いったい対話とはなんぞや……って考えたことありますか? わたしは昨日はじめて考えました。
というのは昨日ですね、一方の発言に対して他方が補足したり、疑義をはさんだりしつつお互いの共通認識を目指し、ついになにかしらの結論ーー結論などはないといったよくある結論も含めてーーに至るといった、いわゆる正反合のステップをどこかしら前提とした対談をいくつか立て続けに読んで、わたし、これは対話ではなくロマン主義的な見世物だな、と思ったんですよ。弁証法って法廷劇、つまりスペクタクルですから往々にして観客目線なんですよね。いきおい対話者たちも自意識過剰になって、どこか嘘っぽい。
わたしが「対話って、ほんとはこうじゃないかな?」と思うイメージは、かんたんにいうと禅問答みたいなものです。すなわち、語りえないものを語るための問いを奏でるあそび。対話者同士のあいだでしか通じない独創的な言語をこしらえるあそび。正面からではなく、斜めから覗きこむあそび。もちろんこうした流儀は、第三者の目には、対話者たちがお互いの話をろくすっぽ聞いてないように映るでしょう。でも対話者たちがお互いの世界に対してひらかれるとき、それ以外の世間に対してとじてみえるのはありがちなこと。ほんとはとじてなんかいないどころか、ほとんどあけっぴろげなんだけど、対話者たちが遠くの星にいるように感じられて、観客は、ぽかん、としてしまうわけです。