2024-04-02

柩となりし船と船とは





『九重』5号掲載の高山れおな「百題稽古 其三のうちの恋」は六百番歌合の題で組題百句を作ってみせるという趣向。これが華やかでありながら軽い。まるで見えない部分に金糸が縫い込まれているかのような、ワインでいうならブルゴーニュかと見せかけてロワール地方の味わいをもつ連作で、それが川のように滔々と流れていきます。

寄絵恋 金地戦闘美少女図襖とはこれか

いわゆる「とはこれか」俳句。この型では冒頭にどんな言葉をもってくるかが見所ですが、いきなり初句七音で「金地戦闘」は超ゴージャス。中八「美少女図襖」の音密度の高さや文節の切れ方もよろしく、いよいよ期待を裏切らない。で、結句は驚きと呆れを含みつつ、すこんと抜く。雅俗の交雑が文句なしの句。

寄鳥恋 川波や夢みよと恋教へ鳥

「恋教へ鳥」(セキレイの古名)の句跨りと体言止めが雅趣たっぷり。初句「川波や」も痺れます。この語のイメージの弱さ、儚さ、ありふれた感じがかえって切なさを煽るんですよ。またこの句の場合は「恋教へ鳥」の印象が浮き出るようにするという意味でも初句は立てない方がいいですよね。川、波、夢、恋、鳥といった月並みな名詞をずらりと並べて優雅に踊らせてみせる技量もたまりません。

ちなみに『九重』5号には高山れおなインタビューも載っています。聞き手は「月刊狂歌」編集部の花野曲。月刊狂歌って…んな阿呆な。まあ冗談企画ですけれども、題詠と俳句の相性についてなど得心する点が数多く、読み応えがありました。

佐藤りえ「恋すてふ 贋作恋十二題」は高山さんの趣向をさらにひねり、詞書にさらに俳句を添えた短歌連作。

漂恋 月の夜の蹴られて水に沈む石 鈴木しづ子
追憶のついぞ変わらぬ水の上補陀落渡海の船を寄せ合う

死の国に旅立つのに、船を寄せ合う。なんというむなしさでしょうか。りえさんは俳句を書くときと短歌を書くときとで人格の現れ方がはっきりと変わる書き手で(これはもちろん詩形の側にその原因がある)、俳句のときは立体デザイナー的な感性が全面に出る。読者としては知的な喜びを感じます。かたや短歌は本音を聞いているような読み心地で、いかなる本音かというと、それは虚しさです。りえさんの短歌はしょっちゅう虚しい。でもこの歌を読むと、その虚しさこそがついぞ変わらない水の上の追憶を輝かせていることがわかります。それぞれが個別の追憶を生きながら、孤絶を抱えながら、遠く流されながら、柩となった船と船とは、それでも触れ合おうとするのです。

寄橋恋 踊り疲れて白夜を帰る橋がない 永井陽子
船形のお菓子を買って帰る宵 橋の嘆きをたしかに聞いた

「嘆きの橋」(ため息橋)といえばヴェネチア。この呼称は、犯罪者が投獄される前に見るヴェネチアの最後の景色がこの橋の上からであるために、彼らが深いため息をつく橋としてバイロンが『チャイルド・ハロルドの巡礼』でBridge of Sighsと呼んだのがその初め。で、それをひっくりかえし「橋が嘆いている」設定にしたのがこの歌。思うにこれは、地元では日没時、この橋の下でゴンドラに乗り、恋人同士が接吻を交わすと永遠の愛が約束されるという言い伝えがあるから。語順を逆さにするだけで、言い伝えに反する恋人たちの運命を見続けてきた橋の呻吟が聞こえてくるというトリックアートが面白い。それにしても舟形のお菓子の霊力ってすごいんだなあ。