2018-11-30

水の文様



先の日記を書いた後に、また宮本武蔵について膨大な教養をもつと思しき別の方からメールを頂戴してしまい怯えています(テキトーですみません)。なにゆえこんなに武蔵は人気者なのでしょうか。

武蔵は全てがその中に入ってしまうくらい汎用性に富んだ言葉を使う人ですが、個人的な実感では、俳句は「人間が書く」のではなく「俳句が書く」のでは?と思ったりもします。つまり「ひらめき」が人間に属するものだとは考えない。この部分の説明がやっかいだなあと思案していたら、ちょうどよいツイートを発見。


本当に。全体は頂きもの、細部は人の技。仮に「ひらめき」が人の側にあるとすれば、その「ひらめき」とは「凄い何か」ではなく、きっと、ほんのちょっとした「抜道」の発見ってことなのでしょうね。
* * *
「暗香疎影」といえば田能村竹田。でも構図のポップさゆえに尾形光琳の「白梅図」との関係の方が広く知られています。この変、深入りすると面倒なので(考証合戦になる)さっさと本題にゆくと「白梅図」に描かれた浅瀬の流水文は馬遠「十二水図」中の「寒塘清浅」に通じているらしいです。


なまめかしい画。男女の逢瀬って、こんな怖い感じなんですね。ついでに書くと、北斎の描く波頭の様態も「十二水図」に見られる表現。


馬遠の人気というのは、もちろん画が良いからなのでしょうが、林逋の大ヒットフレーズを図像化したというのも少なからずあるはず。わたしは2羽の水鳥が不思議な「秋水回波」や「細浪漂々」がお気に入り。



2018-11-28

勝機はどこにあるか





ひさしぶりの「はがきハイク」が届く。
 
アリスったらまた伸びるのね冬館  笠井亞子
まつさらな銀河の縁の掛布団  西原天気

亞子さんはあいかわらずのおてんば。ちょっと川柳っぽい雰囲気を感じます。天気さんにはアンメルツヨコヨコという音から星雲を召喚した〈アンメルツヨコヨコ銀河から微風〉という名句がありますが、この度の「銀河」は愛の香りがうっすらと漂う点で、これを軽く上回るスペイシー度数です。
* * *
閑話休題。宮本武蔵のファンがいるようなので、ところどころ俳句と重ねつつ、もう少し書きます。

方法とか流派とかいったものは、その大枠の現象だけを眺めればどれも問題が多く、前衛でも、伝統でも、なんでも、それぞれにありがちな固有の弱点を抱えているものです。

にもかかわらず、どの方法論の中からも時々はっとするような作品が出現することを思うとき、作品の良し悪しを方法(流派)に遡行して語ることは実は不適切なのだということに気づきます。

どの方法(流派)も、その勝機は使い手のひらめきの中にあるのです。

だから方法(流派)を吟味するときは、その中で書かれたつまらない作品ではなくすばらしい作品を眺めること。批評であれば、或るすばらしい作品が、同じ方法(流派)の別の作品とどのように違うのかを考えること。また書き手であれば、方法(流派)と自分の性格とのフィット感を手さぐりすること。

そうすると、楽しく創造的な時間が過ごせます。いつだって、学びつつも一つの学びに染まらない精神は、作品を類ではなく個で眺める習慣から生まれるのです。

2018-11-26

「型」を受け入れるとき





きのう書いた「型にはオモテもウラもない」というのは宮本武蔵の言葉です(メールで質問されたので、こちらにも書いておきます)。ざっくり言うと、何かを学ぶときはその人の個性に合わせて知る順番も変わるのが当然で、こういった順番で学ばなきゃならないなんて作法はない、といった話。武蔵は「研鑽の先に奥義や秘伝があるわけじゃない。そもそも奥義や秘伝といった考え方自体が間違いなんだ」とも言っています。
* * *
閑話休題。「型」を受け入れるとき、自分をからっぽにするじゃないですか。あれが好き。

勇気を出して手に入れた、とても充実した空虚です。

その空虚な身体で、流れ込んでくるものを受け止める不思議さ。それに応えようとして芽生える言葉。力を抜いたまんま、ヴォルテージを上げたり下げたりせず、普段の表情、声、存在感そのままに、話すように詠ってみる。

そういえば今日ね、外を歩いていて、ふと空をみあげると、口をぱっくりあけて空が笑っていたんですよ。真っ青に。その笑いがすごくおおらかで、気持ちよく吸い込まれて、あ、力を抜くってこういう感じだったなと、久しぶりに思い出したんです。

