2018-11-10

夢の縫い目より






さっき岡田一実『記憶における沼とその他の在処』をどう読むかについて考えていて、ふと《夢の縫い目》という言葉を思いついた。

この《夢》は《無意識》と言い換えてもいい。

人は縫い目のない夢を見るが、言葉にされた夢には縫い目がある。岡田さんの句は助詞が縫い目になっているとみた。そこをほどくと、面白いことになりそうだ。



ここで翻って自分はどうかと内省すると、名詞をアップリケのように使っていることが多いような気がする。アップリケを外すと、その下から、擦り切れて、穴のあいた、よく知っている何かがあらわれるのではないか、と。

それにしてもアップリケとは。あまりに垢抜けない。本当は天衣無縫な作品を書きたいのに。でも当然のことながらダ=ヴィンチやブランクーシのようにはいかないのである。

天衣無縫に憧れる理由は、それが反権力のひとつのあり方だからだ。ものを書くとき、人が対峙することになる最大の権力とは、言葉それ自体の力能にほかならない。だから言葉をつかうときは、それが権力への意志という俗情に寄りかかっていないか激しく吟味する必要がある。

言葉によって虚栄を縫い重ねず、恐怖を覆い隠さず、綻びをつくろいもせず、言うべきことさえすっかり忘れて、ただ大空を鳥が舞った跡のような言葉の刺繍を生み出すことができたら。無論これは不可能であるがゆえに  書き手は言葉のもつ権力性から決して逃れられない  イデア足りうるような願いだ。