2022-10-26

この世界には始まりしかない





秋の空は高い。ひさしぶりに午前中からベランダのテーブルでコーヒーを淹れて飲んだ。

さいきん或るネガティブな感情を主題とした文章の依頼がありまして、今日はそれを書いていたんですが、書けば書くほど自分がネガティブ思考にまるで縁がないことがわかって、うすうす気づいてはいたもののまさかここまでとはと驚愕しました。

「ほんとに?あなたよく悲しみについてあれこれ書いてるじゃないの」と思う方もいるかもしれません。が、それはいつもわたしが途中で書くのをやめているから、その文章が悲しみについてのそれに見えるのであって、心の中には常にポジティブな続きが実はあるのです。

たとえば季節の移り変わり。これを嘆き悲しむ習性が人にはある。もちろんわたしにも。ところがたとえ無常観を感じたとしても、すぐさま生来の疑う心が「むしろ次のように考えるべきではないか?」とわたしを促すのです。

失われた世界の代わりに訪れるもの、それは生まれたての新しい世界だ。新しい季節を生きること。新しい時間を生きること。どうしてわたしはそれに喜びを見出そうとしないのか。背後の影が深く濃くなればなるほど、目の前の扉が眩しく輝く現実を見ようとしないのか。始まりは日々訪れる。この世界には始まりしかない。微笑みの扉しか。

2022-10-23

言葉は意味の器ではなく





土曜日は丸1時間かけて海沿いを歩く。曇り空の暖かい日で、女性はミニスカートに素足の人が多く、空だけを見て秋の格好で出かけたわたしは、すっかり汗だくになってしまった。

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ええと突然ですが、作品における言葉の話をします。

わたしは言葉をシンプルに使った作品が好きです。これは「シンプルだけど、その言葉に収まらないことがここには書かれているんだなってことが、しっかりと伝わってくる使い方」っていう意味なんですけど。

で、そういった味わいを初めて実感した作品はなんだっかしらと、さっき記憶を手繰りよせていたんですが、無論思い出せるわけはなく。ただ、記憶にある限りでは『ぐりとぐら』かなあって感じ。

幼児期の本でいうと、松谷みよ子の『いないいないばあ』も好きで、子供のころは9歳年下の弟に毎日のように読み聞かせていたんです。で、朗読するときは、舞台俳優みたいに大げさに「いない いない……ばあ!」と言うんですが、それは言葉の意味を演じていたのでも、心を込めていたのでも全然なくて、小さな弟に「ひとつの言葉からは、その言葉の意味に収まりきらないものが溢れているんだ」ということを伝えたくてそうしていたんです。つまりわたしの朗読が大げさになっていたのは、意味の部分にではなく、それ収まらないものが「溢れている」という部分に対応してのことだった。

言葉は意味の器ではない。言葉はいつも、それ自体に収まりきらないものを盛大にこぼしている。そこに収まらないからといって、別の言葉にそれを託すことはできない。たとえ託したところで、また同じことがおこるから。描写を細かくしても同じ。解決策にはならない。それを忘れてはいけないと思うんですよね。

2022-10-20

新刊句集『花と夜盗』のご案内





来月6年ぶりの句集『花と夜盗』が刊行されます。数日中に各方面での予約がはじまるそうです。

タイトルの『花と夜盗』はかっこいいタイトルにしたくてずいぶん考え尽くしました。ひとくちに「かっこいい」といっても様々な方向性がありますが、わたしがイメージしていたのはサマセット・モームの『月と六ペンス』。小粋です。英語にするとThe Moon and Sixpence。はあ。あかんて。かっこよすぎて倒れそう。こういった方向で、なにかものすごいのないかしらとタイトル候補を見比べていたら、あるとき背後から家人が、

「あのさ『花と夜盗』って英語だとFlower and Burglarsだね」

とおっしゃった。Flower and Burglars。目で見ても、耳で聞いても、悪くない。てか、これしかない。これにしよう、ってことでこれになりました。

で、肝心のメニューですが、メインの俳句連作はかつて雑誌に発表したものもふくめて全編すっかりリニューアルしましたので、どなたさまもまっさらなきもちでお読みいただけるかと思います。またア・ラ・カルトとして連句・武玉川調の俳句・短歌・都々逸などもご用意しました。こちらも気の向くままにつまんでいただけますと幸いです。

