2018-04-30

乳色のミラクル




古屋翠渓『流転』。うれしい。これから少しずつ読みます。

* * *

先日『川柳スパイラル2』のことを書こうとしたら、グリオの話になってしまいました。数句、気ままに引くつもりだったのに。

遠景を小さくたたむ菓子職人  岩田多佳子

浮世絵のように走ってゆく男  猫田千恵子

カレンダーガールだらけだった岬  丸山進

それぞれに異なる味わいですが、構成力があるという点で、いいなあ、と。こういう感じの句を、歌仙で出せたら最高だろうな、とも思ったり。

カメムシに吸われたあとの午前2時  小池正博

この方は2枚目な句が多い。バカを言ってみても、着地が必ずエレガントなんですよ。

やめたひとだけが集まるどうぶつえん  柳本々々

哀しく、可笑しく、怖い。そういえばこの方は『川柳スパイラル1』に、

はろー、きてぃ。約束の地にまるく降り立つ  柳本々々

というごきげんな川柳を出していて、それも好きでした。雪舟えまの近未来感覚が憑依したかのような、乳色のミラクル感があります。春陽堂の公式サイトで5月からはじまる「もともと予報 365日川柳日記(+挿絵:安福望)」も楽しみです。

2018-04-27

田中裕明とお酒・余談





ガムテープ。新しいの買ってきました。早く使いたい。

週刊俳句第575号のハイク・フムフム・ハワイアンは「自由律俳句のスピリット」。ハワイの自由律俳人・丸山素仁について書いています。このひとは古屋翠渓の弟子だったんですね。句集『草と空』を探しているのですが、いまだ発見できず。

数日前、田中裕明の角川俳句賞受賞作である「童子の夢」という題と、そこに収められた〈草いきれさめず童子は降りてこず〉という句とが、酒呑童子のイメージを介して密接に関係していることを書きました。あのあと酒呑童子の俳句はないかしらと調べたら、こんなのが。

雲の峰に肘する酒呑童子かな  与謝蕪村

丹後時代の発句だそうです。これを見て、裕明も大江山に行ったときに詠んでたりして、なんてちょっと思った。

2018-04-26

田中裕明とお酒





田中裕明が「童子の夢」で第28回角川俳句賞を受賞したときの選考座談会(「俳句」昭和57年6月号。この記事の最後に、裕明にかんする部分の抄出あり)を読みました。

出席者は飯田龍太・桂信子・岸田稚魚・清崎敏郎・角川春樹の5名。選考委員たちによる〈春昼の壺盗人の酔ふてゐる〉〈草いきれさめず童子は降りてこず〉の解釈が面白かったので、わたしもじぶんの解釈(鑑賞ではありません。念の為)を少し書いてみます。

〈春昼の壺盗人の酔ふてゐる〉について飯田龍太は「幼いときに読んだ童話みたいなものでもいい、そういうものをフッと思い浮かべた。現実に壺盗人がいるということではなくて、ひとつの想像の世界じゃないかな。…『開けゴマ!』のような世界」と語るのですが、これ、酒中之仙と言われた李白その人ではないでしょうか。具体的には「春日酔起言志」や「山中与幽人対酌」あたり。「壺」も、読んだそのまんま、酒壺ではないかと。

併せて記せば、この句の収録された『花間一壺』では「月下独酌」が巻頭詩として置かれ、裕明と李白との近しい関係が公にされています。さらに『花間一壺』という表現はこの詩の冒頭「花間一壺酒」から来ている。つまり、花の中の酒壺、ですね。

この延長で〈草いきれさめず童子は降りてこず〉の「童子」から、わたしがまずもって連想したのが酒呑童子。百人一首の歌をパロった蜀山人の狂歌に〈大江山いく野のみちのとほければ酒呑童子のいびききこえず〉というのがありますが、このふたつは構図も内容もまったく同じ。すなわち酒吞童子が山に籠って酔いつぶれているわけですよ。おそらく「草いきれ」に潜在する感触の一つには「深酔い」もあるはず。

そんなわけで、この句は岸田や清崎の言うように「難解」ということもなく、また桂や飯田の言うように「童子の夢というタイトルとは関係していない」どころか密接に関係している、というのがじぶんの想像です。「酔い」と「夢」とのコラージュは、きわめて李白的なモチーフでもあります。

典拠(発想源)というのは作者側のプライヴェートな事情なので、読者が意識する必要なんてないし、そこに変に気をとられると一句のふくよかさを却って楽しみそこねてしまいます。でも審査みたいな特殊な場面では、もしかすると本歌取りのたぐいかもね、くらいの留保はあっていい。裕明のみやびさって〈古典にあそぶテクスト派〉の側面にそれなりに由来していますし。

