2016-11-14

野遊び、きゅんと。



(しおたまこ「ひとり文化祭」より)

11月13日のブログで小池純代の「ありたれいしょん歌留多」を折句と書いたのですが、あのあと「この作品、折句という呼び方で良かったのかな?」と不安になりました。頭韻を揃えているだけだから。こういうシンプルな疑問をぶつける相手がいないのは不便です。

しょうがない。過去はきれいさっぱり忘れることにして、折句の話をつづけますと、小池純代に「野遊び --- the Japanese syllabary steps」というの別の連作がありまして、その冒頭が

あひみてのいまはうたかた泡沫(うたかた)のエスプレッソに面(おも)伏すパティオ   小池純代

という歌(泡は旧字体)なのですが、いかがでしょう、カフェでうつろなひとときを過ごす男女のこの描きっぷり。つかのまの逢瀬、うたかたのリフレイン、泡立つエスプレッソの修辞、面伏すのが人でなくパティオであるがゆえの、感傷の抑えられたアンニュイ感。死にそうなほどきゅんときます。一読で痺れてしまった自分は真似したい気持ちを抑えきれず、さっそく

さるびあに痺れる指(および)すべからく世界は意味にそびえたつべし

という折句を書きました。しかしこれだと前後の意味関係がいかにもとってつけたよう。および、という読みも青臭い。で、どうにかしたいなあと思いつつ長いこと放置していたんです。それがある時、俳句にしたらいいかもとひらめいて、

さるびあに痺れし指を陽に吸はす
すべからく世界よ蟻にそびゆべし

こんな風につくりかえてみました。が。短歌の時よりはましになったものの、やはり魅力不足。まだまだ直したいですが、これ、手元に置いたままだと思案の袋小路に入ってしまいそうなので、いったん執着を断つためにブログに出してまうことにします。