パリにいたころ、大学が無料だと知って、最寄りの学校にもぐりこんでみました。
入試問題は「文学にとって真実とは何か?」という一問のみ。正直わたし、このときはじめて文学に〈真実〉という研究テーマがあることを知ったんですよ。で、入学してからも〈真実〉をめぐる講義がいくつもある。本気で驚きました。なにゆえ〈真実〉なんてけったいなものがかくも盛んに研究されているのかその理由が全然わからなくて。とはいえ柄谷世代なので〈私〉や〈内面〉の発見が近代文学の起源であることはかろうじて知っていて、これを頼りに〈私性〉によって文学が勝ち得たものについて考えてみたところ、そのひとつがマニフェスト性を強く帯びた〈真実〉であることに気がついた。
個の感受性をひっさげた〈私〉というパフォーマーは文学にかけがえのない〈真実〉を組み込むことに邁進します。またそれによって文学ははじめて〈公共性〉に拮抗する地位を得ました。いわゆる「政治と文学」の図式です。
短歌においても〈公共性〉に対抗する〈私性〉をどのように創り上げるかは各人の腕のみせどころ。とりわけ塚本、岡井、寺山、葛原など戦後すぐの歌は31文字という微妙な尺に〈私性/真実/公共性〉の虚実を折り畳むさまざまな試みとして捉えられ、今もってその価値を失っていない。で、この話のオチはですね、その試みの現在地が斉藤斎藤の短歌なのかなと思っている、ということ。はい。