2022-11-26

なにが師匠をそうさせたか





へなちょこ拳法をつづけてかれこれ四半世紀になるが、ここへ来ていったい何が彼をそうさせたのか、急に師匠が剣術だの輪術だの、いろんな武器の使い方を教えてくれるようになった(これまでは棒術だけをやっていた)。ついにこのわたくしも、全てを伝授するに足る人物だと認められたのであろうか。

真意は謎のまま、昨夜も暖房のない薄汚れた道場で剣(に見立てた棒)をふりまわしていた。頭上すれすれを腕で舐めまわすかのように、くるりくるりと剣をまわすにつけ、脳裏にうかぶのはやはり往年のカンフー映画を彩った面々。蛍光灯の侘しい明かりが追憶を加速させる。

と、ここで最近のお知らせです。

(1)週刊俳句第814号に「川村秀憲、大塚凱著『AI研究者と俳人 人はなぜ俳句を詠むのか』を読みながら、秋の休日をすごした」を寄稿。
(2)素粒社noteに高遠弘美編『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』の書評「理知と無心」を寄稿。
(3)セクトポクリット「歳時記のトリセツ」にてインタビュー。
(4)新作『花と夜盗』発売開始。

2022-11-23

幼いころの夢





幼いころ、母は「とるぬり」の羽毛でつくった重さのない掛け布団をこしらえ、これを体に巻きつけて寝なさい、と私をしつけた。この村では夜半に必ず夢を見なければならないから、眠る前にそういった工夫をするのである。

夜ごと夜ごと、母は私のために夢もこしらえてくれた。母のてづくりの夢にはいつでも天球が存在し、無数の星たちが無邪気にたわむれていた。庭に転がっていると思ったら、いきなり浮橋の上を歩いていたりする。波の面をすべり、路地裏をさまよい、海の底に沈んだはずが、はっと気がつくと峰々のすきまから顔を出している。月の裏側で憩っていることもあれば、表側でつんとすましていることもある。そんな星たちと遊んでいるうちに、いつしか夜明けは近づき、大地のすそから朝の光があふれだす。すると星たちは、いっせいに空へ駆け上り、朝日の中へと消えていく。

この村ではだれも夜半に目覚めない。夜半に目覚めるとは、夜の囚われの身となることを意味する。つまり、夢の繭からの帰還者ではないということだ。また夢を欠いた、ただの「眠りに落ち」てしまうと、そこは夜の底であり、しかも死であることが多い。そうなるともう夢を見ることはできないから、そこで永遠に眠りつづけるとのうわさだ。私は一度そのようにして永遠の眠りについた人間を見たことがある。

2022-11-21

夜の織物(茶菓閑話 1)





あるとき友人の家で茶菓の話になって、星の蜜が好物だと話したら、あ、ちょうどよかった!と友人が台所へ駆け入り、桃の花の形にきざんだスピカを、白磁に盛って出してくれたことがあった。

薄青色の小さなスピカが落花に見立てられ、乳色の皿の上にころがっているさまは何とも清潔なもてなしの感じを受けた。胃の腑が綺麗になる気さえした。薄青色のスピカを平らげると、次は薄桃色のそれ、次は橙色のそれと皿が運ばれ、さらに茜、紫、紺と暮れてゆく空の色を追った。丸柳の楊枝をつまみ、お皿の上で、すうっと滑らすように刺して、一粒ずつ口に持っていく。噛めば、春の夜の甘さである。とりわけ、もつれるろれつの感触が、夜そのもののように思えた。

友人が、これはおまけよ、といってからっぽの皿を運んできた。顔を近づけると、皿の底に、あるかなきかの銀砂が濡れている。それは名もなき星のかけらが放つ淡い光であった。わたしはその光を指でつまみ、そっと口にふくみ、息を止めて飲み込んだ。その瞬間、胃液と一緒にすべてが逆流するような感覚に襲われたが、不快はにわかに収まり、涼風がふうわりと胸の奥を抜けたのがわかった。そうして、わたしは自分の体が内側から輝いているのを知った。それだけではない、体じゅうをめぐる血管という血管が濃い墨色にきらめく糸となり、蜘蛛の巣みたいに空へ、そして地へと伸び、しっとりとした大気を搦めとるようにして全方位に織り張られていたのだ。

