2021-06-27

さよならは仮のことばと、きのうきょうの暮らし





前回のブログが消えてしまったので同じことをもう一度書きます。新潮文庫『さよならは仮のことば 谷川俊太郎詩集』の解説を書きました。105篇が収録された新潮文庫オリジナル詩選集です。
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6月21日のブログに剣の術理で波をのりこなすうんぬんと書いたがあれはわたしの完全なる妄想だったようで、その翌日の海で溺れてしまった。いや妄想だってことは知ってたけれどまさか溺れるとは。で、ほとほと懲りてきのうは初心の初心に返り、海に浮き輪を持って行った。いやあ浮き輪っていいですね。歩行器に乗った赤ん坊みたいに自分の実力をはるかにこえた曲芸ができる。きのうはラッコが水の上でくるくる回転するみたいにくるくると遊び倒した。そして日曜日の朝、つまり今朝は『短歌研究』6月号を読む。正岡豊さんによる穂村弘『シンジケート』評が80年代の橋本治を降臨させた文体で、読み終わるやいなや滂沱として涙を流しながら(ウソ)橋本治訳『枕草子』を引っぱり出してくる。ほんとは『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』を読みたかったけど手元にないのだ。そのあとつづけて渡辺祐真さんの俵万智全歌集批評に目を通す。引用歌のバランスなど、俵万智入門として見晴らしがいい。解説を追いながら、俵万智の言葉遣いの平明さにあらためて感じ入る。

2021-06-21

剣の術理で乗りこなす波



「ほぼ日通信WEEKLY」の巻頭エッセイを書きました。下のツイートを見ると22日火曜日(明日ですね)午前中までに登録した方のみ読めるみたいです。わたしもさっき覗いてみたんですが、試し読みのコーナーに柳家喬太郎氏のインタビューが載っていて、ちょっと得した気分。


日曜日は朝から立ち泳ぎで波乗りをして、帰宅してから前田英樹『剣の法』を読む。もしかしたら新陰流の術理が、波乗りの参考になるのでは?と思って。波にそなわる縦回転の円運動との引き合いとか、波に身体を斬らせるときの上手い角度とか、また反対に波頭に斬られないようにして懐に潜り込んでゆく動作とか。チューブライディングみたいな世界とくらべたら、わたしの遊びは赤ん坊の次元だけど、それでも考えることがいっぱいあってたのしい。今日は夏至なので午後の遅い時間に泳ぎに行こう。

2021-06-19

手をオカリナのやうに過ごした





今年はじめて海で泳ぐ。これから2ヶ月間、毎日泳げると思うと幸せすぎる。海に入ると、かんたんに瞑想状態になれるのもうれしい。陸の上ではこんなふうにはいかないから、水の力ってすごいなって思う。

さいきんはずっと考え事をしていた。こんなに考えたの何年ぶりだろうってくらい。何を考えてたのかというと「いい文章ってどういうふうにできてるんだろう?」ってこと。こんなことを考えるなんて頭が変になっていたのかも。人の話もきいてみようと思い、保坂和志「小説的思考塾vol.4」も視聴した(すごくよかった)。

そういえば、喋っている保坂和志さんを見るのってその日が初めてだったんですが、声や喋り方に違和感がなさすぎて、見終わるまでそのことに気づかなかったんですよ。絵描きはそんなことないのに、物書きが話しているところを目撃すると、ときどき「え?」ってなりますよね? なりません? 想像してた声との違いにたじろぐというか。彼らは「語る」のが仕事だし、文体というのはフィジカルなものだから、読み手はなにかしらの声をあらかじめ強く思い描いている。村上春樹の声と喋りを初めて聞いたときなんか、もうわたし、びっくりどころじゃなかったな。

D連句は雑の短句。いつもどおりわしゃわしゃっと書いて、ちょうどいいのをメールで送る。

うそもほんとも鳥だつたころ
雲雀を燃やす木々のたてがみ
寝息のにじむ古き絵葉書
色を失くせし虹の嫁入り
タイムマシンの静かなる夜
手をオカリナのやうに過ごした

2021-06-08

消えざる朝のやうな幕引き




新潮7月号にエッセイ「漢詩を読む、水のほとりで。」を書きました。あと週刊俳句第737号に【小津夜景✕西原天気の音楽千夜一夜】が掲載されています。

週刊俳句の記事に「三大ギフト・ショップ・ミュージシャン」という言葉が出てきますが、クラシック音楽にはまた別の定番があって、わたしの知る限り(わたしの行く場所が偏っている可能性は大いにあり)ミュージアム・ショップで最も見かけるCDはフォーレです。ドビュッシーでもラヴェルでもなく。

D連句は雑の短句が回ってくる。今回は軽く付けすぎたかも。

消えざる朝のやうな幕引き
このあたりでは見ぬ影法師
風生む日々のカタストロフィー
負けた地球がやけに明るい
風のしじまに骨をうづめる