2020-12-01

「作者」あるいは「作品」とは何か





「読む」ことをめぐるタームの、今日的使用に関する違和感として、「つながる」という言い回しが幸福詐欺の様相を呈するほど安売りされているといった状況がある。曰く「作者と読者とがつながる」、「作品と読者とがつながる」、「作品を通じて〇〇とつながる」、うんぬん。こうした言い回しにはいったいどんな効用があるのだろう?

そもそも「つながる」ことはそんなに手軽なのだろうか。読み手と書き手の共通基盤を「つながる」という発想以外のやり方で築く者はいないのだろうか。これはいちゃもんではない。私自身がものを読んでいて何かとつながったと思うことがないため、純粋に不思議なのだ。

「読む」ときにまずもってわたしが実感すること、それは果てしなさである。追いかけても追いかけても作者に、あるいは作品に手が届かない、といった無常の感覚である。私にとって作者ならびに作品とは、決して抱き合うことのない、いつもこちらに背中を向けている存在のことだ。

なにかの一節が頭をよぎるたび、「ああ。これを書いた人はもういないんだ!」と驚愕する日々。「過去の作者や作品も、さらに昔を生きた作者や作品を追いかけていたんじゃないかしら?」と想像する日々。いまは、それらの背中をわたしが追いかける番らしい。過去へ向かってわたしは駆け出す。するとわたしはまた一歩未来へ近づく。わたしたちがいつか巡り会うだろう場所、その共通基盤は死だ。

たが魂ぞほたるともならで秋の風  横井也有

ときおり、わたしの追いかけているものが遥か彼方ではなく、肌を撫でるほどそばに感じられる瞬間がある。掲句は、蛍として完結することも聖化することもなく、死んでなお秋風となってさまよう魂が、わたしには「作者」や「作品」の化身のように思われた。もっとも肌を撫でるほど近くにあっても、風は人と「つながる」ことはなく、目の前を一瞬で吹き抜けてしまうのだけれど。

引用は横井也有『鶉衣』より。
(ハイクノミカタ)