2018-11-25

季語という「型」





空から写真が送られてきた。深い青。
* * *
「俳句」12月号に「夜空の星」という記事を寄稿しています。愛用している歳時記を教えてくださいという依頼だったのですけれど、歳時記を愛用したことがないのでそのように書きました。あと「愛用」って響きがちょっと。マテリアリストみたい。自分にとっての俳句とは、狂乱にせよ、はたまた遊戯にせよ、身一つの佇まいです。

ところで季語というのは現実に対応していない(現実との間にずれがある)体系ですが、じゃあ少しでもフィットするように改良すればいいかというと、話はそう単純ではなかったりします。なぜなら「型」とは人のためでなくむしろその逆、すなわちおのれの尺度を人に放棄させるために存在するからです。

芸事でも武術でもそうですが、季語についても一般的に言われる言説はオモテの顔にすぎず、ウラの顔としては主体を変容させるための装置として機能している(さらにその先へゆくと「型」にはオモテもウラもないといった超ややこしい話に至る)。そこが面白いんですよね。

2018-11-23

臍と弓、ふたつの君




組み句2つ、思い出したのでメモ。

秋風や汝の臍に何植ゑん   藤田哲史
秋風や白木の弓に弦(つる)張らん   向井去来

「臍」の若々しい渋好みと、「弦」をかすめる風雅の音。

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君  与謝野晶子
人なしし胸の乳房をほむらにて焼くすみぞめの衣着よ君  『拾遺和歌集』哀傷

『拾遺和歌集』の歌は「あなたを育て上げた胸の乳房。その内側に燃えさかる炎でつくった炭染めの衣を着なさい、我が子よ」の意味で、「としのぶが流されける時、流さるる人は重服を着てまかると聞きて、母がもとより衣に結び付けてはべりける」と詞書が添えてある。「胸の乳房をほむらにて焼く」のくだりは「この手の比喩は悪くない」と藤原俊成が褒めていたような記憶(メモなのであいまい)。

2018-11-21

みみず・ぶっくすオープン。





ここ数日、あいかわらず「みみず・ぶっくす」用の絵本を整理していたのですが、来月あたまにきちんとした形でオープンするのは無理だと悟りました。

ものごとを折り目だだしく進めるというのが、なんにつけ苦手だったことを思い出したのです。

それでもう、準備とか、そういったことを考えるのはよして、適当に始めることにしました。こちら()です。

週1、2冊の品出しを目指していたものの、その気力は今のところなさそう。楽しく遊ぶのが目的なので、したい気分の時に、のんびり品出しします。

2018-11-18

ショッピングモールを歩いていたら



ショッピングモールを歩いていたら、夫が「フローズンヨーグルトが食べたい」と言うので、CHACUN SES GOÛTSという店に入ってみる。


ヨーグルトは脂肪分0%。週替りで4種類の味のヨーグルトが出る。完全セルフサービスで、カップにヨーグルトをソフトクリームみたいに巻き、


このカウンターでトッピングを好きなだけ盛って、最後にレジで重さに比例して料金を支払うシステムでした。


2018-11-17

みみず・ぶっくす、あるいは玩具展示室。





長い間、読書とは無縁でした。

今でも「読むためだけの本」は買いません。我が家は一部屋で、本棚も一竿だからです。

その一竿の空間には、海辺で石をひろってくる感覚で、眺めて楽しい本を並べています。好きな人から貰ったもの、紙のやぶれや糸のほつれを補強したもの、子どもがラクガキしたもの、図書館の蔵書印が押してあるものなど事訳はいろいろです。

ところで今年、我が家の蔵書が一竿を超えたのですが、整理する暇がなくてしばらく物置に入れてあったんです。で、この秋休みにそれらを見返していた折、突然《みみず・ぶっくす》に卸すことを思いつき、今日は本屋のヘッダーをつくりました。

オープンは来月あたまが目標。週2,3冊くらいずつ新しい本をアップして、手持ちの在庫がなくなったらおしまい。あとは道端に腰を下ろし、わたしの代わりにそれらを可愛がってくれる物好きな人が通りかかるのを待ちます。


2018-11-14

詩篇の起源






先日、心というものが炎や虹と同じ〈現象〉であると書いたところ、友だちから

うん、立ちあがるものだ
こころは
あれだ
le vent se lève, il faut tenter de vivre
の 立ちあがる感じかな

というメールが届いて、あ、確かに「風立ちぬ。いざ生きめやも」の「風」と「心」も同期していたなと思いました。

この句はポール・ヴァレリー「海辺の墓地」の最終連(第24節)に登場します。地中海を見下ろす丘陵の墓地に坐し、まばゆい海を眺めながら、万物の静止する午後のひとときを「死」の瞑想に費やしていたヴァレリーが、やがて日が暮れかけ、風が立ったその瞬間、はっと「死」を脱して「生」に立ち返るといったシーンです。

Le vent se lève! . . . il faut tenter de vivre !
L’air immense ouvre et referme mon livre,
La vague en poudre ose jaillir des rocs !
Envolez-vous, pages tout éblouies !
Rompez, vagues! Rompez d’eaux réjouies
Ce toit tranquille où picoraient des focs !