表紙カバーは成原亜美さん。どうぞよろしくお願いいたします。

【花と夜盗*目次】

一 四季の卵

春はまぼろし
駒鳥の隣人
ルネ・マグリット式
カフェとワイン
ポータブルな休日
狂風忍者伝
冬の落書き
花と夜盗
胸にフォークを

二 昔日の庭

陳商に贈る
貝殻集
今はなき少年のための
AQUA ALLEGORIA
研ぎし日のまま
サンチョ・パンサの枯野道

三 言葉と渚

水をわたる夜
夢擬的月花的(ゆめもどきてきつきはなてき)
白百合の船出



2022-10-17

幸運な結末





11月はモロッコに行く予定で、7月に航空券も購入ずみだったのだけど、航空会社から一方的なキャンセルの連絡が入った。欠航らしい。どうしてかしら。原油の値上がりのせいかしら。でもちょっとほっとしてる。夏の日本とインドがきつかったので少し家で休みたかったから。あと中途半端になっている新居のリフォームを再開しないといけないし、所用のためにイタリアまで行ってこないといけないし、もしかしたらキャンセルは幸運だったのかも。

句集は刊行日が見えてきた。

今日は来年刊行予定の本のことをぼんやり考えていた。まさか自分がやるとは思わなかった内容のものだ。でも依頼があったとき、自分が人からどう見られているのかつくづくわかった。信じたくないけど信じざるを得ない。だっていつも同じことを言われるのだから。きっとそれがわたしの三つ子のたましいってことなのだろう。

2022-10-08

歌仙「ありのすさびの巻」



『なしのたわむれ』刊行記念歌仙「ありのすさびの巻」が満尾しました。今回は連衆が多かったので出番も少なく、気がついたらできていたという感じです。画像は羊我堂さん作。この本が往復書簡なので、歌仙絵、飛行機、フェルメール、扇、鳥、村上勉、たこぶね、楽器、水辺などなど手紙に登場するモチーフの切手を散りばめてくださいました。加えてニースとハーグと素粒社の消印まで! 羊我堂さんといえば篆刻ですが、こういったゴム印風のものも新鮮です。


冬泉さん曰く「ありのすさび」は『なしのたわむれ』という書名を見るとどうしても浮かんでくる古語とのことで発句に使ったそうです。わたし自身はこのタイトルを思いついたとき、頭のかたすみにも「ありのすさび」はなかったのですけれど。冬泉さんと話していると「積んでるエンジンがちがう!」っていつも思います。

2022-10-06

インド日記その16





帰路。最初の乗り換え地ムンバイの、チャトラパティ・シヴァジー国際空港ターミナル2がとんでもなくかっこよかった。設計はSOM。


搭乗口はこんな感じ。搭乗口ですよ。有料ラウンジみたいな照明じゃないですか。

いまはニースの自宅で、やっとトランクの荷物を全部出したところ。インドは、すごい国だった。あとわたしは、いままでどこへ行っても、ごはんが食べられなくなったことがないのだけど、インドでは後半の10日間、日に一食の状態がつづいた。こんなに食べられなくなったのは人生初。そのせいか脳が疲れている。インドという空間の情報量が多かったのも疲労に関係していそう。

2022-10-03

インド日記その15





コルカタの神保町こと、本屋のひしめくカレッジストリート界隈。青い本屋さんが多くてうっとりしながら歩く。


工学と医学の専門店が多く、わたしの読めそうな本はあまりない。


店の雰囲気が、セーヌ川沿いの古本屋そっくり。パリのカルチェラタンが懐かしい。


世はドゥルガー・プージャーだというのに学生がけっこういた。


インディアンコーヒーハウスを発見したので、休憩しようと思い入った。驚くほど格調高く、まるで映画みたいだった。アイスコーヒーを注文すると甘〜いコーヒー牛乳が出てきた。昔、銭湯の番台で売っていた味だ。

2022-10-01

インド日記その14





ドゥルガー・プージャーの祭りが始まる前日の深夜。


飾り付けのみならず、建物もすべてお祭りのために造られたもので、祭りのあとは解体されてしまう。午前3時なのに人の海。


これが壊されてしまうなんて、と思ってしまう綺麗さ。


建物の内部も凝っている。


ヒンドゥー教の女神ドゥルガーはどれも愛嬌がある顔。ちょっと菊人形を思い出させる。


今年はインド独立75周年だからなのか、チャンドラ・ボースを筆頭とした革命家たちがモチーフとなった建物もあった。縄は絞首刑のイメージ。