する資料を漁るうちに、漢詩を読むようになった」と書いたことがあるのですが、建物に関する中国語を知るのは難しく、だいたい絵がついていないのでぼんやりとしかわからないんです。それで妹尾河童の本みたいにわくわく覗ける図解はないかしら……と思っていたころ見つけたのがレミ・タンの『中国古代の建物』。建物について技術面からまとめてあり、図鑑が好きな人向き。かれこれ15年くらい眺めています。以下は屋根にかんするパートより。
全体の図解。
960年から1234年当時の瓦および組物装飾の例。
瓦の装飾。
屋根の装飾。
写真もそこそこ載っています。
この本が漢詩を読むのに直接役立つということはないのですけれど、「漢詩の入り口はいろいろあるよ」の一例として、ふと思いついたので書いてみました。
2019-11-02
風土を感じさせる人々
土曜日の読書「風土を感じさせる人々」更新。引用は久生十蘭『ノンシャラン道中記』より。フランソワ・ラブレーを思い出させる面白い小説でした。
コート・ダジュールの「声かけの習慣」については書くと長くなる話がいくつかあって、なかでも衝撃だったのが「大学、もしくは中学の教員になりませんか」という勧誘です。突然知らない人から声をかけられて、思わず「えっ」とたじろいだのですが本当の話でした。それであらためて詳しい事情や授業内容について伺って、家人にも相談したんですよ。家人の判断は「好きにしたら?」。結局、すごく大変そうなので断ったのですが。
そのあとしばらくして引っ越した北ノルマンディーはキャッチもいない静かな街で、人と人との距離も遠かった(悪い意味ではなく、単に節度があるという意味)。やはり風土ってあるなあと思います。私は内気なのでぐいぐい話しかけてくる南方人の方がつきあいやすいです。
2019-11-01
空のひづみ、影のさしがね
先日、綺麗な飴色の葉っぱを見つけた。やったね!と持ち帰り、水洗いして、ヒーターの上に置き、翌日見たら、葉っぱの真ん中に、まるい染みが浮かんでいて泣いた。写真は葉っぱとはなんのゆかりもない石鹸屋。
以前、LETTERS第9回で江戸時代の俳諧・川柳にみる世界という語の使われ方について書いたのですが、感覚と世界との距離感をコスモロジックに詠んだ作品に、
この空にひづみ有りやと月と日の影のさしかね只あてゝ見ん 沢辺義周
という狂歌があって「空のひづみ」と「影のさしがね」がうまいなと思います。ロビン・ギル『古狂歌 ご笑納ください:万葉集まで首狩に行ってきました』によると1808年以前の作らしいです。化学の知見に依拠した詩的把握の例として引用したかったのですけれど、もとの出典を確認することができず(海外暮らしの弱点)断念。でも好きなので、ここにメモ。
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