そうやって、わたしの夜が創られてゆく様子は、さながら洗い清められ、春風にたなびく黒衣のごとく美しかった。しかし、それは同時に自分の死期が迫っていることをも意味していた。なぜなら夜はいずれ消えゆく運命にあるから。わたしの肉によって織り上げられた夜は永遠ではない。わたしはわたしを夜に磔にしたまま死んでゆくのだ。

地平線がほのかに明るみ、どこまでも果てしなく広がっていた夜は少しずつ崩れはじめた。しだいにわたしたちは力を失っていった(実は夜の織物となった人々がまわりに大勢いたのである。夜がこのように創られていることをわたしはそれまで知らなかったが)。ついにひとり、ふたりと夜の世界に別れを告げる者があらわれた。彼ら彼女らが去った後の夜はますます小さくなり、もはや夜とは呼べないものになっていた。そしてとうとう何もかもが見えなくなったとき、わたしは友人の前に座っていた。

「ああ、おいしかった」
「おそまつさまでした」
「他の茶菓もこんなだったらいいのに」

友人は、こんな古い茶菓は、もう誰もこしらえないわ、と笑った。たしかにそうだ、こんなに古くちゃあいけない。

*  *  *

(追記)この春は、星へ来て三年目になるが、友人と知り合ってからは、お茶会といえばいつもこんなふうだ。スピカとは、要するに星の蜜の一種であるが、来たばかりのころは作法がわからず、金平糖みたいに次から次へと口にほうりこんで、通りすがりの老婦人を怒らせたこともあった。あなた方、地球人はスピカのことを何もご存じない、あの蜜の中にはね、星の命が含まれているんですよ、命が入っているってことがどんなことなのか、想像できるかしら、それはね、星が死んでしまうほどの大爆発ですよ。それがどういうふうにして生まれるのかしら? きっと切ない虫のようにうじゃうじゃ集まっているんでしょうよ。それなのにあなた方ったら、何でもかんでも、ぺろりとたいらげてしまうんだもの、かわいそうったらありゃしない。だってさっきも言ったとおりあなた、星が死んでしまうような爆発よ。そりゃ、みんな死んでしまいますとも、でねえ、それでもまだ残っているんですから。それが星の蜜よ。

2022-11-18

句集、刷り上がりました。





朝、ラッシュアワーのトラムに乗り、手すりにつかまっていたら、二日続けて席をゆずられてしまった。

わたしは平生から公共の乗り物で席をゆずられがちな人間ではあるのだけれど、さすがにラッシュアワーに声をかけられるのは稀。とはいえ理由はすぐに推察できた。外見がひどかったのだ。とくに髪の毛がぼっさぼさ。それで具合が悪そうにみえたのだろう。

それで今日からシャンプーを定番のものに戻した。いまはさらさらしてる。あとは服装か。コロナのあいだは全然出かけなかったから、ほんとうに着るものがない。明日買いに行ってこよう。

『花と夜盗』の担当H氏より、本日刷り上がりましたとの連絡。拙宅にも5冊発送ずみとのこと。書肆侃侃房のサイトでご注文いただいた方は発送が遅くなります。刊行記念特典カードの完成はほぼ月末とのことなので、到着は12月初めでしょうか。特典カードはわたしも確認しました。あっと驚くデザインの、たいへん手の込んだものです。冊数限定の特典付き句集の販売ページはこちらからどうぞ。

なにもしない朝





朝おきて、きょうはなにもしない、といいだして、じゃあわたくしもすることがないわ、とこたえたら、きみもすることないのか、といわれた。だからそうよ、といったらきみはうれしげにしてからわらいだしたので、わたくしも、なんだかわらいになった。すると、きみはもっとわらって、もうちょっとうしろむいてみろ、という。

わたくしは、どうしてそんなふうにさせるの? というときみは首のところを指さした、すると、わたくしの首に、かみあとがあることがわかった。わたくしはそのあとをしばらくながめていたが(なぜ?)やがて、それをけずってしまったので、わたくしはそのことをすっかりわすれてしまって、つぎには、なんのことをおもうでもなくなっていた。

そしてふたりで庭へ出て、そこにすわっていた。そのあいだ、わたくしたちはべつべつにものをみた。わたくしたちのまえのほうでは、光がしきりにひらめいている。そしてうしろのほうではわたくしたちはただひとつの影だった。そうでしょう? ほら、枝をおって、ききみみをたててごらんよ。風がうごいている。あのひとたちのように、風にさわぎたてられるのだ。あのひとたちはどこへいくのかしら。あすはきえることばをついばむ鳥みたいに。あさってはまどろんでねたふりをする魚みたいに。そのまたあしたは――そうだね――もうないんだよ!

