2018-11-25

季語という「型」





空から写真が送られてきた。深い青。
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「俳句」12月号に「夜空の星」という記事を寄稿しています。愛用している歳時記を教えてくださいという依頼だったのですけれど、歳時記を愛用したことがないのでそのように書きました。あと「愛用」って響きがちょっと。マテリアリストみたい。自分にとっての俳句とは、狂乱にせよ、はたまた遊戯にせよ、身一つの佇まいです。

ところで季語というのは現実に対応していない(現実との間にずれがある)体系ですが、じゃあ少しでもフィットするように改良すればいいかというと、話はそう単純ではなかったりします。なぜなら「型」とは人のためでなくむしろその逆、すなわちおのれの尺度を人に放棄させるために存在するからです。

芸事でも武術でもそうですが、季語についても一般的に言われる言説はオモテの顔にすぎず、ウラの顔としては主体を変容させるための装置として機能している(さらにその先へゆくと「型」にはオモテもウラもないといった超ややこしい話に至る)。そこが面白いんですよね。