2021-01-07

わたしは漢詩が好きなのかについて





こんにちは。以下乱文です。

わたしのことを漢詩がものすごく「好き」な人だと思ってくださる方が驚くことに少なくないのですが、ええと、これ言っていいのかなあ、ほかの何かよりも漢詩がとくべつ「好き」だったりはしないです。そもそも漢詩の本を書くことになったのは編集者に提案されたからで、なんども断った(自分にできるわけないと思った)末の決断でした。もちろんなんだって、やると決めたら一生懸命やるわけですけど。

俳句も同じで、超厳密にいえば「好き」とは違う。貴重なのは「何か」との出会いそのもので、もしかしたら「何か」自体は別のものでもよかったかもしれない。でね、どんな「何か」もいざ始めてみれば頭をつかうし、自分がいまどこにいるのかも知らないといけないし、そういった「何か」が引き起こす心のうごきや世界のひろがり自体が面白いんですよ。

ただいっこ蛇足を書くと、わたしには幼いころ本に生かされた経験がある。わたしの人生における決して多くはない宝物が、本との出会いだったりする。佐藤さとる『だれも知らない小さな国』とか。で、本を読むとはどういうことなのか、それが人生でどれだけかけがえのない財産になるのかを知っているから、その自覚を打ちこわしたくないという思いが強烈にあるんです。

この世には本をたくさん手にすることのない、もしかしたら一冊しか読まないかもしれない人が、いるわけですよね。わたしもまかり間違えればそうなるかもしれなかった一人ですし、いまも色んな事情があって碌に読書していません。その自分が「これが誰かの、たった一冊の本になるかもしれない」と思いながらキーボードに向かっているとき、そこに「わたし」なんていないし「好き」もない。『いつかたこぶねになる日』を書いているときにあったのは、自分の胸の中を照らしてくれている本たちへの感謝と、自分もまた誰かの胸にともしびをともせたらというひそかな願いでした。