ああ、びっくりした。わたくしがそういうと、きみは、ぼくもびっくりするだろうと思ったという顔をしたね。そしてふたりとも、じぶんたちのしていることのおかしさがわからなかった。わたくしたちはそれからながい年月のあいだじっと次の朝をまっていた。

2022-11-17

庭の手入れ





しづむもの、いろづく月が来た。

しづむものの庭に「とるぬり」と「こねよき」の花が咲いている。「とるぬり」は鳥、「こねよき」は鐘の形をしている。しづむものは青い土だ。土の色なら赤でも緑でもなく青がいい。青い土は血が欠けていて、これを使うと死者の国のものがよく生る。だから、しづむものは死人返りの種床とも呼ばれる。

死者の国では「ねもみか」や「いよよか」「ふわわわなわ」などの白い花が咲くのだけれど、それらは「白根」と呼ばれて、やはりあちらにだけ生えている特別なものなのだそうだ。死者たちはその花で「ねもみかし」という果実酒を作る。こちらでは発酵しない質の酒だが、驚くほど甘美とのうわさで、それを飲みたいがために死んでしまう者もある。こちらの世界には甘いものが何もないからだろう、人々はしばしばそういう死に方を選んだ。

しづむものの庭からは毎年多くの実の収穫が得られる。だが今年は今のところ「こねよき」が少し穫れただけだ。去年植えた「とるぬり」も実がひとつもなっていないが、これはわざと眠らせてある。「とるぬり」は「とるり」つまり鳥に属する植物で、その証拠に形はもとより、ぎっしり生えた葉のいちまいいちまいが羽根だ。この実がなれば必ず人間を空にひっさらう。植えてから空に連れ去られるのが急に怖くなって、「ねぼけるもの」「うとうとするひとびとよ」「おどろくをゆめみるひとよ」「ひとのまねをしえているもの」の四種類の肥料を買い求めた。どれもそれなりの値段だったが、「とるぬり」が実をつけるまえに、人にして眠らせてしまおうと思ったのだ。花は見たかったので、ぎりぎりまで待った。

三年前に植えつけた「しれとしろ」もまだ実をつけていない。蕾のまま、もうすぐ二年になる。その蕾を見る度に、死んだ父を思い出す。父は生前から、この「しれとしろ」が好きだった。私が父の部屋に行くと、よく父は言ったものである。

「おれが死んだらさ、おまえ、あの蕾の下を掘り起こしてくれないか」
「なんで」
「いいからさ」

理由がわからぬまま七十二歳で死んでしまった。

私は「こねよき」の実をむくと、立ったまま食べた。胸の中から鐘の音がきこえた。

2022-11-15

曇り日のメレンゲ





税務署の帰り、聖ジャンヌ・ダルク教会の前を通りがかる。晴れの日だと屋根も白く見えるので「メレンゲ」とも呼ばれています。

教会のデザインというのは本当にいろいろ。二十世紀のモダンな教会建築を見て歩くのが好き。これはアール・デコ様式。

集英社文芸ステーション「ネガティブ読書案内」第13回は「季節の変わり目でゆらぐとき」。案内人は不肖わたくしです。あの人・この人に聞いてみた、落ち込んだ時のためのブックガイド・エッセイということで、大いにゆらいでみました。

2022-11-14

海で考えている人





さいきんは、夕暮れに海に出る。そして、いしころの上を、走ってみたりして、遊んでいる。


岩の上で、女の人が、なにか考えているようだった。なにも考えていないのかもしれない。どちらでも、わたしは、海で一人であそんでいる人たちが好きだ。

2022-11-06

霧の残り香





秋がくると、空はますます高くなり、やわらかな空気の層にうろこ雲があらわれる。私は風を雇い、生まれたてのうろこ雲を集める。それをざるかごに干して、雲飯にした時のうまさといったら格別なのだ。この時期に収穫した雲は舌ざわりがさらさらで、ほんのりと甘く、挽きたての薄の穂と一緒にふかして食うと、いっそう箸が止まらない。

