2024-04-05

私たちは今なお歩みを止めない





冊子「書肆侃侃房の海外文学」に書評「私たちは今なお歩みを止めない」を寄稿しています。取り上げたのは高柳聡子著『埃だらけのすももを売ればよい ロシア銀の時代の女性詩人たち』です。企画展風に、じっくりと詩を鑑賞することのできる本でした。

廬を結びて詩境のはずれに在る身としては「女性詩人」という言葉を聞くたびにむず痒い気分になります。けれど「女性」というカテゴライズを外してただ「詩人」と呼べばこの問題が綺麗に片付くかというとそうではない。なぜならわたしたちは、ただの「詩人」として発想すると同時に「女性詩人」という軛の中で書くことの意味を考え抜いてもきたから。つまり「女性詩人」という概念は、そう名指される側からすると「自由と軛とをめぐる省察」の歴史そのものであり、そこには今後も記憶・継承すべき言説がたんまり存在する。「女性詩」という概念の破棄を目指しつつも歴史は忘却しない。概念の彼岸へと、わーいと手ぶらで走っていくのではなく、道中のしかばねに献じる花籠を抱えるのを忘れないようにしたい、そんなふうに思います。

ところで、話は変わって先週のことなんですが、編集者のKさんと喋っていて『源氏物語』の話になったんですよ。で、思わず「わたし、紫式部に私淑してるんです。石山寺まで彼女の参籠した部屋を見にいくくらい。エッセイを書いていて行きづまるたびに彼女のことを考えます。彼女だったらどう書くだろうって」と言ったんです。すると「小津さんから紫式部の話を聞いたのって初めてかも。そんなに好きなんですか」とKさん。「はい。デビュー作の冒頭も『紫式部日記』を物真似しちゃってます。なんの文学的仕掛けでもなく、ただ自分の気分を上げるだけのために」とわたし。そんなわけで、ええと、こんな感じ。

秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、おほかたの空も艶なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。(『紫式部日記』)

ふみしだく歓喜にはいまだ遠いけれど、金星のかたむく土地はうるはしく盛つてゐる。たちこめる霧。うちともる吾亦紅。水にせまる空木のえだぶり。やすらぐ鳥の葉隠れのむれ。眼に見えるものはいつでも優しげだ。鳥は暗い音色で呼ばひあふ。そのかすかなのどぶえが静かな朝の空白にこんなにも息吹を吹き込むものだから、誰もゐないはずの庭は記憶に呼び出されたまれびとで今やおびただしい。(小津夜景「出アバラヤ記」)