風が立つ!. . . 生きなければ!
とめどない気流が私の本を開いてはまた閉じ
波はしぶきとなって猛然と岩にほとばしる!
舞え、まばゆい頁よ!
砕け、波よ! 砕け、心躍る水で
三角の帆がついばむその静かな屋根を!
(ヴァレリー「海辺の墓地」)

L’air immenseがたいへん稀な表現で訳しにくいですが、ピエール・ベール『歴史批評辞典』に「万物は広大無辺の空気(L’air immense & infini)から生まれ、常に動いている。この空気こそが全原理をつかさどる神である」というアナクシメネスの言葉があり、また神学的な歴史観においても度々この言い回しが出てくるので、この詩篇のL’air immenseも世界の極まるところのない様態を表しているのだと思われます。

で、ここから本題。ヴァレリーの有名な言葉に「詩は舞踏であり、散文は歩行である」というのがありますが、この詩篇も、もともと内容面の着想があったわけじゃなく、或る純粋なリズムのー形式(つまり目的のない運動それ自体)を思いついたことがきっかけで書き始めたそうなんです。そして書いては消し、書いては消しを繰り返しているうちに、作品の意図が己れの知らない何処かから出現したのですって  ざっと、5年かかって。

2018-11-13

カモメ・インフォメーション



東京新聞文化欄「私の本の話」に『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』にまつわるエッセイを寄稿しました。『フラワーズ・カンフー』の時はこの手の依頼はすべてお断りした(俳句の話って喋りづらい)のですが、今回は他の詩人たちを紹介する本ということで気楽に書いた次第です。

俳句誌『オルガン』15号に対談「翻訳と制約 〈漢詩〉の型とその可能性を旅する」が掲載されています。「漢詩って、つまりなんなの?」といった話を、「ページ数からしてこれ以上は無理」というくらいの山盛り&駆け足(※自分比)で編集者の北野太一さんと語りました。お問い合わせはメールorgan.haiku@gmail.comまで。記事の小見出しは以下のとおり。

「海外文学としての漢詩」/訓読はインスタント翻訳/漢詩は文語自由詩である/詩を選ぶ/視覚へのこだわり/省略と読み/星雲的な余韻/「ひるね」の視線/一日、一篇ずつ/きっかけ/エッセイにとどまること、ぶつぶつと/連句的な発想/欧文訓読と近代日本語の成立/怒られる?/演奏としての翻訳/本を読まない人生/不安定な定型/プレイヤーとして直感する/こんど

『週刊俳句』第603号に、表紙写真と短文()を寄せています。写っているのは、ここ数年仲良くしている近所の子です。

2018-11-10

夢の縫い目より






さっき岡田一実『記憶における沼とその他の在処』をどう読むかについて考えていて、ふと《夢の縫い目》という言葉を思いついた。

この《夢》は《無意識》と言い換えてもいい。

人は縫い目のない夢を見るが、言葉にされた夢には縫い目がある。岡田さんの句は助詞が縫い目になっているとみた。そこをほどくと、面白いことになりそうだ。



ここで翻って自分はどうかと内省すると、名詞をアップリケのように使っていることが多いような気がする。アップリケを外すと、その下から、擦り切れて、穴のあいた、よく知っている何かがあらわれるのではないか、と。

それにしてもアップリケとは。あまりに垢抜けない。本当は天衣無縫な作品を書きたいのに。でも当然のことながらダ=ヴィンチやブランクーシのようにはいかないのである。

天衣無縫に憧れる理由は、それが反権力のひとつのあり方だからだ。ものを書くとき、人が対峙することになる最大の権力とは、言葉それ自体の力能にほかならない。だから言葉をつかうときは、それが権力への意志という俗情に寄りかかっていないか激しく吟味する必要がある。

言葉によって虚栄を縫い重ねず、恐怖を覆い隠さず、綻びをつくろいもせず、言うべきことさえすっかり忘れて、ただ大空を鳥が舞った跡のような言葉の刺繍を生み出すことができたら。無論これは不可能であるがゆえに  書き手は言葉のもつ権力性から決して逃れられない  イデア足りうるような願いだ。