秋は月も極上だ。中秋の池から掬い上げたばかりのものよりも、竹林などでじっとしずかに、熟れてふくれてきたものの方がはるかにうまい。月は実として熟すると、金色のあばたの内側から、赤い粒々が見えてくる。それを一つずつひねってやると、果肉がぶつっとはがれ落ちる。私はその音が面白くて何度でもやりながら、笑って月の実を食う。しかし祖父のうちの竹林では、熟れすぎの実は食わせてくれないので、私は一人で月の実を採りに行くことを覚えた。

十月になると、流星が釣れる。山間の村だからたくさん跳ねる。それを網ですくう時の快感は言葉につくせない程すばらしいもので、この天の幸をどう料理したらよいか思案するのが日々の楽しみである。しかし今年の秋の流星の数はすくないそうだ。先生から聞いたところによると、かつては一晩に二万も三万と、まるで花火のように爆ぜた時代もあったという。また先生のお話だと、「むかしの大人はみな子供だった」そうで、「むかしの大人は流星を肴に酒を酌みかわしたものさ」とおっしゃるが、私はまだ酒を飲んだことがない。それが許される年頃になればきっと飲むだろう。

十一月になると霧が群れをなしてしのびよる。これがまた、この山あい独特の香りを有し、古来より珍重されているだけに調理法も古式ゆかしい。おひたしにしてもよし、だんごにしてもよし、てんぷらにしてもよし。ただし霧を捕えるのには時間がかかる。木の皮を削って、匂いでおびきよせるとよいと聞いてやってみたこともあるのだが、これはどうもうまくゆかなかった。しかし、この秋はちょっとちがう。いつものように霧が立ちこめるとすぐ、私は月の実の汁をしぼった。それから、手製の竹笛に口をあてて吹いてみたのだ。笛の音が私から離れていく。すると、その音色に絡め取られるようにしてか、霧のなかからふわっと影のようなものが浮かんだかと思うや、みるまに大きくふくらんだ。それは白い大きな綿毛であった。やがてそれが人のような形になってこちらへ近づいてきた。

「あなたが笛を吹くからきちゃいましたよ」

と、そのひとは言った。そうして、

「さあ、いきましょう」

と誘うように霧のなかへと戻っていった。私はそのあとを追った。するとたちまちにして姿が変わってしまった。私たちはさながら霧ととけあった巨大な魚といったところで、しかも泳ぐというよりも滑っていくように進んでいく。霧の粒子を上へ下へと縫うように。

「もうすぐ夜明けです」

霧は言った。私も、そうかな、と思った。手を伸ばし、そっと霧のしっぽを撫でながら。

翌日私は学校に行かなかった。

六時に起き、顔を洗い、髪をとかすと、私は鏡のなかの泣きはらした目をじっと見つめ、こすった。それからお湯を入れすぎたお茶をのみ、霧の残り香でごはんをこしらえた。

2022-11-05

色校を愉しむ





新刊『花と夜盗』の色校がフランスに届きました。

編集者のHさんがわざわざカバーの色校を切って、折って、ためしに束見本に巻いてみてくれたので写真を撮ってみました(手づくりなので拡大すると折り目が少しガタついています)。


見返しと栞紐の色は、カバーの花模様タイルと同じ渋いオレンジに揃えてありました。栞紐は付くと思っていなかったので嬉しいです。花布はグレー。やはりタイルの色と揃っています。デザインは成原亜美さん。


本体も面白い紙をつかっていました。ど、どんな紙?と思った方は書店でお確かめください。11月下旬発売です。

2022-11-03

グレープフルーツと世界





句集『花と夜盗』の原稿は下版に入ったが、まだ特典関係のあれこれをやっている。それがわりと大変な作業でずっと机に向かいっぱなし。それでは体力が落ちてしまうので海に行って歩く。そしてぼんやり考える。

わたしはかつて、世界に向かってグレープフルーツを投げつけるひとになりたかった。

もちろんグレープフルーツにもいろいろ種類があって、それこそ「世界の」というやつもあったっけ、と思ってインターネットでみたのだが見当たらない。あったっけてことはなかろうと思い、もいちど本箱を引っかきまわしたが、やはり見つからなかった。それだけでなく『近代短篇名作事典』などにも載っていなかった。なぜなのかと首をひねるほかない。グレープルーフト(またはリーグフレーフか?)という作家がいてそれが「世界中の」という言葉を生み出したということらしいけれど、「わたしも世界中の……だったんですよ」と言ったところで誰が信じるだろう? だって、いつだって「世界中の」という言葉はまぼろしなのだから。