酔ふままに深山に入りぬ蕨狩  田中裕明

2018-04-23

ジャン=マリー・グリオの句集




『川柳スパイラル2』をめくっていたら、こんな作品がありました。

○×の×が正しい○である  津田暹

ここから思い出したのがジャン=マリー・グリオ『俳句カウンター便り』の、

I have a dream
I dream I have
I have
僕が在る夢を見ている僕である

という作品。この句集は装幀がおもしろいので、参考写真を多めにアップしてみます。


表紙についている栞をはずすと、こう。緑色の部分はエンボス加工で葉脈が表現されています。


表紙の折り返し部分を伸ばすと、こう。表紙内側は緑色。


散文と俳句とを組み合わせた序章。クール。このレイアウトだと、どんな俳句を持ってこようと散文の流れを中断させずに、両者を呼応させることができそうです。機会があれば真似しよう。


作品を区切っている図案もよつ葉のクローバー。ハッピー。しかしながら、収録作にはデカダン&アルコールの句がたいそう多かったりします。グリオの物書きとしてのキャリアは『シャルリー・エブド』前身の『ハラキリ』副編集長だったことに始まりますので、フランス人はこの幸福な造本に対してある種の含みを感じるかもしれません。

郵便制度の鳥



新潟の喜怒哀楽書房が発行している「喜怒哀楽」の4-5月号に、第2回目のリレーエッセイを寄稿しています。タイトルは「ふしぎな奥義」。このブログを始めた経緯について書きました。こちらからダウンロードできます。

『川柳スパイラル2』をめくったら我妻俊樹の名がありました。我妻俊樹をはじめて知ったのは歌葉新人賞。あの賞では雪舟えま、謎彦、宇都宮敦、フラワーしげる、斉藤斎藤、笹井宏之、永井祐ほか、おもしろい歌人をいっぱい知ったけれど、我妻さんもその一人。川柳では、こんなのが好き。

かっこいい貝殻のある人生だ
少しずつ思い出してる右の県
殴られるまで五月だとわからない
無はいいな信号待ちのタンクローリー
間からカモメを見せてむすめたち
泣けないな地べたに夜と書かれても

こういった作品を読んだあとに、この方の、

「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている

といった詠風を眺めると、ずいぶん川柳的なもののように感じられたりもします。そんなわけで『川柳スパイラル2』からも一句。とっても短歌的なのだけれど、でも川柳にしてベターだったと言えるような仕上がり。

郵便制度のあんなところにも鳥が

2018-04-09

垣をこぼるゝ花の我家で。




ハワイの日系人はアメリカの中でも特殊な存在で、抑留対象となったのは日系人社会の中心的人物のみ。理由は、農業・実業・知的職業などあらゆる方面において日系人を排除しては社会がもはや成り立たなかったのと、戦争中に15万もの一般人をアメリカ本国へ移送する船を調達するのが不可能だったことなどのようです。

古屋翠渓は富士家具商会という店を経営しつつ、日系人社会の中心的役割を担っていたので、連行は日米開戦後すぐのことでした。

戦争になったのかもう私を捕へに来た  古谷翠渓
ラジオが鳴りつめる戦争とはこうしたものか
キアベの茂る中銃剣にかこまれて行く
暗い中の声が知人の声で監禁されている
キャンプが月夜ではだかにされて並んでいる
捕えられてからのキャンプの月が満月になる

鉄窓にのびあがりのびあがり見る妻も捕はれ来てゐると聞き

最後は短歌。翠渓は歌人としても活動していたので、また機会があればこれについても書きたいです。抑留中は口をひらけばハワイに帰りたいなあとみんなで言い合っていたそうで、戦後、抑留生活を終えた翠渓はこんな作品を詠んでいます。

外の垣にも花の我家でご飯いたゞく  古谷翠渓

うーん。ほんとに佳い句を詠むなあ。この人の作品は、自由律という韻律の、とても素敵な呼吸法を教えてくれる。

2018-04-07

花は終わり、もう葉桜の季節。



●週刊俳句第572号のハイク・フムフム・ハワイアンは「続・荻原井泉水とハワイ」。前回にひきつづき、井泉水とハワイとの関係について書いています。さいきんの日記で引用した古屋翠渓の「ガデュア」と「ペパーの木」の句は、このときの句会に出されたものでした。

●『未明』第2巻に作品を寄稿しています。4月25日刊行です。

2018-04-06

『ポピイ句集』



戦時中はアメリカ各地の強制収容所で俳句の会が生まれ、また句集が刊行されました。古屋翠渓もトパーズ収容所時代、自由律俳句会「ホピイ之会」の『ポピイ句集』に参加しています。

他の収容所で作られた句集はすべて有季定型なので、この会は翠渓が中心となって生まれたのかと想像しましたが、なんと違いました(経緯についてはまた今度書きます)。奥付は1945年1月。一人につき見開き2頁。

松野宝樹は、「巻頭言」で、タンフォーラン仮収容所からトパーズ収容所へ移されてから3年と記している。宝樹は、さらに、「砂漠であろうが貧土であろうが住めば住めるし人の生活のある所に芸術が生れる」と断言し、「[生命の]根強さには頭の下がる尊厳なものがある。その尊厳を代表すると言ふのではないが、この砂漠の中から生れた我々のささやかな句集、この中にも生活のオアシスと熱沙をわたる涼風位は感じて貰へるであろうと思ふ」と期待を表明し、「向上といふことを運命づけられた人間が高きものに、美なるものに向つて道を求めて行く、これも亦人間生命のたくましさであろう。その表れの一ツがこの句集であるといふことにはまちがいひはない」と句集を誇りとしている。一方、後記では(中略)この句集は、「此の且てないアブノーマルな生活を歌つた個々の作句を寄せて見たい念頭から本集は自選輯とした事である」とポピイ之会の方針を纏めている。(粂井輝子「アメリカ合衆国戦時強制収容所内俳句集覚書」)