2018-11-09

虹の一族





心というものを「存在する」とか「存在しない」とかいった議論があるけれど、昔、こんな感じの文章(出典失念)を読んだことがある。

蝋燭は物体であり、炎は現象である。ちょうどそれと同じように、人間は物体であり、心は現象である。

まぎれもなく心は「存在する」。ただそれは、物体のような在り方で把持されるのではなく、むしろ炎や霧や虹の仲間だということ。

つまり、わたしが考え、また感じるとき、わたしとは虹のように存在するのである。

亡き妻の全身重し虹のなか   渡辺松男

2018-11-07

死に至る記念碑





秋の連休は、絵本の整理をした。

整理の最中、あたらめて感じ入ったのが、絵本におけるジャック・プレヴェール使用率の高さ。たしかにプレヴェールって絵が描きやすそうだ。ポール・エリュアール、フランシス・ポンジュあたりも絵筆が伸びるのではないかしら。

孤独、あきらかにかたつむりは孤独だ。あまり友達がいない。だが、幸福であるために友達を必要とするのではない。彼は実にうまく自然に密着している。密着して、完全に自然を楽しんでいる。かたつむりは、全身で大地に接吻する大地の友だ、葉の友だ、敏感な眼玉をして昂然と頭をもたげる、あの空の友なのだ。高貴、鷹揚、賢明、自尊、自負、高潔。

(……)だが、おそらく、彼らは自己表現の必要を感じていないだろう。彼らは芸術家、つまり、芸術作品の制作者であるというより、  むしろ、主人公であり、いわばその存在自体が芸術作品である存在なのだ。

しかし、ここに、私が述べるかたつむりの教訓の主要な点の一つがある。それは彼らに特有なものではなくて、貝殻をもった生物がすべて共通してもっている教訓なのだ。彼らの存在の一部分であるこの貝殻は、芸術作品であると同時に記念碑なのだ。そして、それは彼らよりずっと永く残るのだ。
– フランシス・ポンジュ「かたつむり」

「牡蠣」「軟体動物」「かたつむり」「貝に関するノート」「海辺」  ポンジュの詩はモチーフも、世界との距離感も、とてもいい。

貝殻をもつ生き物たちは、指の先から乳色の汁を出しながら、死へ向けて貝殻を作り続ける。貝殻をもたないわたしたちも、自分たちなりのやり方で〈死に至る記念碑〉を少しずつ巻き上げている  人生というスパイラルを。

2018-11-05

枕詞使用法(2)





小池さんの歌のように、枕詞と被枕詞との接合に工夫や創造があるものを狂歌本からいくつか拾ってみます。

みよしのゝ山もり雑煮春来ぬと湯気も霞みて芋はみゆらん
玉くしけ二きれ三きれおやわんの雑煮に腹の春は来にけり

酒上不埒『狂歌猿の腰掛』『栗花集』より。酒上不埒は恋川春町の狂歌名です。それから、枕詞を新調するという手もありますよね。

かまぼこのいたく思へは夜は猶日にいくたびか身も焦がれつゝ

作者名は失念しました。時間ができたら調べてみます。あと口調が可愛いこんな狂歌。

久かたのあまのじやくではあらね共さしてよさしてよ秋の夜の月

半井卜養『卜養狂歌集』より。この人はさらりとした歌が多いです。また「ひさかたの」といえば、

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも

の正岡子規も。子規って俳句より短歌の方がうまいと思うんですが、業界ではどう言われているのでしょう。〈打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に〉〈今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな〉とか、彼のベースボール短歌はみずみずしくて素敵です。最後に江田浩司『まくらことばうた』から一首。

こもりぬのそこの心に虹たちてあふれゆきたり夢の青馬  江田浩司

2018-11-02

枕詞使用法(1)





談林俳諧には枕詞の変則的技法が少なくないようですが、私が枕詞の粋を最初に理解したのは、

あかねさす翳とひかりのささめごと誰かあなたと流れゆく星   小池純代

という一首でした。「あかねさす」と「ひかり」との間をくっつけない、その一息分の隔たりに、なるほど、風韻とはこうやって醸すのだなあ、と思ったものです。

小池さんには、勤め人の日常風景を枕詞で綴った連作「鹽の人人」というのもあって、こちらは文字通り談林的な枕詞遊びになっています。

ともしびの明石櫻子ひとひらが地に着くまでの眸(まみ)のうつろひ
沖つ鳥「賀茂鶴」の壜傾(かたぶ)けてとふとふとふと鳴く口あはれ
御民(みたみ)われ生ける證(しるし)よ荒玉のタイムカードに載せる日月(じつげつ)
種種(くさぐさ)の業務繁りて疊(たた)なづく靑山通りビジネスビルぞ