2024-06-12

古典を読む人生とは





帯状疱疹の病状はまあまあ。腫れは引いたけれど痛みは残っているので、だいたいの時間を横になっています。そうすれば痛みが和らぐので。

最新号の『すばる』は「古典のチカラ」特集。わたしもエッセイを寄稿しています。古典といってもカノンの話はしたくないので、「昔の作品=なんでも古典とみなす」と断った上で思っていることを書きました。

わたしはナイーヴな啓蒙にはうんざりする質だし、古典を読む行為を教養に結びつけたくもないので、今回のエッセイも古典を語ることで生じかねないある種の「力」を無効化するために断章形式で対処したのですが、それでも古典を読むコツをきかれたら「できるだけ多くの先行研究を読むこと」と答えるしかないと思っています。古典を読むことと学ぶこととは切り離せない、自分の勝手な想像だけで読もうとしたところで古典の肉は噛みきれないし、一人の人間が考えられることなどたかが知れている、わたしたちは解釈のバトンを受け継いでようやく今ここに至っているのだといった認識は前提として必要だろう、と。

あと古典を読むとは「テキストを読了すること」に価値を置かない人生を送るということでもあります。つまり古典と付き合うことは必ずや生き方の次元にかかわる。生き方そのものが変わる。この世の中が「本を読み終えた」という台詞を口にする人間だらけになったのって古い話じゃないですよね。なにしろ印刷技術と出版流通システムの普及なくして読書を娯楽にするなんてことは不可能なわけですから。本が貴重だった時代は誰しも同じ本をくりかえし真剣に読んでいた。そういった意味で、読書の歴史は読者の生き方の歴史でもあるでしょう。