上の論文に引かれた翠渓の句は次の4つだけ。すごく残念。全部読んでみたい。彼の句集の『流転』という書名は、どうやらこの『ポピイ句集』に掲載された連作タイトルに由来するっぽいです。

1941年12月
月が昇るらしい闇の監視室の鉄窓
天使島
憧れの加州に来たが囚れの身である
ウィスコンシン
大きな力にうちのめされ石を拾つてゐる
テネシイ
夏雲またも行先のわからない旅立ち

2018-04-04

民謡・涙のアロハオエ




戦前の日布時事文芸欄を眺めていて「へえ」と思うのが、俳句・短歌・川柳・都々逸・詩・小説・評論以外に、民謡の歌詞が掲載されること。本当に古い感じの歌詞、新民謡運動っぽい歌詞、「東京行進曲」風のモダンな歌詞などかなり幅がありまして、ここでは都々逸のリズムで書かれた民謡の歌詞を2篇引いてみます。

「砂山」  柳泉

取消しましよとも
言はないうちに
朝の白さに目がさめた

今もほのかに
残つてゐます
やさしい夢の足跡が

そつと抱いても
さらりと逃げて
マナの砂山しのび泣き

わたしが子供時代を過ごした場所も、海からの移流霧がしたたかな町だったので「朝の白さに目がさめた」感じというのはよくわかります。いつもそうなのに、なぜか朝が来るたび胸を衝かれるの。

「島の港」  山川草子

島の朝(あした)はそよ風小風
可愛かをりの花がさく
今朝の入船(いりふね)明日の出船(でふね)
レイに埋れた港ぐち

島の港のしぐるゝころは
マノア夜空に虹が浮く
今宵出船のテープに濡れて
やるせ涙のアロハオエ

そういえば「アロハオエ」ってどんな意味なのだろう?と思って調べてみましたら、英訳で「さらば汝よ Farewell to thee」、仏訳で「さようならあなた Adieu à toi」となっていました。なるほど、そうだったんですね…。知らずに聴いていました。サビの部分だけ訳してみます。

さようならあなた さようならあなた
夏の別荘に籠る美しいひと
出発の前に もういちどやさしい抱擁を
また会えるその時まで

2018-04-03

ペパーの木、風、そして漂白。




わが生活圏ではそろそろ野生のマダガスカルの胡椒が出回ります。それを量り売りで買って、挽かずに粒ごと使うのはささやかな旬の楽しみです。顔を近づけると燻製のように香り、噛めばほんのり甘く、八角茴香や丁子に似た薬効系の上品さ。チョコやケーキ、果物のサラダに合わせてもおいしい。

熱もとれたので昼時のペパーの木に風ある  古屋翠渓

この「熱」はいろんなシチュエーションに嵌る、ふわりと深い表現。じぶんは病気のそれを想像しました。また「ペパーの木」は街路樹や庭木としてポピュラーで、そのざわつきには木陰への愛を謳いたくなる風情があります。

それにしても病み上がりの風というのは、なぜあんなに神聖な儀式めいているのでしょうか。吹かれていると、身体の内側で生命の復活がはっきりと感じとれます。

古屋翠溪には句集『流転』の他『移民のらくがき』『配所転々』といった著作があるようです。強制収容所時代の話を書いた『配所転々』には英語版《An Internment Odyssey》も。或る抑留のオデュッセイア、か。息をのむようなタイトルです。

2018-04-02

眠りに香るガデュア


© Mario Carvajal


ひるねの、わたしも眠れてガデュアのかほり  古屋翠渓

ハワイの午睡を詠った自由律。わあ、いいなあと思いつつも、ガデュアがなんなのかわからない。それで調べてみたところ世界最強の竹でした。綴りはguadua。日本語の情報は乏しく〈コロンビアの竹・グアドゥア〉として紹介されている程度。

画像共有サイトから、ガデュア林の中にある、ガデュアで建てた家を探してきました。建材・家具材としてたいへん有名らしく、こうやって写真で見ると「あ、あれか!」と思います。

© Mario Carvajal

未知のたべもの





調理用バナナというものを調理した経験がなく、お店で見かけてもいつも素通りしていたのですが、先日あまりに天気が良くて気分がうきうきしていたのと、鞣し革のような見た目がかわいいのとで、はじめて家に連れて帰りました。

で、ネットでレシピを調べたら、調理しなくても食べられる赤バナナ(モラード)であることが判明。なあんだ。そんなことなら今まで避けなかったのに…。スマホを持ち歩いているのだし、これからは知らない食べ物があったらその場で調べることにしよう。

淋しくて国民になるバナナかな  岡村知昭